青の深淵
二人ぼっちの異世界トリップ
03 赤い実


 結晶化してくる。
 これがトイレに行くことの隠語になりそうだ。間違いなく私たちにしか通じない。

 あのあと彼が、葉がみっしり生えている木の枝を鉈で切り落とし、それを直接地面に突き挿して簡易目隠しを家の裏の壁際に作ってくれた。つまりトイレだ。
 ちなみに木の枝を切ると、驚くほどぼたぼたと水が零れ落ちる。どれだけ水を蓄えているのかと、驚きながら顔を見合わせた。
 見た目は見知っている木とどことなく似ている。目隠し用にと選んだ木は、一見杉のようでいて、その生態はずいぶんと違うのだろう。切った時の匂いも、木というよりも草のような青臭さだった。

 それで、だ。
 そこで用を足したら──本当に結晶化した。しかも妙にきれいな透明の、雪のような霜のような結晶の連なり。
 なんともいえない気持ちになり、それを靴の底で踏み付けると、はりはりとこれまた妙に繊細できれいな音を立ててその結晶が壊れていく。まさに霜柱を踏んでいるかのような感覚に、やりきれないような叫びたくなるような、嫌な疲れを感じた。
 粒を通り越して粉になったそれが、ふわっと風に吹かれて目隠しの隙間から飛んでいく。トイレ不要。微妙すぎる。
 おまけに、固形燃料は絶対に必要だとの彼の主張によって、あの桶が目隠しの中に置かれている。見ようによっては木製便器のようだと言えなくもない。おまる──そんな単語が頭に浮かんだものの即座にかき消した。

 本気で好きな人と一緒じゃなくてよかった。自分の固形物を燃料に使うなんて。それで料理を作り、暖をとるなんて。泣けるほど嫌すぎる。もしも、好きな人の固形物なら──そう考えたところで、嫌なものは嫌だ。
 とりあえず、相手が彼でよかった。それまでさして親しくなかったせいか、なんとか開き直れる。
 彼は彼で、「そういうものだと思えば別に」と妙にこざっぱりと言い切っていた。メンタル強すぎ。

 家の中で見つけた、木製のひしゃくのような、大きなお玉のようなもので泉の水をすくい、手を洗う。
 キッチンというよりも台所と呼びたくなるような場所に、さりげなく置かれていた木製の平たい箱の中には、大小のナイフが入っていた。見ようによっては果物ナイフと包丁に思えなくもない。大きなナイフは小さな剣や刀のようなもので、ちゃんと鍔のような突起がついている。
 それらが入っていた木製の箱は釘が使われておらず、木と木を組み合わせて作られていた。よく見れば、家も釘などの金属が一切使われていない。ドアもどういう仕組みなのか、蝶番ではなく木が組み合わさってその代わりをしている。
 もしかしたら、このナイフや斧などはものすごく貴重なものかもしれない。刃が何でできているのかはわからないけれど、決してステンレスや鋼のようなものではない。自分が知るよりも薄くて柔軟性があるのに、恐ろしく切れ味がいい真っ黒な刃だ。

 家の中に戻れば、彼がスツールに腰掛け、木の枝をナイフで削っていた。それがもう、いつ指を切るかと思うような頼りないナイフ捌きで、見ていられなくて驚かさないようそっと声をかける。

「何作ってるの?」
「んー……スプーン?」

 さっき採ってきた赤い実は、しっかりとした皮に、割ると中に大きな種がひとつ入っている桃のような実だ。彼がアボカドのようにぐるっと周りを一周ナイフで切り込みを入れ、ねじるようにふたつに割っているのを見て思わず感心した。私ならなんとか皮を剥こうとしただろう。

「この皮の部分は乾かすと器みたいに使えそうだし、この種、なんだろうって頭に思い浮かべてみなよ」
 言われた通り頭に思い浮かべると「エネルギー源」と浮かんだ。

「この種がエネルギー源? どういうこと?」
「さあ? まあ、先にスプーンが必要だと思って、作ってるんだけど……」

 出来上がったスプーンらしきものは、どこからどう見てもおまけについてくる木製のアイスクリームスプーンだった。それよりもずいぶんと大きく分厚い。

「いまいち」
 正直に口にした。

「だよな」
 彼も自覚していたのだろう、へらっと笑いながらもそれを押しつけてきた。使えということだろう。

「ありがと」
 素直に受け取り、赤い実を掬ってみようと果肉に突き入れれば、スプーンの厚み分実が押しつぶされ、ぼたぼたと果汁がテーブルの上に溢れだした。あーあ、そんな顔をしている彼を恨みがましく見返す。
 ひと口分をなんとかくりぬき、彼の口元に運ぶ。

