青の深淵
二人ぼっちの異世界トリップ
04 源


 ふと目が覚める。
 今までにないぬくぬくとしたあたたかさに、それまで感じたことがない、優しくて柔らかで力が抜けるような、そんな気持ちになった。

 で、背後から絡みついているこの腕はなんだろう。──ぼんやりと思い出してきた。そうだ、彼は意外とひ弱だった。

 まどろみの中、身体を揺り動かされ、無理矢理起こされ、寝る場所を移された。
 どうやら彼にはこの厚手の敷き毛布一枚では安眠できないらしく、せめて二枚を重ねようと提案してきた。日々煎餅布団で寝ていた私には、それまでとたいした違いはなかったものの、その下が畳か板かの違い程度の不快さはあったし、何より眠くて面倒だった。
 言われるがままに身体を起こし、一度立ち上がり、彼が寝床を整えている間も立ちながらうつらうつらしつつ、手を引かれるがままに横たわった。
 同じ厚さの毛布を重ねただけなのに、格段に寝やすくなったそこは、かつてないほど快適で、とりあえずそのまま寝た。
 たぶんそれ以外のやりとりも色々あったはずなのに、何一つ憶えていない。彼が何かを話していたような気もするけれど、正直どうでもよかった。眠気が勝った。

 背後から絡みついている腕を持ち上げ、とりあえず後ろに放り投げる。

「痛っ!」
 すぐ後ろから聞こえてきた声に、素知らぬ顔で二度寝を決め込む。

 背中がほかほかあたたかくて、とにかく心地いい。つくづく、好きな人じゃなくてよかったと思う。万が一好きな人だったら、こんなふうに惰眠を貪ることはできない。絶対に緊張して、無駄に興奮して、挙げ句の果てにいやらしいことまで想像していただろう。

「のぞみってさ、寝るの好きでしょ」
 耳元で囁く声がうるさい。むっとしながら身体の向きを変え、胸元まで下がっていたマントだかコートだか、面倒なのでブランケットでいいやと思いながらそれを目元まで引き上げ、目の前にあるぬくい何かにおでこをくっつけると、いい具合に仄かな暗がりができた。

「もう少し寝る?」
「寝る」
「ほら頭上げて」
 言われるがままに頭を少し上げたら、首の下に腕を回され、いい感じに頭が彼の脇におさまる。寝やすい。

「脇、臭くなくてよかった」
「別のところでよかったと思ってよ」
 ため息交じりの彼の声に、とりあえず「そうだね」と返し、そのまま寝た。



「のぞみさ、自分が女の子だってわかってる?」
「わかってるけど、なに?」
 責めるような口調にむっとする。だいたい、眠れないと言い出したのはそっちだろうに。

「俺、一応男なんだけど、知ってる?」
「知ってる。だからなに? はっきり言えば?」
 あれが噂の腕枕だと気付いたのは、再び目が覚めた時だった。かつてないほどの、ものすっごーく快適な目覚めに、機嫌良く彼に目を向ければ、顔を引きつらせ硬直していた。

「健全な十代男子の肉体は色々大変なんです」
「自分で腕枕してきたくせに」
「まさかそのまま寝られるとは思わなかったんだよ」
「いや寝るでしょ。快適だったし」
 うーっ、と唸りながら頭をかきむしった彼は、そのまま家の外に出て行った。しばらくしたら、ばしゃんと水音が聞こえてきたので、泉に飛び込んだのだろう。あとで私も入ろう。

 まあなんというか、彼の股間ののっぴきならない事情は知っている。というか、知ってしまった。男は好きな女の子じゃなくても色々大変なんだってことがわかった。
 ただ、どういうわけかそんな事情を知ったとしても、彼に対する不快感がない。いやらしく感じることもない。それが不思議で仕方がない。興味がないからかもしれない。

 タオルの代わりになるものはないかと、着替えが入っている鞄の中から、エプロンらしきものを引っ張り出す。とりあえずまだ料理はしないからこれで我慢してもらおう。

 家の外に出て泉に目を向ければ、大の字の全裸が仰向けでぷかりと浮かんでいた。とりあえず男子の大変な色々は終息したらしい。
 本当、好きな人じゃなくてよかった。好きな人だったらきっと、「きゃあ!」とわざとらしく声を上げながらもじっくり観察していただろう。完全に変態だ。

