青の深淵
二人ぼっちが選ぶ道
最終話 光


 ここに来てどのくらいになるのだろう。その単位は日や月ではなく、おそらく年がいくつか混ざり始めているはずだ。

 下との交流はそれなりに続き、彼はようやくふかふかのベッドマットを手に入れた。

「ねえ、この綿のカス、いい加減どうにかしようよ」

 彼のふかふかのベッドマットは、単に二枚の敷き毛布の間に献上された細かな綿を平して敷き詰めただけだ。だからか、寝るたびにその綿の欠片が床に落ちる。シーツは全てを丸ごと包めるほどの大きさはなく、遣わされしものたちに分けてもらった布を駆使してなんとかくるんでいるものの、取り替えるたびにカスがほわほわ舞い上がり、かなりイラッとする。

「でっかい布の袋みたいなのほしいなぁ。羽毛布団みたいにすれば綿が偏らないだろうし」
「無理じゃない?」
「だよなぁ」

 ここには針も糸もない。
 布の作り方は紙漉きと同じで、織ったものではない。糸はツタの繊維からなんとか作れるものの、針はさすがに作れない。だから古代ローマ風衣装なのかと納得する。
 この家でもラグになっている毛皮のようなものは、彼らの主食であるサイのような生きものの毛皮だ。それをなめして彼らの寝床ができている。
 この世界では火を使わない。食べ物は全て生食。ここが水中だと思えば、それにも納得する。

「二枚重ねでも十分じゃない?」
「十分じゃない! この綿も布作るみたいに分厚く作ってくれないかなぁ。このマットみたいに」
「頼んでみれば?」
「えー…対価とか面倒」

 しかも彼らはナイフなどの刃物を使わない。全て自分の歯だ。
 石は切り出したものではなく、砂を日干しレンガのように固めたもので、試しに作り方を教えてもらって作ってみたら、そこそこのものができた。できたものの使い道はなく、意味もなく泉のほとりに積まれている。
 それを教えてくれた第七都市の長が、持て余していた赤い実の殻で作った器を欲しがった。使い道がいまいちなかったので全て譲ったら、どういうわけか帽子にされた。天上より賜りし品ということで、いい歳した大人が頭の上にちょこんと真っ赤なそれをのせている様は、滑稽を通り越して哀愁が漂う。なぜよりによって頭にかぶるのか。理解できない。

「ひかりが言えば喜んで作ってくれそうだけど」
「なんかそれってちょっと気が引ける」
「まあね。じゃあやっぱり固形燃料で手を打ってもらえば?」

 火を使わない彼らの動力源はあのオパールで、元々は砂金のようなものらしい。砂に紛れてその結晶が発見されるとか。きっとそれは迷い込んだものたちの排泄物の化石だろう。時折見付かるという透明な砂の粒はきっと涙の結晶。どれほどのものが迷い込み、どれほどの涙を流したのか。あのクリスタルパレスは、だからこそ美しく輝くのだろう。
 オパールや万能薬がどうしてできるかは硬く口を閉ざしている。神のなせる業的なものだと彼らは勝手に理解しているので、もうそれでいいことにした。絶対に言わない。
 その動力源に強い力を加えると、まるで空気の渦のようなものが生まれる。それを利用して浮かせて動く荷台のようなものがあり、それが車の代わりに物などを運んでいる。

「やっぱそれしかないよなぁ」
「それにいい加減ベッド大きくしようよ」

 ここでは科学の代わりにコマンドが発展し、超能力のような力を使える者がいる。翼のある者の方がその比率は圧倒的に高く、翼のない者であっても稀にその力を持つ者が生まれるらしい。彼の卵子提供者もその一人。
 その使われ方は彼ら独特で、人のように二足歩行するとはいっても、私たちと同じ生活習慣を持つわけではない。
 そのために、似て異なる私たちとはいずれ、意図しない擦れ違いや、思いも寄らない摩擦が生じるだろうことは容易に想像でき、やはり積極的な交流は互いにしない方向で話が付いている。

「は? なんで? いいじゃん、毎日くっついて寝てれば」
「ひかりだって狭いでしょ」
「それがいいんだよ」

 それでも第二皇子や、綿の納品ついでに第十一都市の長などが世間話のように下での色々を教えてくれ、気になることがあれば現地に行くこともある。けれど、彼らは決してそれを私たちに請うたりはしない。以前彼に言われた言葉を忠実に守ろうとしている。

