青の深淵
二人ぼっちの生きる意味34 予感
家に戻り、しばらくは穏やかな日々が続いた。
私は家の中で履くスリッパを完成させ、彼はハサミを完成させたものの、切れ味はいまいちだった。おまけに漆黒の殻が元々カーブしているせいか真っ直ぐに切れない。
前回より上手くできたスリッパをしげしげと眺めていると、羨ましさに恨めしさをまぶした彼の視線が絡みつく。ちょっと得意げに笑ってやれば、小さく舌打ちを返してきた。ふはは、勝った!
「くそー、上手く刃が噛み合わない」
負けた彼はラグの上であぐらをかき、苛々しながらハサミを改良しようと呻っている。コツを掴んで上手く使えばちゃんと切れるのだから、一からそれを作り出したことに感心する。
「やっぱ、このビスの部分がダメなんだろうなぁ。刃は真っ直ぐにならないし。爪切りは簡単だったんだけどなぁ」
漆黒の殻と枝で作った持ち手は、中央部分で漆黒の殻で作られたボルトのようなもので留まっている。
この世界には、どうやら石を加工する技はあっても木を加工する技がないのか、見た限り全てが石造りだった。まあ、生活の細かい部分までを見たわけではないから、そうとも言い切れないけれど。
この先もきっとこんなふうに、不便ながらも工夫して、試行錯誤しながら時間をかけて何かを作り出し、ゆっくりと不便さを解消していく日々が続くのだろう。
最初にがっかりしたこの不便さも、このゆったりとした日常に慣れてしまえば、それすらまったりとした味わいに思えてくるのだから不思議だ。
「あー…」
不意にハサミから視線をあげた彼が、嫌そうな声を上げた。
「なに?」
「チビが来た」
「サンちゃん? え? わかるの?」
嫌そうに顔を歪める彼は、パラディスス全体に蜘蛛の巣のような網をかけておいたのだと教えてくれた。それは全てを完全に覆ってしまうラップよりも容易いことらしく、実際にその網を何かが通り過ぎると伝わる、まさに蜘蛛の巣のようなものらしい。
「まあ、ここに来るまでに丸一日かかるだろうし、放置!」
そう言って、手にしていたハサミをラグの上に放り出し、そのままふてくされたようにごろんと横になった。
その様子から、面倒な予感しかしない。
「サンちゃん、文句言いに来たんだろうね」
「たぶんね」
「どうするの?」
「どうもしない。自業自得」
面倒そうな声を出している彼の傍らに場所を移せば、もぞもぞっと動いて膝の上に頭が乗った。
「俺もうあんま下とは関わりたくない」
「私も。別に関わらなくてもいいんでしょ?」
「いいと思う。第三世界にいる第一世界のヤツが変わり者でさ、めちゃめちゃ世界に関わってるんだよ。まあ、半身ってか、パートナーを探してたみたいだから仕方ないっちゃ仕方なかったんだろうけどさ」
へーえ、と言いかけて、慌てて「それで?」と付け加えた。
「のぞみは興味ないだろうけど、ちょっと聞いて」
下から見上げてくる青が、いつもより少しだけ拗ねた子供のように見えた。かわいい顔してそれは卑怯だ。
彼ら世界と繋がった存在は、その世界に影響を与える。それは直接的だったり間接的だったりと様々で、前回直接的に影響を与えたからといって、次回も同様の影響を与えられるかというとそうでもない、それなりに不安定なものらしい。
ただ、強い願いは必ず叶えられてしまう、と彼が顔をしかめた。
「だから俺、のぞみのことは願わないようずっと戒めてきたんだ。そんなことじゃなく、のぞみに選んでほしかったから」
それを聞いて、彼の言葉は時々嘘くさく、はぐらかすようなからかいで誤魔化されていたことを思い出す。
「もういくらでも願っていいから」
「ん。でももう叶ったから。きっと俺が願わなくても、のぞみは俺のそばにいてくれるって信じてるし」
まあね、と素っ気なく返したところで、顔が熱っている以上、照れくさい気持ちはバレているのだろう。にやけそうになる口元が引きつる。そばにいてほしいのは私の方なのに。
「する?」
「しない」
お誘いを断れば、しょぼんとまつげが伏せられ、青が隠れる。ちぇっ、といじけたように呟いたあと、気を取り直したように言葉が続いた。
「あのチビの国、本当は第二皇子がレガリア持ちっていうか、長としての適性が一番高いんだ」
レガリアとは何かを訊けば、王としての資格や素質だと返ってきた。日本でいうところの三種の神器を意味するそれは、手にする者を自ずと選ぶのだという。
「そんなこともわかるの?」
「なんとなくだけどね。でも、あの第二皇子、飛べなかっただろう?」
それが、サンちゃんのせいだと聞いて少なからずショックを受けた。
権力争いという、私にとってはあまりなじみのないことが起きているらしい。
第一皇子以上に人を惹きつける才があった第二皇子。当初、第一皇子は第二皇子を立てるつもりだったらしい。けれど、生まれ持った力が強かったサンちゃんは、それ以上に力を持っていた第二皇子を嫉み、その飛膜を意図して傷つけた。大人たちは詳しく調べもせず、子供同士のじゃれ合いの末の事故として片付けてしまう。それに失望しながらも、第二皇子は腐ることなく成長し、第一皇子を立てることに決め、第三皇子の手から第一皇子を守ってきた。
それが、以前下に降りた時にわかったそうだ。
「サンちゃん最低」