「タオルないから、これで身体拭いてね」
 そう声をかけたら、全裸がじたばたもがきながら泉に沈んだ。しばらくすると、ざばっとしぶきを上げながらの生還。

「見た?」
「うん。見たけど、男子と違って色々大変なことにはならないから平気」
「そういう問題じゃない!」
 じゃあどういう問題だよ。じっくり観察したわけでもあるまいし、ちらっと見えただけだから私的には問題ない。見てくださいと言わんばかりに浮かんでいたそっちが悪い。

「次私も入るから、早く上がってね」
「俺も見ていい?」
「ダメに決まってる。男子は色々大変なんでしょ? 絶対にダメ」
 愕然とする彼を尻目に、家の中に戻る。タオル代わりになりそうなものをもう一枚探そう。

 ベッドとベッドの間にあったサイドテーブル代わりの台が、よく見れば木の箱であることに気付き、その中にシーツのような大きな一枚布が二枚入っていた。ほかにもテーブルクロスらしき大きさの布が二枚、使い道がわからない一メートル四方の布が四枚。もっと早く見つければよかった。かなりしっかりとした布。ただし、どれも少しごわついている。

 この家も道具も、明らかに人である私たちに合わせて用意されたものだろう。間違いなく貴重なものだ。
 何もないこの場所で、きっと私たちは小さな布一枚でさえ作ることもできない。間違いなく死ぬまで使っていくことになるだろう。大切に使わないと。

 微妙な顔で戻って来た彼と入れ違いに、着替えを持って泉に向かう。木の枝にかけて干されているエプロンを見て、とりあえずそれを水着代わりにする。
 家の方を睨みつけながら、服の上から湿っているエプロンを身に着け、それで身体を隠しながら手早く服を脱いでいき、最後にエプロンの紐をきゅっと結ぶ。これで覗かれたところで肝心なところは見えないだろう。なにせ、エプロンドレスかというくらい布がたっぷりと使われ、丈も長い。
 自分の賢さを絶賛しながら泉に足を入れると、思ったよりも深く、バランスを崩して豪快に音を立てて泉に落ちた。鼻に水が入って痛い。

「大丈夫か!」
 家の中から慌てて飛び出してきた彼が、泉の中に立つ私を目にしてくわっと目を見開いた。

「間違ってる!」
「なにが?」
「わざとなの?」
「だからなにが?」
 彼が力なく泉の縁に腰を落とした。

「のぞみさぁ、男と付き合ったことある?」
 一瞬見栄を張ろうかと思って──やめた。この先ずーっと見栄を張る続けるのはきっと疲れる。

「ない」
「だよね」
 ため息をつかれた。むっとする。

「ひかりは彼女いた……よね、そういえば」
「まあそれなりに」
 あんな生徒も少ない小さな高校でよくも恋愛なんぞできたものだ。しかもころころ変えるなんて、一周回って二周目突入なんてことにはならなかったのだろうか。

「のぞみって、うちの高校来る前は都会の高校だったんだろう? そういうの、色々なかったの?」
「なかった。バイトで忙しかったし」
「バイトって何やってたの?」
「おじさんとご飯食べに行くバイト」
「援交?」
「んー…世間一般に言われているような感じじゃない。本当にただ一緒にご飯食べるだけ」
「なんで普通のバイトじゃダメだったの?」
「ご飯食べられてバイト代も出るのって、飲食店かそのバイトしかなくて、そのバイトの方が時給が高かったから。なんとファミレスの五倍」
「エロいこと迫られたりしなかったの?」
「ないことはないけど、って、なんで?」
 割と平坦な声で淡々と訊かれていたせいか、訊かれるがままに答えてしまったけれど、こんなふうに仲間以外にバイトのことを色々話すのは初めてだったせいか、少し戸惑った。

「のぞみの今の格好、不健全男子の妄想をかきたてる」
「へーえ。で、いつまでそこで見てるの?」
「バレた?」
 バレるも何も、さっきからがっつり見られていますが。

 本当に男子は大変だ。好きでもない子から目が離せないなんて。別に肝心なところが見えているわけでもあるまいし。生地も分厚いから透けてもいない。そもそも、見る価値のある身体でもない。