「ひかりがいいならいいけど」
 にこにこ満足そうに笑っている彼を見ていると、何もかもがその一言で済んでしまう。

 下ではキスが流行り始めているとかで、番との触れ合いの最上表現ということになっているらしい。本気で勘弁してほしい。彼が行く先々でキス魔を発揮したゆえだ。見られていないどころかがっつり見られていた。



 私たちは、ここでの暮らしを当たり前に続け、毎日少しずつゆっくりと何かしら工夫しながら生きていく。生きて、逝く。

 ここが奈落や深淵にたとえられるのも、なんとなくわかるようになった。きっと一般的には耐えがたい場所だろう。この小さな檻のような場所に囚われている暮らしを、たとえ彼の存在があったとしても、穏やかで幸せだと感じるのはたぶん間違っている。
 彼以外は心底どうでもいいと思える自分の感覚が、時々自分でもわからなくなる。これほど何かに執着したことは今までなかった。

 近いうちに私は彼の子供を生み、彼が危惧している第三世界に戻ることもあるのだろう。彼の言う組織が、このまま放っておくとは思えない。いつか思いがけない形で関わってくるのかもしれない。そう考えるのはただの杞憂かもしれないけれど。

 ここに棲むものたちの身体には、青い血が流れている。
 それを知ったとき、彼の存在が奇跡に思えた。姿形が違うだけなら、人種の違いの延長のように思えなくもなかった。けれど、血の色が違うという事実は、生命の違いをはっきりと突き付けてきた。そのハーフである彼は、間違いなく奇跡の存在だ。

 彼は、あらゆる世界に影響を与えるという第一世界の人が強く願ったからこそ生まれたらしい。組織以上に、その存在に彼は縛られているのかもしれない。
 ただ、彼にとっては数少ない仲間でもあるらしく、この家や道具を用意してくれたのも、その第一世界の人らしい。

「お揃いなんだよ。このコート。色違いだけど」
 そう言って苦笑いしていた。それがなければ気付かなかった、とも。

 同じ仲間である第九世界の人ほど近しくはなかったものの、その存在についてを語るときの彼の表情は、組織のことを話すときとは違って穏やかで懐かしそうだ。



「なあ、のぞみ。子供のことでわかったことがあるんだ」
 その日、赤い実を食べ終わったあとで、彼がそう切り出した。

 私が生む彼の子供は、卵の状態で産まれてくる。おそらく受精したのち、一ヶ月から三ヶ月の間に卵を産むことになる。そのあと、あの泉に沈めておくと孵ることがわかったらしい。

「そういえば、あの泉って淵源って頭に浮かぶんだけど? 淵源ってなに?」
「全ての始まりだよ。あの泉がこの世界の始まりなんだ。あれがこの世界を創っている。俺たちの知識の源もあの泉だ」

 世界を創る。その意味するところは正直よくわからない。卵が孵ることといい、まるで子宮のようだ。泉の水が底に染み込み、それがこの世界では太陽のような役割を果たしている。あの泉はエネルギーそのもの。ああ、だから彼はよく泉の前で、時にそこに浮かびながら、物思いに耽っているのか。

 頭に様々なことが思い浮かぶけれど、それはひとまず脇に置く。なぜなら──テーブルの正面に座る彼の顔が強張っていたから。まだ話が終わっていないことがわかったから。それは、決していい話ではないだろうことも、わかってしまったから。

「卵は、ここでは孵化しない。下の誰かの子供として生まれる」
「それって……」
「聞いたことがあるだろう? 受胎告知って言えばわかる?」
「聖母マリアの?」
「そう。あれと同じ現象が起きる」
 私たちの子供なのに? そう呟きながら、知らず知らずのうちに涙が零れた。

 ゆっくりと立ち上がった彼が静かに膝をつき、スツールに座る私を、本当にゆっくりと、まるで時が止まりかけているかのようにゆっくりと、その腕の中に閉じ込めた。

「生まれてくるのは、俺たちの子供であって、俺たちの子供じゃないのかもしれない」

 静かに語られたのは、彼が第九世界と呼ぶ場所の子供の話。彼のような第九世界の人と、私のような第三世界の人の間に生まれた子供は、第一世界から迷い込んだものの半身だった、と。その存在は金星にたとえられるような、そんな存在だった、と。

