青の深淵
二人ぼっちの生きる意味
29 雫


「本当は、俺の血を与えた方がのぞみは楽なんだろうけど、最初は血に惑わされてほしくないんだ」
 一瞬意味がわからなくて首を傾げかけ、発情のことかと納得した。納得して、あの状態でそんなことされたくないと首を振ろうとして、けれど血の摂取は必要なことで、それを鎮めるために万能薬を口にするのかと思うと──うなだれた。どっちも嫌だ。

「考えてること丸わかりなんだけど」
「だって、どうすればいいかわかんないし」
「まあ、万能薬のことはあんま深く考えるなよ」
 なんだ、その軽い言い方は。人ごとだと思って。横臥している彼をむっとしながら睨めば、へらっと笑い返された。

「本当にいい?」
 へらっとした顔を急に真面目なものに変えて、これが最後とばかりに確認される。

 すでに水浴びは終えた。無駄に長く泉に浸かっていたせいで身体が芯から冷えてしまうくらい、念入りに洗った。浸かっているだけで汚れが落ちるとわかってはいても、体中を擦らずにはいられなかった。
 そして、いつも通り彼の腕の中に入り込み、無駄に冷えてしまった身体をあたためられている。

「しつこいよ。なんで私にだけそんなにこだわるの? 他の人とはもっと軽くしてたでしょ」
「当たり前だろう? ただの恋愛じゃないんだ。のぞみの一生を俺に縛るんだよ? ただ好きなだけじゃ済まないんだ」
 ただの恋愛という言い方にむっとすれば、向かい合う怖いくらい真剣な目に問い詰められる。

「一生だ。俺の相手になるってそういうことなんだ。嫌いになったからって別れることもできない」
「でもひかりは、その相手に私を選んでくれたんでしょ?」
「だからだよ。俺が勝手に選んでしまったから、簡単に考えてほしくないんだ。流されてほしくないんだ。今ならまだ引き返せる」
 どうしてそこまでこだわるのかがよくわからない。別れられないのはそれなりに大きなことだと思うけれど、きっとそれ以上の重い何かがある。

「もしかして、何かが変わるの?」
 苦しそうに顔を歪めた青の瞳が黒に変わる。

「卵を産むことの意味、ちゃんとわかってる?」
 実はよくわかっていない。ふらっと目を彷徨わせると、小さくため息をつかれた。

「ここで俺の精子を取り込むと、のぞみの身体が変わる。実際には何も変わらないけど、でも確実に俺にしか合わない身体になる。二度と第三世界に棲むものにも、第八世界に棲むものにも合わない身体になる。俺は、そのふたつのハーフだから……俺に適合してしまうと、二度と他に適合できなくなる。俺と別れて他のヤツと結ばれても、のぞみはそいつの子供を産めない」
「それが卵を産むってこと?」
「そう。俺の相手になるってそういうことなんだ」
「私だけが変わるの?」
「そう。理不尽だろう? もちろん俺はのぞみ以外とそういうことをしようとは思わない。けど、俺はモルモットだから正直わからないんだ。俺が拒否したところで勝手に俺の子供が作られる可能性もある」
 すでにサンプルはうんざりするほど採取されている。そう呟いた彼が、本当に悲しかった。
 彼という存在は、どうしてこうも自分の思う通りに生きられないのか。そんな悲しいことはもう終わりにしてほしい。

「もしかして、今までしてきたのって……クラスの女子とじゃないの?」
「違う。彼女たちとはしてない。組織に強要されてきた行為だ。それでも俺は、そうすることで男としての何かを得ていたんだ。だから、受け入れ続けた」
 淡々とした声。そこに何も感じられないほど平坦な声だからこそ、苦渋の思いが伝わってくるようだった。

「ただ、繁殖は一度も成功していない。第九世界の人が言ってたんだ、子供は愛情のもとに生まれてくるものだって。俺も愛情のもとに生まれてるって。それ聞いた時、そんなわけないって思ったんだ、じゃあ俺はなんで生まれたんだって」
 すごく落ち着いた静かな声なのに、最後はまるで悲鳴のように聞こえた。

 気持ち悪かった。性行為を強要されることが気持ち悪い。そんなことを強要する方も、それを受け入れる方も、正直気持ち悪い。
 それでも、それでしか男としての自分を保てなかったのだとしたら、繁殖と言ってしまう彼の乾いた言葉が、本当に悲しくてせつなかった。
 クラスの女子たちが彼を癒やしたいと言っていた気持ちが今になってわかる。ずいぶんと傲慢にも思える言葉だけれど、今なら心からそう思う。たとえ傲慢であっても、もう二度とそんな悲しい思いを抱えてほしくない。

