青の深淵
二人ぼっちの異世界トリップ07 素
「俺さあ、ここに来てから割と素なんだけど、のぞみ、あんま気にしないよね」
言われた意味がわからなくて、思わず首を傾げる。
目が覚めて、互いに身支度を終え、テーブルに着き、彼が赤い実を半分に割りながらそう口にした。
「なんっていうかさ、のぞみって俺に期待しないよね」
わかってないことが伝わったのか、正面に座る彼がナイフで種を取りながらかすかに笑い、再び口を開いた。
「俺さ、あんまのぞみのことかまわないじゃん?」
そうだろうか。訊いたことには答えてくれるし、頼んだことはやってくれる。色々気遣ってもらっている。これ以上ないほどかまわれていると思う。
今まで生きてきて、誰よりも私自身を気遣い、かまってくれている人だと思う。
「のぞみのこと、結構放置してるし」
それは、時々ふらっと散歩に出掛けたり、泉のそばで大の字になって寝転がって何か考えていたりすることだろうか。彼は割と一人が好きらしい。私も一人が苦にならないから、なんとも思わない。
「なんか、わかってない顔してるね」
少しだけ目を細めて、朝食代わりの赤い実をぱくっと頬張った。つられて目の前に差し出されたきれいに半分になった実をひと口頬張る。
この栄養価の高い実を食べているおかげか、心なしか体つきがふっくらとしてきたような気がする。相変わらずがりがりな鶏ガラ感は抜けないけれど、このままいけばほっそり体型くらいにはなれそうだ。
ここに来て、それなりに時が過ぎていると思うけれど、どのくらい経ったのかがはっきりしない。感覚的には一週間から十日くらいだ。もしかしたら半月くらい経っているのかもしれない。
「のぞみってさ、もしかしてあんまり人に期待しない方?」
「期待って?」
「んー…そうだなぁ、いちいち言わなくてもわかってよ、言われなくてもやってよ、みたいな」
「え? 言わなきゃわからないよね?」
何が言いたいのかがわからない。「言わなくてもわかれ」なんてセリフは、まるで老夫婦の喧嘩みたいだ。「おい」とか「あれ」で意味が通じないと祖父はよく祖母にキレていた。祖母も負けずに言い返していたけれど。
「あーしてほしい、こーしてほしい、とかさ」
「それ言ってるよ?」
「いや、のぞみが言うのって、生きていく上で必要なことだけだろう?」
それ以外に何があるというのか。
互いの食べ終わった二人分の赤い身の皮と種、使い終わったスプーンを持って泉に向かう。うがいをし、皮とスプーンをきれいに洗って、皮は乾かすために木の枝に引っかけ、スプーンと種を持って戻って来たら、彼は彼で赤い実の収穫の準備をしていた。
乾かして適度に硬くなった赤い実の皮に、洗った種を入れておく。そこそこの数になっている。スプーンを道具箱の中にしまって振り向くと、いくよとばかりに軽く頷かれた。
「唯一俺に寄りかかるのって寝る時だけだよなぁ」
「もしかして腕枕のこと? 嫌ならもうしないけど」
「違う違う、そうじゃなくて」
慌てたように否定したあと、言い辛いのか言葉を飲み込むように軽く息を吸い込んで、それを一気に吐き出しながら言葉を続けた。
「もっと頼ってくれてもいいのになぁって思ったりするんだよ」
早口でそう言ったあと、照れくさいのか少しだけ目を泳がせた。自分で言って照れないでほしい。
「十分頼ってると思うけど……」
こっちまで照れる。
「自分ではできないことだけだろう? のぞみ見てると一人でがんばり過ぎてて心配になる」
それは当たり前のことだと思うけれど、彼にとっては違うのだろうか。
できないことはお願いするしかないけれど、できることは自分でするし、頼んだことへの見返りはするべきだと思う。今までもそうやって生きてきた。
細めのツタを編んで見よう見まねで作った不細工な出来のカゴを持って、赤い実の収穫に向かう。前に採ってきた細めのツタがそろそろなくなる。道中で見つけたら採ってこよう。洗濯カゴも作りたい。
「ありがとって言って、にこって笑って、おしまいにしないよな、のぞみは」
「さっきからよくわからないんだけど、そうした方がいいの?」
「いや、今のままがいい」
もう。さっきから何が言いたいのか。
出掛けに泉に寄り、しゃがみ込んでうがいをしている彼をじっと見下ろした。機嫌は悪くなさそうだけれど、何を考えているのかはわからない。
確かに言われてみれば、ここにいる彼は無表情なことが多い。学校での彼は、どちらかといえばいつもにこにこ笑っていた。素とは無表情のことだろうか。
そもそも私が思う彼は、むしろ無表情の方がしっくりくる。にこにこ笑っている方が嘘くさい。だからか、彼に言われるまで気にも留めなかった。
考え事をしながら歩いていたせいか、下草に足をとられて躓きそうになり、すかさず横から伸びてきた腕に支えられる。「ありがと」と言えば、なんでもないことのように「ん」と短く返される。
こういうところはすごく頼りになると思うし、すごくかまってもらえていると思う。けれど、彼の言いたいことは、きっとこういうことじゃないのだろう。
「女の子ってさ、都合よく男に頼って、適当にお礼言って、愛想振りまいてる生きものだと思ってた」
隣を歩く彼から平坦な声がぼそっと聞こえた。ずいぶん偏った見解だ。それとも、そういう女の子としか付き合ってこなかったのか。
「いかにかわいく見せるかを無意識でわかってるっていうかさ」
もしかして、さりげなく貶された?
