青の深淵
二人ぼっちの異世界トリップ
02 結晶化


「なんて呼ぼうか。名字は……嫌そうだな」
 よくわかるな、と思いながら、もしかして呼ばれるたびに嫌な顔をしていたのかと思い返していると、それが顔に出ていたのか苦笑いと一緒に「時々ね」と返ってきた。

「でも、名前はもっと嫌なの」
「じゃあさ、俺がつけてもいい? ここでの新しい名前。俺にもつけて」
 そう言うと彼は、あのかわいいと言われていた笑顔を見せた。



 眩しくて目が覚めた。
 それまでの薄暗い部屋にはない明るさに、瞼を開けようとするまさにその瞬間から、本当に異世界にいることを実感した。
 もったいぶるようにゆっくりと目を開けると、寝る前までの景色とは明らかに違う、見慣れない天井が目に飛び込んできた。

 こみ上げてくる興奮と緊張で身動きもできず、ふふふ、と我ながら気持ち悪い笑いがもれ、その気持ち悪い声にすら興奮する。
 自分の中から何かが猛烈に湧き上がるような、それまで感じたことのない、今にも弾けそうなくらいぱんぱんに膨らんだ期待と興奮の中──。

 ふと視線を感じてぱっと振り向けば、にやにやとほくそ笑む顔がそこにあった。
 すぐ隣にあるベッドらしき木の台の上に肘枕で寝転がりながら、面白そうな顔でこれまでの一部始終を眺められていたようで──。
 自分史上最高に興奮していた気持ちが、自分史上最速で冷めていった。

「おはよう」
 にたにた笑いを隠そうともしない彼が着ているのは、厚手のシャツのようなものとカーゴパンツのような大きなポケットがついた厚手のズボン。革の編み上げブーツ。特別見慣れないものではないけれど、生地自体はそれまでとは少し違うような気がする。

「おはよ」
 むっとしながら身体を起こすと、お腹あたりから足元にかけてブランケットの代わりなのか、マントとコートの間のようなフード付きの羽織りものが掛かっている。

 ベッドと言うには無理のある硬い木の台の上に、畳一枚ほどの分厚い毛布のようなものが敷かれ、その上にただごろんと寝ていた。
 枕にしていたのは二組の着替えが入っているフラップ付きの布の肩掛け鞄。私が着ているのは長袖マキシ丈のかなりボリューミーでレトロなシャツワンピ。何もかもが生成り一色。



 そこはまさに掘っ立て小屋だった。
 素朴な木のテーブルとスツールが二脚、キッチン代わりなのか木でできた細長い台が壁際に置かれ、部屋の一角には石でできた暖炉のようなものがあり、その前にはビロードのような濃い茶色のラグが敷かれている、八畳ほどの真四角の部屋。
 ベッドと言うにはお粗末な台がふたつ並び、その間になんとか押し込まれているサイドテーブルのような四角い台でぎちぎちの、扉もない小部屋。
 その二間だけ。トイレもお風呂も洗面所もない。
 ぐるっと一周見れば全てが見渡せる、それこそ隅々まで見渡せるほどこぢんまりとしている。何かで見た狩猟小屋や木こり小屋のようで、支え棒で開いている明かり取りと換気を兼ねたような小さな窓は、ガラスですらないただの木の板だ。
 床も壁も天井も、全てが木でできている、まさに木造の家。

 唯一の出入り口である扉を開ければ、その小さな一軒家は、森の中の小さな泉のほとりに建っていた。

 それは、童話に出てきそうなほど澄みきった泉。
 離れた場所から見れば青く見え、近づくほどに透明度が増し、間近で見ると透き通って見える、少し不思議な水を湛えている。
 三メートルほどのまん丸の水面には、その中心から水が湧き出ているのか、きれいな波紋が次々と広がり、その水面は光がきらきらと反射している。泉の底には真っ白な砂。魚はいない。水草も生えていない。

「この水、飲めるの?」
「飲めるんじゃない? こんだけ澄んでるし」
 隣にいた彼からそんな曖昧な返事をもらい、その冷たくも澄み切った水を両手で掬い上げ、ほんの少し舌先で舐めてみれば、それまであった疑わしさが薄れ「大丈夫」という根拠もない確信が生まれる。