 今、目の前に存在するのは、私が知る彼だ。私も、私の知らない彼より、私の知る彼をもっと知りたい。
 そのやるせなさを宿す青の瞳にゆっくりと手を伸ばせば、触れるのを戸惑うかのように、怖々と抱きしめられる。
 好きだから──それだけで見ないふりができることもきっとある。

 覆い被さるようにぎゅっと抱きしめられているその背にそっと腕を回せば、まるでしがみつくかのように抱きしめる力が強まった。かすかに震える背を静かにさすり、その髪をゆっくりと梳くと、少しだけ身体から力が抜けて、彼の重みが増した。

 見ないふりをしてきたのは彼もだろう。そうじゃなければ、きっと、耐えられなかった……。

「私のためにって思って。私のために生まれてきたって。私もひかりにために生まれてきたって思う。そうすれば、これまでのこともいつか許せるようになるかもしれない。きっと私たちの間には子供が生まれる。ひかりの中のみんなが生まれてくる。その先のことは、二人で一緒に考えよう? 組織のことはよくわからないけど、浮気を勧めるなって私が文句言うよ」
 図々しいことを言っているのは百も承知だ。それでも、本当にそうであればいいと思う。互いのために生まれてきた──この先そう思えるようになればいい。生きている意味になればいい。

 のぞみ、と耳元でかすかに紡がれた。それに頬を寄せることで応える。
 私のことをそう呼ぶのはただ一人。
 私が知らなかったたくさんの初めてを教えてくれた人。私が欲しくてたまらなかったたくさんのものを与えてくれた人。
 わたしはもう、のぞみ以外の何者でもない。のぞみ以外にはなりたくない。

「のぞみのこと、独り占めしてもいい?」
「ん。私も。ひかりを独り占めしたい」

 顔を上げた彼の目には青の雫が溢れそうだった。馬鹿だなと思う。なにも泣くことないのに。

 初めて目にした雫が、ひとつふたつと落ちてくる。声もなくはらはらと流れ落ちる雫に、今まで泣けなかったのだろうことが容易に知れて、咄嗟にその頬に指先を伸ばす。

 その孤独を想うと胸がつぶれてしまいそうだった。

 泣かないで、そう思うと同時に、いつか彼に言われた言葉を思い出す。きっと彼は、自分ではできなかったからこそ、そう言った──。

「泣きたい時は泣いて。私のこと、もっと頼って」

 手のひらに頬が寄せられる。細められた目から零れ落ちる涙。それに続けて、あたたかで優しい唇も落ちてきた。



 愛を確かめるなんて、幻想だと思っていた。
 けれど。
 触れてくる指先も、重ねられる唇も。触れられる肌も、重ねられた唇も。どこもかしこも熱を纏って、どこもかしこも熱を生んで。たくさんの想いが伝わって、たくさんの想いを伝えて。
 吐き出す吐息すら想いを孕んで、その想いを閉じ込めるかのように互いの唇で塞ぎ合う。

 ゆっくりと首をなぞるように降りていく唇に、首には筋というものがあることを思い知らされる。ぞくぞくとした寒気に似た何かが背中を駆け上がってくる。ゆっくりと繊細に、羽のように触れていく指先に、それまで知らなかった感覚を教えられ、初めて知る気持ちよさに翻弄される。お腹の奥からふつふつと何かが湧き起こり始める。
 胸元の小さなボタンがひとつずつ外され、ビスチェもどきから腕が抜かれる。肌の上を滑る布にすら、言い知れない何かが呼び起こされる。
 恥ずかしさと気持ちよさがせめぎ合い、たまらず湿った吐息が零れた。

 もどかしいほどゆっくりと舌を絡め合いながら、ゆるゆると胸の輪郭をなぞっていた手のひらが、その輪を縮め、その中心へと向かい始める。
 これでもかと存在を主張している胸の先に、その指先が優しく触れる。
 息が上がる。上がる吐息に艶めかしい声が混じる。それが無性に恥ずかしく、声を押さえ込めば、逃げ場所をなくした音が鼻に抜け、甘すぎる音があたりを湿らす。

「声、我慢しないで」
 胸元から聞こえた瞬間、胸の先を(ねぶ)られた。
 我慢していたはずの恥ずかしい声が、あっけなく上がる。

「いっぱい感じて」
 どこももかしこも、触れられるたびに、唇を寄せられるたびに、舐られるたびに、抑えきれない声が熱を孕んだ吐息と絡まり合う。手足の先に力が入り、身体が勝手に震えて跳ねる。

 互いの身体から立ち上る、むせかえるほどの花の香り。その香りに身体の奥がとろけ出す。

「のぞみ、わかる? のぞみの中から溢れだして、エネルギー化してる」
 くちゅっと小さく響いた水音。恥ずかしすぎて顔を背ける。目の端に映ったはっきりとしたきらめきが、無性に恥ずかしい。
 周囲をなぞられ、気持ちいい場所を執拗に擦られ、徐々に大きくなっていく湿った音と堪えきれない嬌声。目を閉じてもわかるエネルギーのきらめき。