「かわいく見せられなくてごめんなさいね」
「違うから。女の子のそういうところがかわいいと思ってたんだけどさ、同時に鬱陶しいとも思ってて……」
ひねくれている。まあ、そんな感じの人だろうとは思っていたけれど。彼はどこか歪んでいる。
「なんっていうかさ、自分の理想を一方的に押しつけてくるっていうか、母性を押し売りしてくるっていうか。それで俺がその理想と違ったり、思い通りのかわいそうな子じゃないと、そんな人だと思わなかったって、あっさり手のひら返すし……」
「それってこれまでの彼女のこと? 単に相手はそこまでひかりのこと好きじゃなかったんじゃないの?」
「まあそうなんだろうけどさ」
「自分だってそこまで好きじゃなかったんでしょ」
驚いた顔で足を止めた彼にかまわず歩き続ける。
「よくわかるね」
ほんの数歩で追いついてきた彼が、感心したかのような声を出す。わからない方がおかしいと思うけれど、言わない方がよさそうだ。
「なんとなく。往く者は追わず、来る者は拒まず、だったんでしょ」
それできっと女の子の方が、私こそが彼を本気にしてみせる、ともで思うのだろう。そんな噂も聞いたことがあったような、なかったような。誰にでも優しいけれど、誰にも本気にならない、だったか。彼の生い立ちと絡めて、彼を癒やしたいとかなんとか。もしかしたら彼とは別の人のことだったかもしれない。
ただ、それを聞いてずいぶん傲慢だなと思った私も、たぶんひねくれている。
「のぞみは、俺に興味なかったよね」
赤い実のなる木に到着し、彼がすかさず木に登り始める。最初の頃よりもずいぶんと危なげなく登るようになった。手のひらを擦り剥くこともなくなった。
「別にひかりにだけ興味がなかったわけじゃないけど……」
それでも、あの小さな集団の中で一番彼に興味を持っていたような気がする。
「だよな、のぞみって他人に興味がないんだと思ってた」
より一層赤く実っているものを指さしながら、そこに彼を誘導する。どうにかして高枝切りばさみのようなものを作れないだろうか。もしくは脚立。しなる枝が折れてしまいそうで怖い。こんなところで怪我でもしたら、それこそ骨でも折ったら命取りになる。
はらはらしながら落ちてくる実を次々とキャッチして、彼が木から下りてくるのを待つ。彼の足が大地についた瞬間、心の底からほっとする。
「でも、違ったな」
服についた木のかすなどを払い落としながら、そう呟かれた。
「何が?」
「人に興味がないわけじゃないんだよな、のぞみは」
「そりゃそうだよ。それなりに興味はあるよ」
本当に、さっきから何が言いたいのか。
収穫した赤い実の入ったカゴを手に、家に向かって歩き出す彼を盗み見た。そこにあるのは無表情。何を考えているのかはわからない。
「あの高校っていうか、あの場所には元々卒業までしかいるつもりなかったから、そんなに興味が持てなかっただけだよ」
「あー、そういえば、そんなこと聞いたな」
私が彼の事情を知るように、彼も私の事情を知っているのだろう。
あの場所は誰も彼もが他人の事情を知っているような、他人に干渉しすぎる、そんな少し薄気味悪い場所だった。
「あそこってさ、隠し事とかできない場所だよね。正直言ってちょっと異常な感じがした」
「かもな。でもさ、小さなコミュニティってそんなもんじゃないの? 都会は逆に干渉しないんだろう?」
「しないね。隣にどんな人が住んでるかもよく知らなかったりする」
「俺はそっちの方が異常な感じがするよ。人は他人の見えない部分を暴きたくなるもんだろう?」
そんなものだろうか。私が住んでいたのは賃貸だったから、余計にそうだったのかもしれない。けれど、たいして親しくもない人が自分のことをあれこれ知っているというのは、なんだか怖い。いつも見張られているような気がした。
