青の深淵
二人ぼっちの生きる意味35 望み
で、その面倒の元凶が、家の中には入れず開け放たれた扉の前でしきりに何かを叫びながら、見えない壁を執拗に殴りつけ蹴りつけている。相変わらず態度が悪い。
鬱陶しがった彼が第二皇子とその仲間たちが来るまで家をラップで覆った。
しばらくしてやってきた第二皇子は、サンちゃんとは違って身体の大きさが変わっていない。それにサンちゃんがわかりやすいほどぎょっと目を剥いた。
「のぞみの涙、思ったより効果あるなぁ」
隣からの暢気な声を聞きながら、あっさり捕まったサンちゃんがギャィギャィ喚いている様子を、彼とラグに並んで座って傍観中だ。
「もしかして、サンちゃんって自分の意思で小さくなっていたんじゃなくて、勝手に小さくなっちゃってたの?」
「そうみたいだな。俺が認めないとああなるらしい」
つまり、第二皇子は彼に認められたからそのままの姿でここに存在できるということか。その仲間たちもサンちゃんほど小さくはない。サンちゃんの倍以上はある。
思わず「ひかりってすごいんだね」と純粋に褒めれば、ひくっと口元を引きつらせた。俺が望んだわけじゃない、とでも言いたげに、引きつった顔が面倒そうな顔に変わっていく。
口輪のようなものがはめられ、手足を縛られてその場に転がされたサンちゃんは、哀れみを誘うかのような媚びた目を家の中に向けてきた。そのあからさまな態度に、もうため息しか出ない。
ラップを外して、サンちゃんの前にしゃがみ込んだ彼が、静かに口を開く。
「お前さ、俺たちを侮りすぎ。俺たちの存在がどういうものか、子供の頃からたたき込まれてきただろう? それとも、俺たちはただ迷い込んだだけで、自分がここの主だとでも思ってた?」
必死の様子で首を振っているのは、否定からなのか、口輪を外そうとしてなのか。
「我こそ世界が寄り添うものだ! とでも勘違いした? お前がここにたどり着けたのは、俺たちがここにいたからだろうが。遣わされしものとしてたどり着けただけだと気付かないお前は、その時点で色々ダメだろう。自分で遣わされしものだと言っておきながら、どうしてそれを自分で認めない?」
軽く聞こえた彼の言葉に、射殺さんばかりの憎悪を浮かべている目を見れば、それが間違ってはいないことを自ら知らしめているようなものだ。
彼の話す内容からなんとなく色んなことを察しつつ、サンちゃんがダメダメだったらしきことは、背後から微かに漏れ聞こえる呆れ混じりのため息からも肯定される。
私たちが元いた世界よりも宗教色が強いとしたら、サンちゃんのこれまでの行動が問題にならない方がおかしい。
彼がラップを外し、家の中から出てきた瞬間、第二皇子とその仲間たちは両手足を地に着けてひれ伏した。彼の顔を直接目に入れないようずっと顔を伏せている。サンちゃんは一度たりとも、彼に対しそんな態度を見せたことはない。
「ここにいる間はいいよ。まあ、仲良しってことで済む。でもな、お前が遣わされしものだって俺が知っても、俺のあの翼を見ても、下に降りるときも降りたあとも、お前は俺たちを侮ったままだっただろう? そりゃあ、反逆者の烙印押されるって」
そこに少しだけ寂しさを滲ませたことに気付いたのは、私だけであってほしい。きっと彼は、サンちゃんの考えが変わるのをどこかで期待していたのだろう。
その場で第二皇子がサンちゃんの飛膜に噛みついた。絶望の絶叫。あの透明できれいな空色が色をなくし、残酷なほど無残に引き裂かれた。もう二度とここにはたどり着けない。
弟の飛膜を傷付けなければならない第二皇子から伝わってくるのは、恨む気持ちでも、復讐心でもない、ただの哀れみだけだった。それが一層虚しさを誘う。
こんな結果を望んだわけではないけれど、この世界では仕方のないことだということは私にでもわかる。たとえ神のような存在であったとしても、口出しできるはずもない。ここは、今まで生きて生きた世界とは別の世界だ。彼らには彼らの秩序がある。
「代われるものなら代わってやりたいけどな」
その小さな呟きを耳にしたのは、私だけだったと思う。せつなげに目を細めた彼の手にそっと指先を滑り込ませた。サンちゃんから目を逸らすことなく、その手が強く握り込まれる。
「俺さ、あの時お前がほしがったものを世界のために使うなら、無かったことにしようと思ってたんだよ。でもお前は、自分を飾り立てることにしか使わなかった」
不意に無表情になった彼に、咄嗟に寄り添う。
彼の静かで強い怒りに森がざわめく。ひりつくほどの刺々しい空気が肌を刺す。
世界の怒り──そう頭に浮かんだ。
