青の深淵
二人ぼっちで一人ぼっち28 青
サンちゃんになんとかお引き取り願おうと、二十日後にはもう一度降りることを伝えようとするも、二十日後というその期間がなかなか伝わらない。
サンちゃんはギャィギャィごねまくり、どうしても一緒に戻ると言い張って譲らない。
「お前の功績とか、俺たちに関係ないし」
ギャィー!
「しらんわ。自分の地盤固めくらい自分でしろ。俺のこと利用しようとか、百年早いわ」
キャィキャィキャィ。
「泣き落としとかわざとらしいからやめろ」
ギュィーっと叫ぶ、サンちゃんの身勝手さはどうにかならないものか。
テーブルに頬杖をつき、ため息を鼻に逃がしながら眺めているのは、腕を組んでスツールに座った呆れ顔の彼と、テーブルの上でわざとらしくよろめいた青緑の知的生命体。このリアクション芸もどうにかならないものか。
ギャィキュィ。
「最悪だな、お前。みんなにバラすぞ」
それはそれこれはこれ、と欧米人張りのジェスチャーで開き直るこの使者だか使徒だかは、かなりのお調子者だ。おまけに、だったら何か手土産をよこせと言ってきた。手ぶらで帰れるわけないだろう、との主張は、まあわからないではないが、がめついことこのうえない。
「手土産っていってもなぁ。この豆くらいだろう?」
それは独り占めしたからみんなには教えたくない。そうきっぱり自分勝手なことを言うこのトカゲもどきは、本当に図々しい。しかも強欲だ。こんなのに国を任せたら、確実に傾く。友達にもなりたくない。
「お前のそのある意味正直なところは賞賛するわ」
キュィー!
「褒めてないから」
ギャッ、と舌打ちした。
「そう言うからには、なんか目星付けてるんだろう?」
そう彼が口にした途端、待っていましたとばかりに濃い青のまん丸の目がきらんと怪しく光った。
テーブルの上でなんやかんやと主張していたその身を翻し、しゅたたっとテーブルの脚を伝って降りたかと思ったら、ひたひたと壁を這い上がり、開け放しの窓から一目散に外に出て行った。
もしかして万能薬だろうか。あれさえあれば大抵の病気や怪我は瞬時に治るはずだ。
「急ぐ時は四つ足なんだね」
「赤ちゃんのハイハイみたいなもんだろう? あいつのあの図々しさはある意味たいしたもんだよな」
「残りもの奪い合ってきたって言ってたからそのせいかもね」
サンちゃんは十三番目の皇子であり第三皇子なのだが、やはり孵化した順に多少なりとも優遇されるらしい。最終的には国に多大な功績を残したものが跡継ぎとなることが決まっているせいか、ほかの皇子を出し抜き、なんとしても功績を残したいと鼻息が荒い。
第一の遣わされしものとして、頭一つ飛び抜けた状態だったのに、彼が勝手に帰ってしまったせいで、頭打ちにあったらしい。そうなると堅実に地道な功績を挙げ続けてきた第一皇子が断然有利らしく、第二皇子はすでに戦線離脱しているとか。サンちゃんも早々に諦めて別の道を探した方がいいと思う。
そうこうしているうちに、羽ばたきながら戻って来たサンちゃんが両手で大切そうに抱えているのは、例のオパールで……。
「お前、よりによってそれ?」
互いに微妙な顔になるのも仕方がない。なぜよりによってそれなのか。それを食事するテーブルにあげないでほしい。
サンちゃんの説明によれば、これこそがあらゆるものの動力源なのだ! と、ほくほく顔だ。これほど大きなものは見たことがない! そう力一杯主張している。固形燃料と頭に浮かんだから、薪代わり程度のものかと思っていたら、動力源とは驚きだ。