ひかりは幼い頃に母を亡くし、小学校を卒業するまでに父も亡くしている。そう、聞こえてきた。
私は幼い頃に母が家を出て行き、父は小学校を卒業する頃には滅多に家に帰らなくなり、中学の時にワンルームマンションに移され、高校の入学手続きを最後に連絡が途絶えた。同時に、全ての支払いがのしかかり、家賃の支払いを優先していたせいで、高校の後期授業料の支払いが滞り、学校にそれが発覚し、一番面倒がないというだけで唯一連絡が取れた父方の祖父母に引き取られた。
年金暮らしの祖父母の家では、そこに住むこと以外の全てを拒否され、自分で授業料や生活費を支払うべく必死にバイトをしていたけれど、あそこにはおじさんとご飯を食べるだけで時給がもらえるようなバイトはなく、いつもかつかつだった。
「のぞみは──」
その声に思考が中断される。顔を上げて彼を見れば、やはり無表情のまま前を向いて歩いていた。
「もっと俺を頼ってもいいんだよ」
さっきとは違い、その声は落ち着いていた。
「十分頼らせてもらってると思うけど……」
不意に彼が足を止めた。真っ直ぐに見下ろされる無機質な視線。何を言われるのかと身構える。
「のぞみは、俺の腕の中で寝てる時、どんな感じ?」
訊かれた意味がわからなくて、けれど彼の声は真剣で、よくわからないながらも思い浮かぶことをそのまま口にする。
「人ってあったかいなぁとか」
ん、と相槌を打ってくれる。それにつられるように、考える前にぽろぽろと言葉が繋がっていく。
「今までは、寝る時いつも寒くて、なかなか眠れなくって、眠ってもすぐ目が覚めて。でもひかりの腕枕はあったかくて、あんなに人があったかいって知らなかったから、なんて言えばいいのか、ほっとするっていうか、安心するっていうか……」
言葉の合間合間に「ん」と、小さく聞こえてくる声が、言葉の続きを促してくれるようで、いつになく思ったことが素直に言葉に変わる。
「ひかりの寝息とか聞いてると、こっちも眠くなるっていうか、あったかくてほっとして力が抜けて……もしかして、幸せってこういうことなのかなって……」
頬を何かが伝った。一瞬わけがわからず、思わずそれを確かめれば、頬に触れた指先がわずかに濡れていた。自分が泣いていたことにびっくりする。
それと同時に、目の前にあった身体にゆっくりと引き寄せられた。おでこがその胸に、とん、と軽く当たる。
「泣きたい時は泣け」
背中に手が回り、もう片手が頭の上にのり、おでこが胸に押しつけられる。彼からあたたかさが伝わってきて、まるで腕枕されている時のようにほっと肩の力が抜けていく。
「泣きたいわけじゃないんだけど……」
「悲しい?」
訊かれて、それは違うような気がした。小さく頭を左右に振れば、後頭部に回った手がそれに応えるように、ぽん、と小さく動いた。
「じゃあ、寂しい?」
それも違うような気がする。ここに来て心がすごく落ち着いている。ゆったりと過ごす毎日にほっとする。ふたたび頭を振れば、その上から吐息のような「そっか」が落ちてきた。
「じゃあ、幸せで涙が出る?」
それが一番近いのかもしれない。ここでのゆったりとした毎日は、それまで感じたことがないほど、穏やかで優しい。頬に触れていた腕ごと抱き込まれていたその指先が、彼のシャツを小さくつかまえた。
「私、ここに来てよかった」
「そっか。後悔してない?」
「してない。同伴者にしてくれてありがとう」
「ん。俺も、のぞみでよかった」
こんなふうに誰かに抱きしめられたことなんてなかった。こんなあたたかさは知らなかった。だからみんな、誰かと抱き合うのかもしれない。子供も大人も男も女も。
「ひかり、嫌じゃなかったら、時々こうして抱きしめて」
「いいよ。そうやって頼ってくれていいから」
彼の言う、「頼る」の意味がよくわからない。けれど、このあたたかさは、時々ほしくなると思った。