彼はこの世界そのもの。それがはっきりと示される。第二皇子たちがその場でひれ伏した。サンちゃんの顔が強張る。その目に初めて畏れが浮かんだ。
もしかして、一人でいた時に森がざわめいたのは、彼の怒りからだったのかもしれない。
「遣わされしものでありながら、俺の印を持つものに手を出したこと。番となった後でさえも懲りずに手を出そうとしたこと。俺は、それだけは許さない」
その怒りの言葉に、私以上に驚き、咄嗟に顔を上げ目を剥いたのは第二皇子とその仲間たちだ。もうこれ以上彼の目の前にサンちゃんを置いておけないとばかりに、急いで彼の許可を取った仲間たちの一人が森の中に連れて行った。
残った第二皇子とその仲間たちが、大地に頭を擦りつけんばかりにひれ伏す。
翼を持つ者たちは、一度番ったら生涯番続ける。番となる前はいい。けれど、番った後に横槍を入れることは彼らの倫理的にあってはならないことらしい。
そもそも、神が印を付けたものに手を出すなど冒涜だ! と憤慨しながら謝罪している。
「いいよ。別にお前たちが悪いわけじゃない。俺も様子を見すぎたんだ」
それでも謝罪しようとする彼らを、彼が制した。
「あと、ここにいる時はちゃんと顔を合わせて話がしたい。お前たちにとって俺たちは特別な存在かもしれないけど、俺たちは自らを特別だとは思っていない。お前たちと同じ、命あるものでしかない」
その声に、第二皇子たちが戸惑いがちにその顔を上げ、彼の姿を静かに見つめる。彼らの目には私たちがどのように映っているのか。
「俺たちは、確かにこの世界に影響を与える存在だ。それでも、この世界のことはここに棲むお前たちでなんとかしろ。本当にどうしようもない時だけは、手を貸すから」
それだけ言って、早々に第二皇子たちを追い返そうとした彼が、不意に何かを思いついたかのように青に覆われた目を瞬かせた。
「どうしたの?」
「なあ、さっきあいつを連れてったの、こないだの第十一都市の長だよな、ちょっと呼んできて」
その声に、第二皇子と一緒にひれ伏していたその仲間の一人が、慌ててサンちゃんが引き立てられていった森に消え、しばらくして年若い長が大急ぎで戻って来た。
「こないだ潤った大地、なんに使うか決まってる?」
特産物になるような作物を育てるつもりだと返ってきた。実際は落ち着いたキュワキュワ声が聞こえているだけだけれど。どうやらここでは彼の声にうっとりしないらしい。今になって気付いた。
「だったら、育ててほしいものがあるんだ。でもって中の綿だけ、俺にちょうだい?」
最後、わずかに小首を傾げた。こんなところでかわいさアピールしないでほしい。第二皇子たちが一瞬、面食らったかのように目を瞬かせた。
彼が第二皇子とその仲間たちに漆黒の実を渡し、そのうちのいくつかを割り、中の豆をみんなに配る。綿の採取の副産物はかなりの量になっている。
彼に勧められ、それを口に入れた第二皇子たちの目がこれでもかと見開かれた。どうやら味に驚いたわけではなく、力がみなぎったらしい。
ここにいるのは各都市の長やその次代を担う者たちだ。第二皇子は彼に渡された涙の結晶を、各長たちに平等に分け与えた。だからこそ、遣わされしものとして彼に認められている第二皇子だけじゃなく、その仲間たちもここにたどり着け、その上サンちゃんよりも大きな姿でいられるらしい。
そもそも彼も持つコマンドのような力は、大地を治めることに使われている。
翼を持つ彼らは、第七世界から迷い込んだものの血を汲むからか、その力が多少なりとも備わり、そのせいもあって、翼を持つものがこの世界を支配し、その力の強い者が各都市の長として立ち、その地を治めている。
涙の結晶に匹敵するほどではないものの、この実ひとつでかなり力がつくらしく、それぞれが顔を見合わせながらキュワキュワそんな感じのことを言い合っている。
彼の呆れた声に、同じく呆れとため息を返した。
その後、あの大地は落花生もどきの一大産地となる。残念ながらここでの大きさほどには育たず、まさに落花生ほどの小さな実から取れるほんの少しの綿を集めて、定期的に彼に献上されている。豆もずいぶんと小さい。けれどそれのおかげで、第二成長を遂げられる子供が少しずつ増え、大地を治めることにも役立っている。
結局、第二皇子は話し合いの末、第一皇子を立てることに決めた。第一の遣わされしものとしての立場だけで精一杯だと、綿を届けに来た時に大きな濃い青の目を細めて穏やかに笑っていた。