 名残惜しそうに家の中に戻る彼を横目に、泉の真ん中あたりに移動し、湧き出ている新鮮な場所の水を掬い、口に含んでうがいをする。くちゅくちゅしながら岸まで戻り、口の中の水を大地に吐き出す。
 胸のあたりで水面が揺れるその中に頭まで沈み、胸まで伸びている髪をごしごし洗う。
 適度に冷たい水に、身体があっという間に冷えてきた。
 体中を手のひらで擦り洗いして、泉から上がってタオル代わりの布で全身を拭いてみれば、たいしてさっぱりしないだろうとの予想を裏切り、ずいぶんとさっぱりしていた。口の中も爽快だ。
 ただ、泉の水はしばらく飲みたくない。次からは水浴びする前にうがいしたい。

 ついでに着ていた服を泉の中で洗う。
 昨日──昨日と言っていいのか、テーブルの上に零した果汁をスカートの裾で拭った汚れが、ただ泉の中でゆらゆらと揺すっているだけできれいに落ちた。洗剤がなくても案外きれいになるものだなと感心していたら、「淵源」と頭に浮かんだ。なにそれ。
 意味がわからず首を傾げる。どんな意味があるのか。あとで彼に訊いてみよう。そう思いながら掘っ立て小屋──もとい家に戻った。

「ひかりも水浴びしたんなら着替えて服洗いなよ」
「面倒くさい」
「なら別にいいけど。今日は別々に寝ようね」
「無理。あれ二枚重ねないと絶対無理」
「だって、色々大変なんでしょ」
「それとこれとは別」
 テーブルに着けば、彼が赤い実にナイフを入れ、またアボカドのようにくるりと回し割った。種をナイフでくり抜き、半分ずつスプーンで掬って食べる。

「あ、昨日より掬いやすい」
「これ以上薄くすると強度が心配」
「十分じゃない? 使いやすいよ」
 まんざらでもなさそうな顔が、目の前で果実をぱくぱく口に放り込んでいる。三分の二を食べたところでお腹いっぱいになった。

「これ、残しても平気かな。あとで食べられるかな」
「俺もらっていい? ちょっと物足りない」
 ずずいと彼の方に押しやれば、ほんの三口ほどで残りをぺろりと平らげた。

「さすが男子」
「別のところで男を意識して」
「女だとは思ってないから」
 面倒くさいヤツ。そう思っていることが顔に出たのか、彼の眉間にしわが寄り、その瞳がせつなそうに揺れた。

 ふとテーブルの上に転がっている種を見て、そういえばと思い出す。

「これがエネルギー源ってどういうことだろう?」
「あー、そうだった。んー…割ってみる?」

 ところが、彼がナイフで割ろうとしてもなかなか割れない。思ったよりも硬い。
 家の外に持ち出し、ナイフの柄で力任せにがつっと叩いた瞬間、割れた殻の中から眩い光とともにきらきらとした粒子のようなものが立ち上り、大気に溶けるように消えた。消えたというのは正しくない。きらめきがそこら中に散り、まるで大気と融け合うかのように一体化した。

「あー…これが明るさの元かぁ」
 どういう意味かと首を傾げる。

「ほら、昨日言ってた、明るいのはエネルギーのきらめきだって話」
「この種がその元ってこと?」
「そんな感じっぽい」
 きらめきの残像が瞼の裏に残っている。

「なんかそれって、あの実がかなり貴重ってことなんじゃないの?」
「そうかもね。あんまり採り過ぎないようにしないと」
「あれ、二人で一日一個食べるだけでお腹いっぱいになるよね。ちょっとおかしくない?」
「きっとそういう実なんだよ」
 なんてことない感じで笑いながら、彼はきれいに真っ二つになった、卵よりひとまわりほど大きな種の殻をしげしげと眺めている。

「これ、何かに使えると思う?」
「なんだろう、小物入れとか?」
「とっておく?」
「一応とっておく」
 いつか何かに使うかもしれない。とりあえず泉の水できれいに洗い、テーブルの上に置いておく。それは、内側が真珠みたいに真っ白でつやつやしていてすごくきれいだった。