青の深淵
二人ぼっちが生み出すもの
09 存在


 謎の知的生命体は、時々ごろんと寝返りを打ちながら、昏々と眠り続けている。その間、私たちも二度眠った。つまりこの青緑の小さな生きものは、私たちの体感的に三日ほど眠り続けていることになる。

「これ、大丈夫なのかな?」
「腹減ったら起きるだろ」
 投げやりな拾い主に倣って放置している。確かに、お腹が減ったらそれなりのリアクションをするだろう。
 一応自分たちが食べている赤い実をひと匙、赤い実の種の殻に入れて近くに置いてみた。匂いにつられて起きるかと期待したけれど、完全無視で爆睡中だ。ちなみに黄色の実で試しても同じで、ほんの一瞬、鼻をひくひくさせたものの、やはり目覚めることなく爆睡続行中。



 その日、どういうわけか朝から彼がまとわりついていた。

「のぞみ、本当になんともない?」
「なんともないけど……だからなんで?」
「ん、なんともないならいいけど」
 目覚めた瞬間からこのやりとりが続いている。すでにこの会話も三回目か四回目だ。いくら理由を聞いても言葉を濁して誤魔化される。

「今日は出掛けないの?」
「んー、ちょっと休憩。ここんとこ結構森の奥まで入ってたから、今度は近場を見ておこうかなって」

 この家の扉を一歩表に出ると、右手に泉、左手には赤い実のなる木がある。黄色の実がなる木は、最初に見つけたもの以外にも二本ほど見つかっている。ただし、赤い実の木は最初に見つけた一本以外は見つかっていない。
 木々には様々な葉の形があり、それは地球の木にどこか似ている。けれど、少し太めの枝を切ってみると、そこに年輪はなく、まるで草の茎ような断面。それでいて地球の木同様堅い。そして断面からこれでもかと透明な水が滴る。
 下草も見慣れた雑草に近い。芝のような細長い草だったり、クローバーのような三つ葉もある。
 ただ、どの木もどの草も花が咲いていない。どうやって実を付けているのかがよくわからない。虫すらいないこの場所では、花を咲かす意味はないのかもしれない。

 彼はかなり森の奥まで入り込んでいる。森はどこまで行っても森らしい。一度野宿しながらそのさらに奥まで確かめに行くべきかと、どちらかといえばやる気のない声で呟いていた。
 どちらにしてもこの世界に「人」は私たち以外存在しない。未確認だった知的生命体がトカゲもどきの時点で、お互い口に出さずとも積極的に関わろうとは思っていない。

「あのさ、どこかでごついツタじゃなくて、もっとやわらかめのツタって見なかった? こう、木に絡まってるっていうより、草みたいな感じの」
「なんで?」
「んー…、このツタがごつすぎて履き心地悪いのかと思って」
 形はなんとなくそれなりのものになっているのに、履き心地がとにかく悪い。ふっかふかの中敷きが必要なほど、微妙なごつごつが足の裏のツボを刺激して、ものすごく痛い。
 その痛みを与えるサンダルを指させば、ああ、と呟きながら納得したような顔になった。彼も何度か試し履きしているので、その痛みは共有されている。

「じゃあ、このあたりでなんか探してみるよ。あんまり意識してなかったから、下向いて歩いてなかった」
「私も一緒に行こうかな」
 そう言った途端、朝食の赤い実を食べる手が止まり、ぎょっとされた。

「のぞみは家にいなよ、気付いてないだろうけど、きっと具合悪いから」
「別に悪くないけど……」
 おでこに手を当てても頬に手を当てても熱があるようには思えない。頭が痛いわけでもなければ、お腹が痛いわけでもない。目眩も吐き気もない。至って健康だ。

「あのさ、今朝から何を心配してるの?」
「あー……」
 なんとも情けない声を上げて、そのまま気まずそうな顔で黙り込んだ。言いたくなさそうに見えるけれど、そこに自分が関わっているなら訊かずにはいられない。
 目で、はよ言え、と訴えていると、諦めたかのようなため息をつかれた。