彼が言うには、権力を分散させたのだろうとのことだった。国王と、第一の遣わされしものが同等の地位となるのであれば、そのふたつがひとつに集中するのは危うい。あの第二皇子なら上手くやるだろうけれど、その次代が上手くやれるかはわからない。私たちは、確実に彼らよりも長く生きる。
サンちゃんは、兄でもあり次期国王となる第一皇子に尾を噛み切られた。それがこの世界での制裁のひとつ。
両足と尾の三点で立っていた彼らは、その尾を足より短く切られると立つことができなくなる。サンちゃんはこの先、飛ぶことも立つこともできず、地を這い回るしかない。
「ものすごく努力すれば二足歩行できるようになるんだよ。俺はそうして今ここに立ってるんだから」
そう、ぽつりと零した彼に寄り添った。
第二成長で尾が退化したことを聞いた、第一の遣わされしものである第二皇子と、第二の遣わされしものとなった第十一都市の長は、呆然と目を見開き、それがどれほどのことかがわかるからか自ずとひれ伏していた。
それがどれほどのことかがわからない私は、ただ寄り添うことしかできない。
「どうした?」
第二皇子たちが帰ったあと、変わらず波打つ泉を眺めながらその淵に座り、ぼんやりと物思いに耽っていたら、心配を滲ませた声が背後からかかった。
「ん、なんだか上手く言葉にできないから……」
言葉を濁せば、すぐ隣に腰をおろした青の瞳が深まる。青と黒が混じったような色に、それでも吐け、と追い詰められる。
ひとつ小さく息をつき、大きく息を吸い込んで話し始める。
きっとこれは彼を傷つけてしまう。そんな嫌な予感があるのに、吐き出さずにはいられなかった。
「ひかりのこと、知りたいっていうか、理解したいっていうか、わかりたいって思うんだけど、結局私にはわからないことばっかりで、つい、私もひかりと同じだったらいいのにって思っちゃって……」
ごめん、と情けない気持ちで続けたら、頬にあたたかな指先が触れた。唇が重なる。
「謝ることないのに。俺もずっとそう思ってきたんだ。だからのぞみは俺のこと、ちゃんとわかってると思うよ」
抱きしめられた腕の中、心を大きく占めるのは疎外感だ。
「寂しいって思うんだろう? 俺もそうだった。みんなと同じだったらいいのにって、ずっと思ってきた。のぞみだってそうだろう? みんなみたいに親に守られて暢気に生きられたらいいのにって思ってただろう?」
その言葉に過去の醜い思い出が浮かんだ。
「小学生の頃にね、自分の名前の由来を親に聞いてくる宿題が出たの」
ん、といつものように相槌が聞こえる。
「同じクラスに、たまたま同じ名前の子がいたの。漢字も読みも同じ。発表はその子の方が先だったから、私はその子が言ったことと同じことを言った。そしたら、その子が次の休み時間に『同じ名前で同じ意味で、私たち同じだね』ってすごく嬉しそうに声をかけてきて──」
ん、と聞こえた穏やかな音と包み込まれているあたたかさに甘えた。
「──いなくなればいいのにって思った。その子もその親も、私を捨てた母親も、私を見ない父親も、みんないなくなればいいのにって」
それまでと変わらない、ん、の音に泣きそうになる。
どうして私ばっかり。あの頃はそう思ってばかりだった。親との距離がまだ近い年頃ゆえに、周りにいた友達は無意識に、残酷に、毎日私を傷つけた。お母さんが──、お父さんが──、聞こえるたびに耳を塞ぎたくなった。友達なのに友達だと思えなくなりそうで怖かった。
「だから、ひかりがのぞみって名前をくれた時、すごく嬉しかった。今はのぞみが自分の本当の名前だって思ってる」
ふっと息を吐くように笑う音と振動が伝わってくる。
耳に届くのはかすかな葉擦れと静かな水音。それと、とくんとくんと、彼が私と同じように生きている音。
静けさが体中に染みこんでくる。心が鎮められる。
醜い思い出がこれ以上私を傷つけることはない。そう思えた。それはきっと、彼が私の全てをもらってくれるから。
「俺の元の名前、憶えてる?」
頷くと、背中に回っていた腕の先が静かに髪を梳いた。
「それ、孵化した順番なんだ。だから俺も、のぞみがつけてくれた名前が本当の名前だと思ってる。俺の未来が光で溢れてるなんて、それまで誰も言ってくれなかった。自分でも欠片も思うことはなかった。そんなふうに願われたこともなかった」
あの時、閃きのように思い浮かんだそれが、間違っていなかったことに安堵する。同じ思いを彼も抱えていたことに歪な心が満たされる。一人じゃないと歪んだ心が無邪気に喜ぶ。彼の全ては私がもらう。
このぬくもりだけは失いたくない。知ってしまえば手放せない。
私が願うのは、ただそれだけ。