青の深淵
二人ぼっちの生きる意味31 降臨
ふぁさっ、と音もなく広がった薄らと青を纏うきらめきの翼は、まさに壮麗だった。想像していたよりもずっとずっと美しく、たとえようもないほどの神々しさを放つ。
言われた通り、両腕を彼の首に回せば、片手が腰に回りがっちりと固定される。密着しすぎて恥ずかしいものの、その背後に見える、まるで星屑を集めたかのようなきらめきがあまりにも美しすぎて、恥ずかしさもその目映さに霞んでしまう。
歩き通しで内と外の境界まで来たところで一眠りし、目覚めたらそこに、仁王立ちしたサンちゃんがいた。あまりに恨みがましい視線に慌てて飛び起きる。
まん丸の濃い青と目が合ったような気がした瞬間、見えない壁を叩くかのように、何度も拳を振り上げ、力任せに振り下ろす。口がぱくぱくと動いて、何か叫んでいるように見えるのに何も聞こえない。
「サンちゃんの声、聞こえなくなってる?」
「のぞみと番ったからか、俺のコマンドの精度が上がった」
番う、という言い方に少しだけむっとしながら横になったままの彼を睨めば、むくっと起き上がりながら引き寄せられ、なだめるように唇がかすめられる。思わずサンちゃんに目を向ければ、今度は足で執拗に見えない壁を蹴っていた。本当、態度悪い。
「サンちゃん、いつからいたの?」
「のぞみが寝てすぐ」
まさかそれは、体内時計的に丸一日と言うことでは? 間違いなく歩き疲れた私は、丸一日寝ていただろう自覚がある。
「なんか、怒ってる気がするんだけど」
「さっきまではラップの存在自体も隠してた」
「そんなことまでできるの?」
「できるようになった」
すごい! 思わず声を上げると、まんざらでもなさそうな笑顔を見せた。
「パートナーを得ると精度が上がるんじゃないかって仮説があったんだけど、間違いないな」
「そうなの?」
「そうらしい。俺も自分で体験するまで信じてなかった。そのうちのぞみも使えるようになるはずだよ」
互いのマントコートをばさばさと振りながら付着した草を払い落とし、そのまま身に着ける。できるだけ姿を見せない方がいいという彼の提案だ。前回も彼は、フードまで被って姿をさらさないようにしていたらしい。
いつものように彼が赤い実をふたつに割り、スプーンで掬いながら大地に座り込んで口に運ぶ。
虫がいないからこそ、大地に座っても寝転んでも平気。虫がいないここは私にとってパラダイスだ。
「しばらく食べることもなくなるから、味わおうと思ったんだけど……味わいがないよなぁ、これ」
「飽きなくていいって言ってたくせに」
「そうだけど。さすがになんか別のもの食いたくなるなぁ」
黄色い実は最初に数回食べただけで食べるのをやめた。どうにも舌に残る渋みが合わない。他に食べられるものは今のところマカダミアナッツもどき位なので、食べることに関してはかなり不自由だ。
「お腹すかないってどんな感じ?」
「なんとも思わなくなるんだよ。口に何か入れようって気にならない」
「下の人たちって何食べてるの?」
「なんか、海藻っぽい草とか?」
「ベジタリアン?」
「さあ。興味なかったからあんま観察してなかった」
食べ終わったスプーンを持って立ち上がると、ようやくラップが消えたのか、サンちゃんの喚き声がいきなり聞こえてきた。相変わらずギャィギャィうるさい。
木の枝を傷つけて水を分けてもらい、スプーンを洗い、顔を洗い、うがいをする。切ってしまった枝は、適当に大地に挿しておくと根付く。トイレの目隠し代わりの枝が今では立派な生け垣になっている。
「赤い実の木の枝も挿し木にできるかな?」
「あれは無理だろう。特別な木だろう? あれって」
「やっぱり? 実はこっそり種をひとつ埋めてみたんだけど、芽が出なかった」
「のぞみも? 俺もやった」