「あのさ、たぶんのぞみ、生理中だと思う」
 またこいつは変態発言を。大体そんなわけない。それに気付かないほど間抜けじゃない。

「ちがっ、べつに変な意味じゃなくて、そのままの意味だから! だから言いたくなかったんだよ……」
 変態の情けない声がどんどん尻窄みになっていく。
 その変態が言うには、いわゆる性的生理現象は結晶化も固形燃料化もせず、エネルギー化するらしい。

「つまり?」
「今朝からのぞみのお腹あたりがきらきらして見える」
 なんという屈辱。他人に知られたくないことが、本人も気付かないうちに知られているとは。
 咄嗟にお腹を押さえて、見るなとばかりにきつく睨めば、なんとも情けない顔で無意味に謝られた。

「ごめん」
「そのごめんって、なんのごめん?」
「なんとなく謝っとけばいいかなのごめん」
 まあ、そうだ。別に彼が悪いわけじゃない。

「ってか、なんでわかったの? 頭に浮かんだ?」
「イエ、ジッタイケンデス」
 まるで片言のようなそれに、なんとなく事情を察した。男子も色々大変だ。

「ごめん」
「そこで謝られると、余計にくるんだけど。それだってなんとなく謝っとけばいいかのごめんだろう?」
「どっちかといえば、余計なこと暴いてごめんのごめん」
 暴かれた男子が大げさなほど脱力した。スプーンがからんと音を立ててテーブルに転がる。大げさな。心なしか顔を赤くした彼をなんの気なしに見ていると、見るなとばかりにキッと睨まれた。もしや私が睨んだことへの仕返しか?

「それで、のぞみはなんともないの?」
 咳払いひとつで立ち直った彼が、気を取り直したようにスプーンを手にし、再び赤い実を口に運ぶ。

「なんともない。なんにも感じない。言われなければ気付かなかった」
 ほっとしたようにその表情を和らげた彼から、「のぞみは軽い方なのか」という、いらぬお世話が聞こえた。無駄に女子事情に詳しいのは、あの高校はある意味全員が幼馴染みだったからか、あらゆることが驚くほどオープンだったせいだろう。

「もしかして言わない方がよかった?」
「むしろ事前に知らせてほしかった」
 そう言えば、またもや情けない顔で「言いたくなかったんだよ」と返される。まあ、自分からは言いたくないだろうなと察して、「それもそうだね」と返すと、さらに情けない顔になった。

「のぞみって、経験ないくせにそのあたりの知識はきっちりあるんだね」
 経験ない──咄嗟に否定しようとして、見栄を張っても仕方がないと諦めた。今まで彼氏がいなかったことがバレている以上、見栄を張っても無駄だ。

「そりゃそうだよ。友達には経験者だっていたし。女子だってそれ系の話は盛り上がるんだよ。聞いているうちに知識は増えるでしょ」
「そっか。うちの高校には仲いい子いなかったから、つい友達いなかったような気がしてた」
「一応それまではそれなりにいました」
 むっとして言い返すと、ごめんごめん、と軽く返された。けれどそのごめんは、さっきのごめんとは違って本当に悪かったと思っているのが伝わってきて、軽く言われたにしてはちゃんと謝罪に聞こえた。



 結局、時々きらめくお腹周りは気にしないことにした。彼も見て見ぬふりをしてくれるそうだ。そこで「見ない」と言わないところが彼らしい。何がどうなってきらめいているのかはわからないながらも、自分でも意識して見ていると、時々光の加減でそう見えたかのようなかすかなきらめきが、薄らとした湯気のようにふわっと立ち上ってはあっという間に大気に混じる。
 それまであった鈍い痛みも不快感も一切ない。本当に言われなければ気付かなかった。

「俺たちがここにいる意味、たぶん、こういうことなんだと思う」
 下を向き、蔓性の草が生えていないかを爪先で草を払いながら歩いている彼が、ぼそっと呟いた。その横を同じように下を向いて歩きながら、なんのことかと首を傾げる。