さすがに全部くれとは言わないから、ひとつおくれ、と媚びに媚びた懇願の眼差しをホバリングしながら彼に向けた。最初はかわいいと思っていたのに、今や穢れきった媚びた眼差しだとしか思えない。ホバリングしているのもオパールを取り上げられないためだ。本当にせこい。
「いいけど……だったらひと月はゆっくりさせろよ」
キュィーン! オパールを掲げ持ち、テーブルの上に着地したサンちゃんは、その場でたんたんと尾をテーブルに打ち付け、キュイキュイ機嫌よく叫びながらくるくると回り始めた。いっそのこと芸人として生きていけばいいと思う。
「お前本当にわかってる? ひと月の間一度でも邪魔しに来たら二度と降りないからな」
わかったわかった、とおざなりな返事を残して、サンちゃんは早速とばかりに羽ばたいていった。本当に友達にはなりたくないタイプだ。
「残りの固形燃料は隠しておこう」
顔をしかめたままの彼に思わず頷いた。そのうちこっそり持ち出されそうだ。サンちゃんの評価が地を這っている。
二人きりになった途端、静けさが家の中を優しく包み込む。かすかに聞こえてくる水音を久しぶりに聞いた。
あまりの静寂が妙に照れくさい。なんだかいたたまれない。正面に座る彼の顔が気恥ずかしくて直視できない。意味もなくもごもごと口ごもる。
「のぞみ?」
「ん?」
ふっと息を吐くように笑われ、そっと窺うように顔を上げると、柔らかに笑みを浮かべた青の瞳が、ゆっくりと細められ、黒が強く前に出る。その色の変化に、青も好きだけれど黒も好きだなと、うっそりと息を吐く。
「どうした?」
「ん、ひかりの目の色、青もきれいだけど黒もきれいだなって思って」
一瞬きょとんとした顔が、次の瞬間にはふわっとほころんだ。
「この青は、ここの生きものの証なんだ」
「そうなの? イタリア人だからじゃないの?」
「違う。ここは、青の世界だから。青い瞳ってわけじゃない、青が浮かぶ瞳なんて人にはないだろう?」
そうだ。だから、わずかに青みがかっているにもかかわらず、ずっと日本人だと思い込んでいた。
青の世界。たとえられているという海王星も、確か青い惑星だった気がする。けれどそれよりも、青の世界と聞いて思い浮かぶのは──。
「地球と同じだね。地球も青の惑星でしょ?」
再びふっと笑った彼が手を伸ばし、テーブルの上に置かれていた指先が絡まる。
「もっと早くのぞみに逢いたかった」
「それ、私も思った。もっと早くひかりに出逢っていれば、生きていくのが楽だっただろうなって」
「俺もそう思う。そうしたら、色んなものを傷付けずに済んだだろうな」
一番傷付いてきたのは彼自身だろう。もうこれ以上傷付いてほしくない。だから──。
こくっと唾を飲み込む音が、思った以上に大きく聞こえた。
「私は、ひかりと一緒に生きていこうって決めてるから。だから、ひかりが思う時に、その、していいから」
「本当にいいの?」
目の前の青が、すっと細まり、黒に変わる。そこには、少しの緊張と覚悟のようなものが見て取れた。
「戻ろうと思えば第三世界に戻ることができるって言っても?」
頭に大きな疑問が浮かんだ。今見た彼の覚悟が、これを言うためのものだったのかと思うとがっかりする。
「あのさ、どんだけ言えばわかるの? 戻れるかどうかは今関係ないでしょ? 別にしたくないならいいんだけど」
「関係あるだろう! よく考えろよ! お前、人じゃないものと交わろうとしてるんだぞ!」
怖いくらい真剣な彼のその声と表情にイラッとした。今まで生きてきて、最高にイラッとした。絡まっていた指を乱暴に離す。
「じゃあ、今までひかりがセックスしてきたのはなんだって言うの!」
避妊できたから? そんなもの絶対じゃない!