ギャー! っとホバリングしながら顔の真ん前で叫ばれた。かなりむかつく。俺を無視すんな! とばかりに自己主張される。うざい。本気で腹立つ。
「サンちゃん、うるさいよ」
どれだけここで待っていたと思っているのだ! に始まって、ギャィギャィギャィギャィ文句を言っている。待たせたのは悪いと思うけれど、ここまで高圧的に捲し立てられるとイラッとする。
伝わってくる小馬鹿にしたような感覚はどう受け取ればいいのか。ここまでの上から目線は今まで受けたことがない。本気でイラッとする。
「ほら」
彼が放り投げた三角のチーズみたいな豆を素早くキャッチした途端、にんまりと口角を上げて黙り込んだ。絶対に友達にはなりたくない。
そのサンちゃんを先導に、翼を広げた彼に抱かれ降下する。かなりのスピードで降りているにもかかわらず、抵抗をほとんど感じない。マントコートがわずかに揺れる程度だ。
彼の真ん前を飛ぶサンちゃんの背中が、それはもう威張り腐っていて、顔を見合わせ、どちらともなくため息をついた。
「これは、あとで色々もめそうだな」
「そうなの? えっ? なんで?」
「俺の正面に立つって、色々問題なんだよ。神様の行く手を遮ってるってことだろう?」
なるほどと思う。何かで見たことがある偉い人の前を歩く人たちは、斜め前を歩いているような。サンちゃんは堂々と彼の真正面にいる。これでは彼の方がサンちゃんに付き従っているように見えなくもない。
そのあたりの考え方は、世界が変わってもさしたる違いはないらしい。
「どうするの?」
「しらん。面倒になったら上に戻る」
こそこそと互いの耳元で囁き合う。囁かれるたびに耳を吐息にくすぐられ、身をよじりそうになるのをぐっとこらえる。ここで手を離したら確実に死のダイブだ。さっきから怖くて下に目を向けられない。
どうやら大きく円を描くように降りているらしく、目の端に忍び込む景色がゆっくりと移り変わる。
「のぞみ、高いところダメ?」
「平気だと思ってたけど、さすがに怖い。本当はコアラみたいにがしっとしがみつきたいのを必死に我慢してる」
くくっと声を殺して笑われた。
彼が私たちにラップをかけている。そのおかげで空気抵抗を感じることもない。水中だと言われているここでは、空気抵抗とは言わないのかもしれないけれど。
遠目に見たこの世界は、お椀型をしていた。
地球が球の外に広がる世界だとすれば、この世界は球の中だ。それも半球。見上げるパラディススも、その底は丸みを帯びている。
淵からダイブする瞬間、水の中に飛び込むような感覚を思い描いていたものの、水面に見えていたそこは単なる境界でしかなかった。
彼の血に慣らされた身体は、初めて訪れた時に感じた外の凜とした冴えた空気すら希薄に感じ、確実に身体が変わっていることを実感した。
それは彼も同じで、無意識に使っているというコマンドの精度が互いに上がっているらしい。
「なんで水中なのに重力があるの? あれ? 浮力?」
「俺たちが重力って感じてるだけだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
よくわからないけれど、この際それは気にしない。水中だと言われているにも関わらず、呼吸している時点で色々おかしい。これも呼吸していると感じているだけで、実際には今までと同じように呼吸しているわけではないのだろう。脳の使われていない場所云々で、そんなふうに感覚が置き換えられているような気がする。
今までの世界でだって、どうして生きていられたかの根本的な何かは知らない。この世界で生きていられる、その事実をそのままのみ込むしかない。
爪先がとんと何かに触れた途端、足の裏が地についた。着いた? と目で訊けば、頷きが返される。怖くて彼の顔ばかり凝視していた視線をゆっくりと外し、しっかりと腰に回されたままの彼の腕を頼りに、怖々と首に回していた腕を下ろし、あたりを見渡す。