「俺たちの子供も、俺たちの子供であって別の存在なのかもしれない」
「そんな……」

 私と同じ子供が生まれる。そんな気がして怖くて仕方がない。震え始めた身体が、彼の全てに包み込まれる。

「もし、生まれた子供が虐げられるようだったら俺たちが引き取ればいい。そこは強引に引き取ろう。俺たちの子供だ。文句は言わせない」
「でも、もしかわいがられていたら? 愛されていたら?」
「そのときは見守ろう。愛されているのなら、その親から子供を取り上げられないだろう?」
 本当のことを言えば取り上げたい。私たちの子供だ。けれど、それは自分にも返ってくる行為。取り上げられた私たちが、取り上げ返すのは間違っている。
 そう頭ではわかっていても、いざその時になればきっと取り乱す。理屈ではなく、善も悪もなく、心が悲鳴を上げる。間違いなく拒絶する。私たちの、彼の子供なのに。

「それともうひとつ、わかったことがある」
 ゆっくりと身体が離され、同じ高さにある青が浮かぶ瞳の中にくっきりと囚われる。

「俺の中にある兄弟の欠片は十三だ。それらはきっと卵として、第八世界の子供として生まれる。ここで生まれるからには、おそらく三分の二はここの生きものとして生まれるはずだ。俺は第三世界で生まれたから、三分の二が第三世界の生きものとして構成されているんだ」
 青がゆっくりと黒に変わり、細められた目がとても愛おしそうでいて愁いを帯びた、複雑な眼差しを生む。

「俺の子供は十四生まれる。おそらく一人は完全に第三世界の子供だ。それは間違いなく俺たちの子供として生まれてくる」
 十四人のうち、たった一人だけが私たちの手元に残される。それはどうしようもなく残酷で、けれど──それでも、それだけでも、そう思う気持ちが大きかった。

 天上の主の子として生まれてくる子供を、この世界の人が蔑ろにするとは思えない。おそらく手放さない。きっと慈しんで育てるだろう。行く先々で彼らは、私たちを心からの畏敬の念で迎えてくれる。

 たった一人でも手元で育てられることを喜べばいいのか、十三人もの子供を手放さなければならないことを悲しめばいいのか、そのふたつの間を行ったり来たりしながら心が絶え間なく揺れ動く。

「きっと、その時になってみないとわからないけど……」
「そうだな。俺もわからない。もしかしたら泣き叫ぶかもしれない」
「私は、もしかしなくても泣き叫びそう」
 顔を見合わせ、せつなく笑う。

 普通や平凡な幸せというものがどれほど貴重なものか、私たちは嫌というほど知っている。私たち以上に知っている人もいるだろう。
 それでも、これが私の、私たちの選んだ道だ。私たちが生きる道だ。

 いくつもの分かれ道があった。
 彼に最初に声をかけた時──声をかけない道もあった。
 彼に嘘をついていると聞かされた時──その嘘を許さなければ、きっと彼は私を元の世界に戻しただろう。
 彼のものになると決めた時──私が少しでも躊躇すれば、彼は自分の想いを隠し、あっさり私を手放しただろう。
 彼が人ではないと実感した時──そこで私が少しでも怯めば、たとえ彼の身体に適合した後であっても、彼は私を元の世界に戻した気がする。
 彼の優しさは、ただ真っ直ぐに私の為だけにある。

 そして今──きっとここも分かれ道なのだろう。

 責任と決断、その狭間にある途方もないほどの諦めのなかで、彼はただ生きてきた。どれほどの渇望を諦めに変えてきたのか。
 私の存在だけはこの先何があっても諦めないでほしい。私も何があっても彼の存在を最後まで諦めない。ともにある未来が──。

「それでも私は、ひかりと一緒に生きていく」

──あなたの生きるその先が、光に満ち溢れていることを、誰よりも一番近くで確かめたいから。










 きっと大丈夫。私にはあなたがいる。あなたには、私がいる。
 目の前にある穏やかな笑みを、この先、何にかえても私が守る。そう、決めているから。


前話目次