青の深淵
二人ぼっちの生きる意味30 翼
穏やかな日々の中、何度も抱き合い、彼の血を摂取し、渋々万能薬を口にする。
教えられた気持ちよさと、覚えてしまった心地よさが、回を重ねるごとに快感へと変わっていく。それがどうしようもなく恥ずかしく、その恥ずかしさすら快感を呼び、その痴態を彼は喜ぶ。
決して抱き心地がいいとはいえない身体なのに、愛おしそうに大切そうに触れてくれる。それがどれほど嬉しいかなんて、きっと彼は知らない。
彼にも気持ちよくなってもらおうと拙いながらも試みれば、彼がそれをひどく嫌がることがわかった。彼は自分が与えたいらしい。
与えられることを極端に嫌うのは、両性である象徴を私には見られたくないからだろう。私なら、彼にだけは見られたくない。だから、私も決して自分からは見ないようにしている。ここに来た当初、泉に浮かぶ全裸の彼を見た時に、必要以上に焦っていたのはそのせいかもしれない。
いつかそんなもの消えてなくなればいい──そう、強く願いなから、与えられることを全力で享受している。そのせいか身体がどんどん敏感になっていき、それがまた彼を喜ばせることになる。それがどうにも悔しい。
不意に手の甲をつっと指先でなぞられるだけで、喉の奥から甘やかな湿り気がもれる。それに目を細めてふっと笑われるのが無性に悔しい。それだけで、足の間からきらめきがふわっと立ち上ってしまうのは、もっと悔しい。
生理現象が目に見えるのは、本当にデリカシーがない世界だと思う。
一度万能薬を飲まずに済まそうとしたら、とんでもない痴態を晒したので、それだけは二度とごめんだった。
「発情してるのぞみ、かわいいのに」
「あれをかわいいと言えるひかりはどうかと思う」
「いいんじゃん。おねだりとか、俺かなり好き」
本当に嬉しそうな顔で言うのはやめてほしい。思い出したくもない。
初心者にはハードルの高いことを次々とやらかして、醒めた途端羞恥で死ねると思った。彼がここぞとばかりに悪のりしたのも許せない。
変わらず赤い実の収穫に二人で出掛ける。
常に赤い実を実らせているあの木も、改めて考えればかなり不思議だ。
創世記に出てくる赤い実とは、本当はこの木のことではないかと思ってしまう。リンゴではなく、メロン大の桃みたいな実だけれど。だとしたら、たぶらかす蛇はサンちゃんだろうか。ありえなくもないそれが面白くて、思わず笑ってしまう。
彼に、どうした? と目を向けられ、なんでもないと笑いを堪えて返せば、訝しみながらも再び前を向いて歩き始めた。手を引かれ、いつだって私の速度に合わせて歩いてくれる。
そろそろサンちゃんと約束したひと月になる。
何も変わってないようでいて変わっているはずの私の身体は、下に降りるに耐えられるほどになっているらしい。心配しすぎる彼に促されるまま、血の摂取は五回もしている。これからも定期的に彼の血と彼の精液を摂取し続けなければならない。
「なんだか私って、吸血鬼とかサキュバスみたいだよね」
「そういうのも、迷い込んだものから生まれた発想だから」
ふと浮かんだ戯言に、「ごめん」と申し訳なさそうに謝られる。
「冗談にいちいち謝らないで」
憎まれ口を叩きながら、またもや口を滑らせたことに情けなくなる。無神経な言葉で彼を傷付けてばかりだ。謝りたいのはこっちの方なのに、謝れば余計に気にされそうで、憎まれ口を叩くしかない自分がほとほと嫌になる。
「文句言いながら、泣きそうな顔になるのはどうして?」
「だって……」
ふっと笑いながら立ち止まり、指を絡めて繋いだ手を引かれ、引き寄せられた先で唇が触れ合う。深まる前に離れてしまったそれに、物足りなさを感じるようになってしまった自分の浅ましさに嫌気がさす。どんどん貪欲になっていく。
「別に怒ってないし、傷付いてもないから」
「本当?」
「本当。ただ、面倒だろうなって思うから、その点では悪いなって思う」
「面倒だなんて思ってないから。それに、お互い様でしょ?」
「俺はどっちかといえば喜んでる方だから、余計に申し訳なく思うよ」
彼なしではいられなくなった私を、彼はことのほか喜んでいる。
どうしても自分自身の存在を認められない彼にとって、縛りつける枷があることが自分を信じる力に繋がるのであれば、いくらでも、いつまでも、囚われていたいと思う。
私自身も、それを負い目とする彼に安堵しているのだから、本当にお互い様だ。大概歪んでいる。
いずれそんなことを感じずとも、自信が持てるようになればいいと思う。お互いに。
いつかきっと歪みがなくなる日がくる。そう願って、今は歪みに縋る。
「そういえば、どうやって下に降りるの?」
「ああ、ダイブする」
再び歩き出したところで思い付いたことを訊けば、さらっと軽く返ってきた。ぎょっとして彼を見れば、悪戯が成功した子供のような顔で笑っていた。冗談はやめてほしい。一瞬本気にした。
「俺にも翼があるんだよ。目に見えないけど。エネルギーを翼にできる」
「うそ!」