「毒味?」
「違うから。スプーン作成の苦労を労って、お先にひと口どうぞって意味だから」
 疑わしそうな目を向けられながらも、素直に開いた彼の口の中に果肉を運ぶ。もぐもぐと咀嚼する彼の表情がなんともいえないものに変わっていった。
 おいしくないのだろうかと、さらに果肉をひと口掬い自分の口に運ぶと、甘い香りとは裏腹に、口に広がったのはスポーツドリンクのような中途半端な味だった。食感は桃というよりスイカ。

「まずくはないけど……」
「まあ、飽きがこなくていいんじゃない? 食べるものまだそれしか見つかってないし」
 ポジティブな彼の返しにとりあえず頷きを返す。

 異世界が地味すぎて微妙すぎてなんともいえない気持ちになりながら、せっせと彼の口元に果肉を運ぶ。彼は彼で運ばれてきたものを素直に口に入れながら、もう一本スプーンを作り上げた。そのスプーンを使って自分でも食べ始めた彼は、終始微妙な顔をしていた。
 二人でひと玉食べればお腹いっぱいになる。ほぼ水分といってもいい果肉なのに、栄養価が高いからか満腹感がすごい。

 もう少しスプーンを薄くすると言う彼に、家の中で木くずを飛ばしながら削るくらいなら、家の外で削れと追い出した。
 食べ終わった木の実の殻を、スプーンを使って内部を丁寧に整え、泉の水できれいに洗い、近くの木の枝の上にのせて、天日干しにする。なんとか器っぽいものになってほしい。

「こんなもんかなぁ」
 聞こえてきた声に彼の元に戻れば、ずいぶんとスプーンらしきものが出来上がっていた。ちゃんとくぼんでいる。柄も細くなった。

「いいね。スプーンっぽい」
「だろう」
 少しだけ得意げな笑顔。それは、教室で見た時よりもずっと自然だった。

 家の入り口のすぐ脇、大地の上であぐらをかいて座っていた彼が、そのまま手足を投げ出すようにごろんと寝転がる。なんとなくその隣に膝を抱えて座り、ぼんやりと周りを眺めた。

「なんか、なんの変哲もない森の中って感じだよなぁ」
「だね」
 ぼそっと呟いた彼に、ぼそっと返す。

「別の世界って感じがしない」
「だよね。……結晶化以外は」
「だなぁ。あれはなかなか衝撃だった。まさに別世界って感じがする」
 そんなところでしか違いを感じられない異世界ってどうなんだろう……。

「生きものいないなぁ。虫もいない」
「植物だけの世界なんじゃないの?」
「いや、知的生命体はいる。頭にそう浮かぶんだけど……具体的なイメージが浮かばないからどんな感じなのかがはっきりわからない」
 言葉とは裏腹に、彼の言い方は興味なさそうに聞こえた。

「のぞみさぁ、知的生命体に興味ある?」
「特に。なんっていうか、来たばっかりでなんだけど、このままここでだらだら生きていければいいかなって思う」
「俺もー。やっぱのぞみでよかった」
「なんで?」
「いやさ、ここで張り切って、探検に行こう! とか熱く語られたら、面倒くせって思うから」
「だよね。できるだけこぢんまりと寿命を全うしたい」
「俺もー」
 お互いにぼんやりとどこかを見ながら、ぼそぼそと言葉を交わす。

 時々ふわっとそよぐ風が気持ちいい。さわさわと聞こえる葉擦れの音とかすかな水音だけが聞こえてくる。のどかで静か。鳥の鳴き声すらしない。

「へ? は?」
 間抜けすぎる彼の声が、その静寂を破った。なんとなくいい感じに黄昏れていたからか、ちょっとむっとする。

「あのさ、ここ、夜がないっぽい」
「へ?」
「なんか、明るいのはエネルギーのきらめきみたいなもので、太陽とかがあるわけじゃないらしい」
「は?」
「ほら、さっきよりちょっと曇ってきたかなって思ってたら、そんな感じに頭に浮かんだ」
「それってつまり、暗くならないってこと?」
「そう」
「時間とか、どうなってんの?」
「さあ。考えても何も浮かばないから、時間ってものがないのかも?」

 意味がわからない、とでも言いたげな彼の顔を眺めながら、朝も昼も夜もないなら時間なんてあってないようなものだろうなあ、とぼんやり思う。

「のぞみ、もしかして眠い?」
「そうかも。なんか、感覚的に一日たった気がする」
「寝る?」
「寝る」
 ぼんやりしているのは眠いからか。そんなことを考えながら、よいこらしょと立ち上がり、吸い寄せられるように、ベッドと言うにはお粗末な台に向かった。