そこは、大きな白い広場のようだった。
大勢のこの世界の人々が地に伏せている。
それはまるで──失礼ながら服を着たトカゲの大群にしか見えなかった。
彼が「下に棲むものと交わろうと思わない」と言っていた意味がわかった。これは色々無理だ。種の違いをまざまざと感じる。
目の前にあるのは紛うことなき現実。
この世界の本当の姿が、この世界に棲むものの真の姿が、頭に、心に、身体に、じわじわと染みこんでくる。
ようやく、彼が「人ではない」としつこく言っていた意味がわかった。「人以外と交わる」という意味がわかった。
一見、人に見えなくはない。地に伏せていてもはっきりとわかる、髪のない頭部、なだらかすぎる肩、骨格の違い、肌の違い。ここに棲むものたちは明らかに人ではない生きものだ。
「俺のものになったこと、後悔した?」
耳元で囁かれた凪いだ声。ゆっくりと彼に目を向ければ、そこにあったのは無表情──。
「ごめんね」
意図せず言葉がぽろっと零れ落ちた。
その瞬間、無表情が崩れ、せつなく歪んでいく。腰に回されていた腕から力が抜けていく。青の瞳に漂うせつなさが次第に無に還っていく。
違う! そうじゃない!
必死に首を振りながら、しがみつくようにその胸元を握りしめる。その身体を抱きしめる。失いたくなくて、必死にその身体に縋りつく。
「本当の意味でわかってなかった。ひかりの気持ち、わかってるつもりでわかってなかった。ごめん。今まで私の気持ちを押しつけてた。本当にごめん。何もわかってなくてごめん」
零れ落ちる涙が、足下でかすかで繊細な音を立てた。涙で霞む視界の中、見上げるその青に宿る無が消えることを、ただ一心に祈る。
「大好き。たとえひかりが人じゃなくても、大好きなの。人じゃなくてもいい。ひかりが人じゃなくても、ずっと一緒にいる」
何をどう伝えればいいのかもわからず、それでも必死に言い募った。想いがうまく言葉にならない。伝えたい想いが強すぎて、それに見合うだけの言葉を見付けることができない。
彼はきっと、人だと認められたかったわけじゃない。人だと思われたかったわけじゃない。
人じゃない彼も認められたかった。人じゃない彼も見てほしかった。人じゃない彼も、彼なのに……。
どうして気付かなかったのだろう。
それなのに彼は、何もわかっていない私のことをまるで宝物のように大切にしてくれる。
「私きっと愛してる。愛ってまだよくわからないけど、でも、ひかりが人じゃなくても、卵を産んでも、生まれてくる子供が人じゃなくても、それでもひかりがいい。ひかりだから、それでもいいって思う。きっとこれが愛だって思う」
揺れる青がゆっくりと黒に変わる。細められた目が、柔らかな眼差しを生む。腰に回された腕にゆっくりと力が込められる。その背後で一際美しくはためいたきらめきの翼が、大気に沈むように静かに消えた。
その青の瞳に宿るのは、愛おしさだと思いたい。
本当のことを言えば、愛がどんなものかなんてわからない。もしかしたらわからないままかもしれない。それでも、この気持ちを言葉にたとえるとしたら、それ以外は浮かばない。
「お願い。私の全部をもらって。私にひかりの全部をちょうだい。ひかりの未来も、ひかりの子供も、ひかりに繋がる全てが欲しい」
許されたい。彼には私の全てを許してほしい。私も彼の全てを許したい。
緩やかに近付いてきた唇。確かめ合うようなキス。伝わってくるのは、静かで強い想い。
いつか、間違いなくこれが愛だとわかる時がきっとくる。その瞬間も、今と変わらず彼のそばにいたい。
ふわっと漂う甘やかな香り。まるで互いの感情が溢れ出したかのような、眩いほどのきらめきが辺り一帯を包み込む。
広場から、狂おしいほどの歓喜が沸き起こった。