「まあね。チビもかなり周りに唆されてるんだけどさ。さすがに第二成長直後だったとはいえ自分で判断できないのは、立場的にまずいだろう?」
たとえ子供であっても、その立場に生まれたものはどれほど幼くとも責任がついて回る。そう苦々しく続けた彼は、その責任を背負って生きてきた一人だ。その背に負うものの大きさに、よく潰されずにきたと思う。彼が負ってきたのは国ではなく世界。あまりの壮大さに正直全く理解できない。
ここに来た時よりもずいぶんと伸びた、その色素を徐々に失いつつある前髪を指先でそっと払う。
水浴びするたびに、互いの色素が抜けていっているのがわかる。私の肌は今まで以上に白くなり、その白さも人種を越えた白になりつつある。髪は言わずもがな。
彼の髪は青みがかった白銀に変わりつつあり、私の髪は薄らと茶色を残した金に近い色に変わりつつある。今はまだそこまで変わってはいないものの、互いに色の抜けてしまった産毛を見て、最終的にはそうなるだろうと予想している。
太陽の光のないここでは、色は必要ないのかもしれない。
指先でなぞるしっとりとした白磁は、いつだって滑らかだ。うっかりデコピンしたくなるほど羨ましい。
触れる指先が気持ちいいのか、目を閉じたその口元がゆっくりと弧を描いた。それにどうしようもないほどの幸せを感じる。
ハサミが完成しないせいで彼の髪は伸びっぱなしだ。元々短めだったおかげで、それほど鬱陶しくなっていないのだからもう少し猶予はある。髪が伸びた分中性感が増し、そこに最近色気が出てきたせいか、見惚れるほどかっこいい。好きな人フィルターで五割増しとはいえ、イケメン度が上がっている。
いつも髪を短くしていたのは、中性的要素を隠すためだったのだろう。むしろ隠さずにいたら確実にモデルになれていた気がする。
そんな人が私のことを好きでいてくれる。それがどうしようもなく嬉しくて、気付けばにたにたと笑っていた。
膝に乗る頭がもぞりと動き、仰向けから横向きに変わる。
「ごつごつして寝心地悪い?」
骨張った太ももは柔らかくはないだろう。がりがりからは脱却できたものの、ほっそりまではまだまだ先が長そうな身体は、未だ私のコンプレックスだ。
「むらむらして寝てる場合じゃない」
いやらしく撫で回された膝からその頭を落とした私は悪くない。もう最近そればっかりだ。
確かに素肌が触れ合うことは気持ちいい。言葉以上に伝わってくるものもある。けれど、さすがに毎日している上に、昼間からというのはいただけない。
昼間から──その表現がここには合わなくてなんともいえない気持ちになる。
常に明るい場所でのそれは、恥ずかしすぎて時々嫌になる。おまけにエネルギー化する時のきらめきのせいでいつもよりずっと明るい。いっそ目が眩むほど明るくなればいいのにと恨めしく思う。本当にこの世界はデリカシーがない。
おまけに今は排卵日が近いと、彼が自制中だ。いつか子供はほしいけれど、それが今ではないらしい。自分の身体のサイクルを、好きな人に知られている気まずさといったら。本当にこの世界は……。
ふと、ラップに包まれた白い空間を思い出した。
「ねえ、もしかしてラップの中に暗がりって作れる?」
「できないことはないけど難しい。ここってエネルギーのきらめき漬けになっているわけだからさ、それを排除するとある意味窒息する。そのラップの中だけ第三世界に繋げることもできそうだけど、そこまでの精度が今の俺にはない」
ラグに打ち付けた頭をさすりながらそう説明し、懲りずに再び膝に頭を乗せてきた。下から見上げてくる目がせつなそうに細められる。
「俺は純粋に世界に生み出された存在じゃないから、そこまで精度は上がらないと思う。俺は、この世界の扉や鍵となるために人工的に作り出された疑似体だから……」
偽物は本物には敵わない。そう呟く彼の唇を背中を丸めてそっと塞いだ。
世界が生み出す存在は、その世界の先駆けとなるような、世界の転換期に生み出されるらしい。組織という秘密結社のような存在に生み出され、あらゆる世界に影響を与える者の力によって誕生したという、彼もその一人。
それとは別に、世界がその存在に寄り添うものもいる。それが世界の一部となる私のような存在。
第三世界と呼ばれる元いた世界でも、歴史に名を残す人たちの大半は、善くも悪くも世界が寄り添った存在だ。時の権力者、歴史的発明者、悪魔と契約した者、そういったわかりやすい者のほかにも、人知れず世界に影響を与えるものもいる。それは人に限らず、生きとし生けるもの全てに、時として世界が寄り添う。
「いいよ。他人にとってひかりがどんな存在でも。私にとっては本物だから」
膝の上から後頭部に回された手に力が入る。再び触れる唇。深まらず、啄むようなその仕草──もしかして甘えられている? それに気付いた途端、むずむずとした妙な愛おしさがこみ上げてきた。
離れた唇が弧を描く。腰に回された手からあたたかさが伝わってくる。その満たされた表情を引き出したのは私だ。たとえうぬぼれであったとしても、彼がその表情を浮かべている事実がとにかく嬉しい。もっと彼を満たしたい。溢れるほどに満たしたい。
言い知れない感動を覚えていると、真下から「うげぇ」と、再び嫌そうな声が上がった。
「チビを追いかけて、第二皇子とその仲間たちもやってきた」
「えー……」
本当に面倒な予感しかしない。