 十分なぬめりとともに入り込んできた異物感と、それ以上に感じる気持ちよさ。探るように動いていた指先に、ゆっくりと内側が暴かれていく。感じていた異物感が、初めて知る気持ちよさにかき消されていく。
 自分の身体の中に誰かの一部が入っている。それは不思議でいて少し怖くて、どうしようもなく恥ずかしいのにどうしようもなく気持ちいい。

「のぞみからいい匂いがする」
 それまで知らなかった不安定で鮮烈な快感に、どうすればいいのかがわからない。彼の身体にただしがみつくことしかできない。
 鼻先をくすぐる花のような香りは、彼の血と同じ匂い。もしかしたら、これがフェロモンなのかもしれない。吸い込んだその香しさがお腹の底をとろけさせた。水音が大きく響く。その中に埋め込まれた指から与えられる刺激が、頭に、身体に、快楽を刻みつけていく。
 絡められた舌のぬめった気持ちよさに、喉の奥が甘やかな音を立てた。

「何もかもがきれいだ。のぞみも、エネルギー化も、何もかもがきらきらしてる」

 膝裏を抱え込まれ、「いくよ」と短くもたくさんの想いが込められた声がかかる。わずかな不安から伸ばした指先が、しっかりと絡め取られる。

 それまで以上の質量をともなった、初めて知る圧迫感。鋭くも鈍い痛みとともに、ゆっくりと身体が開かれていく。
 じわじわと時間をかけて進んでは退き、進んでは退きが繰り返される。ぐぐっと進むたびに、中がひきつれたような不快感と熱を生む。それなのに、くっと退かれると、かすかな気持ちよさと追いかけたくなるような淋しさを感じる。

「のぞみ」
 全てが埋め尽くされた瞬間、きつくきつく抱きしめられた。
「ひか、り」
 同じだけ、ぎゅっとしがみつくように抱きしめ返す。

 ひとつになるなんて、錯覚だと思っていた。
 けれど。本当にひとつだった。繋がるってこういうことなんだって、はっきりとわかる。
 心と体が繋がって、初めてわかることもある。心だけでも身体だけでもわからない何かが、きっとある。

 絡めた指を繋げたまま、何もかもが繋がった。やっと、ひとつになれた。
 甘くて、苦しくて、激しくて、優しくて、嬉しくて、せつなくて、幸せで、満たされて。
 たくさんの喜びがわき上がって、溢れるほどの涙になった。心が満たされる。

 ゆっくりと動き出したそこに、聞きかじっていたような大きな快感はないけれど、何かがそこかしこで芽吹いているのがわかる。じんじんした熱と痛みと圧倒的な異物感、そこに仄かな気持ちよさが同居した不思議な感覚。自分の外側では彼に抱きしめられ、内側では彼を抱きしめているような、そんな感覚。

「のぞみ、俺のものになって。一生俺に縛られて」
 苦しそうに顔を歪めながらも、潤む青に艶を漂わせた彼は壮絶に色っぽかった。その目で見つめられるだけで、体中が震える。
 揺さぶられながら何度も頷き返し、何度も何度もたくさんの想いを込めて彼の名前を呼ぶ。それに彼が息を詰めた。

 身体の奥に染みこんでいく彼そのもの。きっとそれは、彼そのものだ。私の中に彼の存在が刻み込まれる。
 互いに息をあげながら、きつくきつく抱きしめ合えば、何もかもがどうしようもなく満たされた。

 セックスが気持ちいいのは、何かを確かめられて、ひとつになって、心も体も満たされるからだ。
 満たされたくて心を通わせ、満たされたくて身体を繋げ、両方が満たされて初めて何かが生まれる。
 そんな、気がした。
 だからみんな、愛を確かめ合うためにひとつになろうとするのだろう。



「俺、今、生まれた気がする。愛のもとって意味がわかった」
「ん?」
「誰かを愛して、誰かに愛されて、初めて人は生まれるんだな」
 ん、と小さく喉の奥で返せば、重なる身体が大きく息を吐いた。

「セックスっていいな」
「ん、なんか、いっぱい」
 小さな震えが伝わってくる。これは声を出さずに笑っている時の振動だ。

「のぞみ、眠い?」
「ねむい」
「のぞみ、ありがと」
「ん、わたしも。ひかり、ありがと」
 彼の肩に頬をのせ、身体半分覆い被さるように重なると、心臓と心臓が重なり、ふたつの鼓動がひとつになる。

 ただセックスしただけなのに、何かが繋がった気がした。今まであったたくさんの不安が薄れていく。
 ただセックスしただけなのに、何かが変わった気がする。彼だけは何にかえても守ろうと決めた。