 恐る恐る冷たすぎる水で顔を洗い、口をゆすぐ。口に水を含めば、根拠のない確信が、さらに一層強くなる。口をゆすいだあとに残るのは、その水面同様、澄み渡るかのような清々しさ。

 汚れた水が泉に戻らないよう、手前の地面に染みこませながら水を使っていると、隣で彼も同じように顔を洗っていた。こういう感覚が同じなのはストレスがなくていいなと、ぼんやり思う。
 顔を洗ったものの、タオルがない。仕方なくボリュームたっぷりのスカートの裾で顔を拭いたら、なぜか彼まで人のスカートの裾で顔を拭いた。むっとするとへらっと笑い返される。余計にむっとする。

 小屋に戻り、もう一度屋内を見渡し、いきなりのサバイバル感にがっかりする。
 それまでとまるっきり同じ生活レベルを想像していたわけではないものの、もう少しこう、近代的な生活を想像していた。
 扉の脇に立てかけられている斧や鉈のようなものが目に入り、より一層のサバイバル感にがっかりがもうひとつ積み上がった。

「トイレとかお風呂とか、どうする?」
「どうしよっか」
 妙に楽しそうな彼を訝しみながらも、どこか解放されたような気持ちになっているのは確かで。彼も同じように感じているのであれば、その様子にも納得する。きっと私も楽しそうな顔をしているはずだ。
 がっかりしている反面、それ以上にわくわくしている。



 そして、そういえば、と言い出した彼と一緒に、お互いの名前を考えることになった。
 ただぼんやりと考えていても仕方ないと、木をくり抜いて作られている深めのバケツのような桶を抱えて、食べられそうなものを探しに一緒に明るい森へと足を踏み入れる。

「とりあえず、家や道具があって助かった。最悪身ひとつでどこかに放り出されるかと思ってたんだ」
 それを聞いて、掘っ立て小屋だとぼやいていた自分が恥ずかしくなった。
 言われてみれば、ここで生きていくための最低限の道具は揃っている。暖炉には鍋のようなものもかかっていた。

「近くに人っているのかな」
「どうかな。頭の中に問いかけてみなよ」
 頭の中に問いかける? 一瞬首を傾げかけ、そういえばここに来る前に何かが頭に浮かぶと彼が言っていたことを思いだした。
 言われた通り自分に問いかけてみれば、思い浮かぶのは「否」という感覚。さっきの「大丈夫」という根拠のない確信と似ている。

「人っていないの?」
「いないみたいだな。たぶん人間以外の知的生命体がいるんじゃないかな」
「宇宙人みたいな?」
「どうだろう」
 興味なさそうに笑う彼を見ていると、自分もたいして興味がないことに気付く。積極的にこの世界にかかわっていこうという気がまるで起きない。生きていくだけでいいのであれば、この森の中でも十分だ。
 なにせこれから、トイレを作ったり、お風呂を作ったりと忙しい。勝手に作ると決めている。

「のぞみ、かなぁ」

 赤く丸い実のなっている木を見つけ、彼が木によじ登ってその実を上から落としている。うまくキャッチできなかったふたつほどが、大地の上でつぶれ、さわやかで甘い香りを漂わせた。かなりおいしそうな匂いに期待が高まる。

「ねえ、匂いにつられて動物がやってこないかな」
 不安になってそう声をかけると同時に、この森には私たち以外の生きものはいないような気がした。

「大丈夫だよ」
 木の上からもそう声がかかり、「いくよ」と、またひとつ実が落とされる。

「さっきの、のぞみってなに?」
「ん? ああ、名前。のぞみかなって。この世界で君の願いが叶いますようにって意味で、のぞみ」
 そう言われた途端閃いたのは、ひかり、だ。

「じゃあ、ひかり、かな。あなたの生きるその先が、光に満ち溢れていますようにって意味で、ひかり」

 するする、とはいえない、ちょっと危なげに木から下りてきた彼は、その足を大地につけた途端ほっとしたかのように息をつき、その身体についた汚れをぱんぱんと叩き落としながら近寄ってきた。