「本当。俺もここに来て初めて知ったんだ。どうやってここから降りようかなーって考えてたら、それが頭に浮かんだ。たぶんコマンドって呼ばれるものの一種だと思う」
「コマンド?」
首を傾げた私に説明してくれたのは、まるでSF映画のような話だった。あのラップ──シールドもそのコマンドのひとつらしい。
第三世界の人たちが使わない脳の一部を別の世界の人たちは使っている。その逆もあるらしく、それが姿や文明の違いにも現れるらしい。第三世界で重力に耐えられるのも、水中にたとえられるこの世界でそれまでと変わらず当たり前のように生きていけるのも、身体の仕組み以上に脳の仕組みの違いが大きいそうで、聞いたところで「ふーん」としか思えず、そのまま口にしたら笑われた。
「のそみだって、無意識にコマンド使っているからここで生きていられるんだよ」
無意識のことを持ち出されても、理解できるわけがない。そういうものだと思えば、なんとなくわかった気になって終了だ。突き詰めて考えたところで正しく理解できるわけもない。
「翼かぁ、サンちゃんたちみたいな飛膜? それとも鳥みたいな羽の翼?」
「さあ。自分では見えないから。振り返ってもきらめきの塊しか見えない」
「そっか、すごく楽しみ。きっときれいだろうなぁ」
たどり着いた赤い実の木の下で、ふと首を傾げた。
「だったらどうしてここでも飛んで実を採らないの? 木に登る必要ないよね?」
いつものように枝に飛びつき、体操選手のように反動を利用しながら木に登り始めた彼に声をかける。
「ああ、ここでは使えない。パラディススの外じゃないと使えないんだ」
なるほどと、よくわからないながらも納得しながら、上から落とされてくる実を両手で受け取る。
「下では何を食べたの? おいしいものあった?」
「下に降りると食べ物は必要なくなるんだ。排泄もしないし、成長もしない」
「そうなの?」
驚きながら最後のひとつを受け取る。一度に収穫するのは六つだけ。
「ここのパラディススは古いから、第三世界の影響をかなり残しているんだと思う。第八世界に移り棲む時に多大な影響を受けたはずだって聞いてる。ほら、ノアの箱舟ってあるだろう? あれ、元は第三世界からの影響を別の世界に運ぶって意味だったらしい」
話しながらするすると危なげなく木から下りてきた彼が、幹のそばで待っていた私の手から、当たり前のように収穫した赤い実の入るカゴを取りあげる。
こういう何気ないことろに、くすぐったいような嬉しさを感じる。お礼を言うと、何言ってんだ当たり前だろうって顔をされることに、小さくも溢れそうな幸せに心が満たされる。
「この六個を食べ終わったら、下に降りるか。のぞみ、歌う覚悟しといて」
にやりと笑う彼が恨めしい。
「一緒に歌ってよ」
「絶対無理。俺、ものすごい音痴なんだ。耳ふさぎたくなるレベル」
中性的なかわいい顔をした、それなりにモテていたはずの彼が音痴。欠点のない人なんていない──誰かが言っていた言葉が浮かんだ。
「みんなでカラオケとか行ったときどうしてたの?」
「行かなかった。断固拒否」
「音痴だから?」
「狭い空間に閉じ込められるのが嫌だって言ったら、閉所恐怖症のヤツが妙に理解してくれて誘われなくなった」
「また嘘ついて……」
呆れ混じりの声に、へらっとした笑いが返される。
「嘘も方便って言うだろう?」
「それ、嘘つきの常套句だから」
今更しょぼくれても遅い。
ここは、彼にとって嘘をつかなくてもいい場所だ。以前、それだけでもここに来た意味があると笑っていた。
「もし、誰も一緒に来なくて、ここに一人ぼっちだったらどうしてたの?」
「どうしてただろうなぁ。下に棲むものと交わろうって気にはならないから、一人で生きて、死んでいったんじゃないかなぁ」
「友達がたくさん来てくれればよかったのにね」
「まあね。ヤツらと一緒なら、ここでそれなりに楽しく生きられただろうし、下に降りたとしても、それなりにやっていけたと思う」
穏やかに笑う彼を見ていたら、ここ最近無表情になることがなくなったことに気付いた。もしかしたら、もう嘘がなくなったのかもしれない。
「でも、やっぱりのぞみと一緒でよかったって思うよ。俺だけの相手っていうのは、格別だと思う。前にも話したけど、第九世界の人が言ってたんだ。自分が完成されるって。その意味がわかったよ」
言われたことはよくわからなかったけれど、その穏やかな笑顔を見ていれば、彼が自分で納得した答えを見つけたのだとわかる。
それが私の存在であることが、どうしたって嬉しくて、気が付けば笑っていた。
「二人っていいね」
「だな。自分の存在が安定してるのがわかるよ」
「そうだね、心がすごく穏やかになった」
「俺たちの安定が、この世界の安定にも繋がるから、いいことなんだと思う」
そう言って、綻ぶように柔らかで嬉しそうな笑顔を見せた。それを目にできた幸せを、しみじみと噛み締める。
きっとここに来なければ、彼と親しくなることも、その先の道が交差することもなかっただろう。ましてや、好きになることもなかったはずだ。
巡り合わせに感謝する。あの時、思い切って声をかけてよかった。