彼がぐっと息を詰めた。それに怒りが爆発する。
「本当しつこい! ひかりは人だって何回言えばわかるわけ? 別にどうでもいいよ、卵を産もうがなんだろうが! ひかりってことが大事なんでしょうが! 馬鹿じゃないの!」
怒りにまかせて叫ぶだけ叫び、家を飛び出した。全速力で走りながら悔し涙が滲む。
本当に腹が立った。
正直言って、初めてそういうことをする緊張だってある。その意味での覚悟だって決めた。
それなのに、いつまでたっても「人じゃない」そればかりだ。なけなしの覚悟だって揺らぐ。
私だって、こんな私でいいのかと思う。親にまで捨てられるような子だ。誰かに大切にされたことなんてない。
女らしくもない身体で、今までひかりがしてきたセックスの方がよかったら──そう思うと、惨めで情けない不安しかない。
ここに来て、大切にされることを知って、あのあたたかで幸せなぬくもりを知って、その上でもう一度あの場所に戻れると知ったところで、戻りたいとは思えない。こればかりは、最初から戻れると知っていたとしても、戻ろうなんて思わない。
あそこには、戻りたいと思うものが何一つない。ここには、絶対に戻りたくないと思うほど、大きな存在が確かにある。
どうして上手くいかないんだろう。どうしてちゃんと伝わらないんだろう。
悔しくて情けなくて涙が溢れた。
走り疲れ、とぼとぼと歩き、鼻を啜りながら涙を拭う。しゃくり上げている自分が馬鹿みたいだ。
ふと聞こえた物音に顔を上げた瞬間、いきなり肩を掴まれ、強い力で抱き込まれる。痛いくらい抱きしめられる。
その力の強さとかつてないほどの乱暴さが、彼の必死さを伝えてきた。
「馬鹿じゃないの?」
「ごめん」
聞こえてきたのはくぐもった情けないかすれ声。
「大切に思ってくれるなら、早くひかりも覚悟を決めて」
「俺、本当にのぞみがいいんだ」
「私だってだよ」
「大切なんだ。失いたくないんだ」
「私だって大切だよ。失いたくないよ」
ぎゅっとしがみついた。
「本当は、穢すことが怖いって思いながら、欲しくて欲しくて仕方がなかった。俺のものにしたくて仕方がなかった。俺だけのものにしたかった」
「私だって、ひかりのものになって、ひかりを私に縛り付けたかった。元の世界に戻れるならなおさら私だけのものにしたい。誰にも奪われたくない」
抱きしめられてあたたかいと思うのも、こんなにキスが気持ちいいって思うのも、彼だからだ。きっと他の人とではこんな気持ちにはならない。こんなに愛おしくてせつない気持ちは、他の誰かには抱けない。誰にも譲れない。何ものにもかえがたい。
唇が離れる時にわざと音を立てるのはやめてほしい。恥ずかしくて仕方がない。それを嬉しそうに見るのもやめてほしい。
こういうところで見せられる余裕は、はっきり言ってあまり嬉しくない。それが顔に出たのか、なぜか嬉しそうに笑われた。余計にむっとする。
「俺、第三世界に戻るつもりはないんだ。この世界の扉を開くつもりもない」
「私だってだよ。戻りたいとも思わない」
「でも、そのうち何度か行き来しないといけなくなると思う。そのとき、のぞみも一緒に行ってくれる?」
指を絡めて繋いだ手を引かれ、家に戻る途中、本当に情けない顔で訊くから笑ってしまう。
靴も履かずに飛び出した私は、抱え上げようとする彼を阻止した。見れば彼も靴を履いていない。お互い情けない顔を見合わせながら、しょぼくれてとぼとぼ歩いている。
おまけに、適当に森の中を走りすぎたせいで、間違いなく一人では戻れない場所にいた。見つけてもらえてよかったと、こっそり胸を撫で下ろす。
「いいよ。ひかりが一緒なら」
「俺、勝手にのぞみを連れてきたんだ。本当は、許可を取ってからじゃないと連れてきちゃいけなかったのに」
「いいよ、一緒に怒られる」
そのときのほっとした顔といったら、笑ってしまうくらい子供じみていた。