「のぞみにひかりか。新幹線みたいだ」
「気に入らない?」
「いや、いいと思う」
「私も、いいと思う」
 妙に照れくさくなり、互いに顔を見合わせへらっと笑い合う。

 それまでの名前とは違って、「のぞみ」という言葉が自分のものになったような気になった。気を緩めるとへらっと笑い出しそうで、自分が思った以上に喜んでいることに気付かされる。

 木の桶に入っている赤い実は、木になっている時はリンゴくらいの大きさに見えたのに、落とされてみればメロンほどに大きい。しかもかなり栄養価が高いと頭に浮かぶ。

「家のすぐ近くにこの木があってよかったな」
 彼が口にした「家」という言葉が、すんなりと心に入り込んだ。

「そうだね、泉もあって食べものも見つかって、次はトイレとお風呂を作ろう!」
 気合いを入れてそう宣言すれば、彼が「わかった」と笑いながら頷く。

「まあ、しばらくは交代で泉の中で身体を流すしかないだろうな。トイレは……その辺で、ってことじゃ……ダメだよね、のぞみは女の子だし」

 のぞみ。そう自然に呼ばれ、自分の中の何かがかすかに動いた気がした。ほんの少し、どこかがふるっと震えたような、そんな気持ちになった。もしかして感動しているのかもしれない。
 そんな恥ずかしすぎる気持ちを誤魔化すように、憎まれ口をたたく。

「女の子とか関係なくて。人としてダメでしょ、トイレがないのは」
「人は俺たちしかいないのに?」
 心底不思議そうに小首を傾げられた。地味にかわいいと思えてしまうところが意味もなくむかつく。

「じゃあ、私がその辺で用を足してもいいわけ?」
「まあ、いいんじゃない? 踏まない場所なら」
 そういう問題じゃない。

 桶に入りきらなかった赤い実を両手に抱え、彼が口にした「家」に帰る。その道すがらそんなことを話している途中で、隣から「あー…」と、少し間抜けな音が聞こえた。

「話していたら、したくなった。ちょっとここで待ってて」
 その場に桶を置いて、森の奥へと消えていく。青々とした瑞々しい下草は、踏み締める足音まで吸い込んでしまう。

 つくづく思う。好きな人と一緒じゃなくてよかった。これ、好きな人と一緒だったら絶対に言い出せないことだ。少なくとも私はぎりぎりまで我慢する。まあ、残念なことに好きな人と言われて思い浮かぶ顔もないけれど。

 しばらくして戻って来た彼の表情が、なんともいえないものに変わっていた。

「どうかした?」
「トイレ、必要ないかも」
 何を言い出すのかと呆れれば、「違うんだ!」と慌てた声が上がる。

 手、洗っていないよね。その手で食べ物が入った桶を持つのか。とりあえず私は、今自分が抱えている実を食べよう。
 こっそりそんなことを考えていたら、彼が言い辛そうに口ごもりながら、おかしなことを言い出した。

「あのさ、あー…どう言えばいいのか……おしっこが結晶化する」
「はあ?」
「なんて説明すればいいのか……まあ、のぞみも用を足す時、とてつもない衝撃を受けるはずだよ。とりあえず、頭におしっこって思い浮かべてみて」
 なんとも変態くさい発言に、冷ややかな目を向ける。

「いや、違う! いいから、思い浮かべてみて。そうしたらわかるから!」
 焦った彼の様子がふざけているようには見えず、渋々言われた通り頭に思い浮かべてみたら──。

「万能薬って……」
「だろう? 俺たちのおしっこ、どうやらここに生きるものたちの万能薬っぽい。しかも、ちょっと大きい方も思い浮かべてみて」
 言い辛そうな彼の言葉に、思い浮かべたくもない単語を無理矢理思い浮かべると──。

「固形燃料……」
「な。そういうの聞いたことはあったけど、まさか自分のそれがって考えるとさぁ……」
 嫌すぎる。けれどここでの燃料はそれだけらしい。あとは普通に考えて薪だろうか。ただ、火種がない。
 しかも──。

「この桶、固形燃料入れみたいだね」
 彼の情けない顔と声に、自分が抱えている赤い実を、渡してなるものかとぎゅっと強く抱え直した。