「俺たちの存在が、ここに棲むものに影響を与えるんだ。俺はこの世界そのものみたいにこの世界と繋がっていて、のぞみはこの世界の一部と認識される」
「それって、例の、頭に浮かぶ感じの?」
「そう」
「ここって異世界じゃないの?」
「別の世界って意味ではそれに近いけど、異世界ではない。どっちかと言えば平行世界とか、別の惑星って感じかな」
「太陽系の?」
「どうかな。ただ、ファンタジーな世界じゃない。ちゃんと、なんていうかな、地球との繋がりがある場所だよ。俺はそのための人柱だし」
 なんとなく、彼が何かを誤魔化したような気がした。最後は、なんとなく突き放したような言い方だった。

 そういえば、どうして彼が人柱となったのか、それを聞いたことはなかった。訊いていいのかがわからない。ただ、彼は訊かれたくないと思っているような、そんな気がした。

「影響ってどんな?」
「たとえばさっきの話。俺が精子をエネルギーに変えると、この世界でもオスの性が活発化する。のぞみが生理になったり排卵したりすると、メスの性が活発化する」
 感情のこもらない声で淡々と話されているからこそ、そのまま耳に入ってきたけれど、よく考えるとそれはかなり気持ちの悪いことだった。

「なんか、それって気持ち悪いね」
 思ったことをそのまま伝えると、横で頷く気配がした。

「俺さ、子供の頃から呼ばれているような気がしてたんだよ、この場所に。本当は、時が来たらここに来ることもわかってたんだ」
「じゃあ、あの異世界トリップ話は嘘ってこと?」
「嘘じゃないけど、本当でもない。──のぞみは、怒る?」
 淡々と話され、淡々と訊かれた。

 それを聞いたところで怒りは湧かない。ここがどこか気にならないわけではないけれど、別の世界という一括りで考えれば、それまでとは違うということさえわかっていれば、正直どうでもいいような気がした。
 ただそれは、今の生活が穏やかだからこそそう思えるだけで、これが生きるか死ぬかの厳しい世界だったとしたら、怒りも湧くだろう。

「怒るより、そこはどうでもいい気がする」
 隣の歩みが止まった。数歩進んでそれに気付き、振り向けば彼は、今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしていた。

「俺は、のぞみを騙して連れてきたんだ。仲いいヤツらはみんな俺の嘘に気付いてた。だから、あの話そのものを信じなかったんだ」
「でも実際に別の世界に来てるよ? 嘘って訳じゃないでしょ?」
 あの時の彼の必死さに嘘はなかったと思う。だからこそ、声をかけた。

 彼が抱えているものがなんなのか、それを知るだけの覚悟がない。知ってしまえば同じように抱えざるを得なくなる。それは、今の私には無理だ。

「別にいいよ。ひかりが何を知っていて、何を隠していても。それはきっと私に関わることっていうより、ひかり自身に関わることなんでしょ? そういうのは、わざわざ言わなくてもいいよ。知りたいことはこっちから訊くから」

 知られたくないことを勝手に暴かれるのは、存在そのものを否定されるのと同じだ。私は、粗大ゴミの私を彼にだけは知られたくない。

「私も知られたくないことはあるから。ひかりも知られたくないことをわざわざ言わなくてもいいよ」

 その次の言葉を口にするのは、すごく勇気が必要だった。
 今このタイミングでそれを言うのは、まるで脅しのようで自分でも正直どうかと思う。
 けれど、それに縋らないと私は、ここでもいらないものになってしまう。

 精一杯、何気なさを装った笑顔を浮かべて、けれど、どうしても彼と目を合わせられずに、気取られないようわずかに目を伏せ、一気にそれを吐き出した。

「それでもずっと一緒にここで生きていくでしょ?」

 声が震えないよう必死だった。なんてことなく聞こえるといい。軽い言葉に聞こえてほしい。

 一歩二歩と大股で近づいてきた彼に、その勢いのまま少し乱暴に抱きしめられる。
 変わらず彼の腕の中はあたたかい。それが泣きたくなるほど嬉しくて寂しくて──せつない。
 このあたたかさがあるだけでも、生きていけると思う。このあたたかさを知ることができただけでも、ここに来てよかったと思える。

 いつか、このあたたかさにも捨てられる日がくるかもしれない。

 恐る恐る、そっとその背に手を回せば、抱きしめる力が強まった。伝わってくる鼓動は、いつもよりもずっと速くて、ずっと強かった。