青の深淵
二人ぼっちで一人ぼっち
27 オパール


 それまでと変わらない穏やかな日々が戻ってきた。

 彼のそばを片時も離れられることができなかった不安定な心がようやく落ち着き、それまで同様、ふらりと散歩に出掛ける彼を見送る余裕が生まれた。
 その間、彼は嫌な顔ひとつせず、それどころか妙に嬉しそうに寄り添ってくれた。きっとそれが心を落ち着かせてくれたのだと思う。一緒にいて嬉しいと思う気持ちを包み隠さず見せてくれたから、だから、安心できた。



 いざというときに持ち歩けるよう、割られた赤い実の種の殻に小枝を使って万能薬を詰め、大きな葉をかぶせ、ツタを巻き付けて零れないよう蓋をする。
 これに何度か助けられたことを思えば、微妙な気持ちを少しだけ端に寄せることができる。
 試しに割ってみた赤い実の種の殻がひと組み、果てを見に行った時に吸い込んだ殻がふた組み、真っ二つになっているそれぞれに万能薬を詰め、六つの携帯薬が出来上がる。森の散策や赤い実の収穫に行く時にも持ち歩いてもらえば、万が一手を擦り剥いても安心だ。

 そして、いまだ使うことがない固形燃料を目の端に入れ、それこそなんともいえない気持ちになった。

 ここに来てどれくらいたった頃だろう。彼が散歩に出掛けている間に初めてそれを体内から排出した瞬間、そのあまりの美しさに目眩を覚えた。
 オパールだ。つるんとした滑らかな丸み、ほのかな乳白色の中に虹色を宿す、どこからどう見ても大粒のオパールにしか見えないそれは、間違いなく排泄物なのに、神々しいまでの美しさで……。思いっきり遠い目になった。
 あまりの出来事に衝撃を受け、それを固形燃料入れの木製の便器もどきの下に爪先で弾きながら隠した。

 その数日後、彼がなんともいえない顔でその事実を告げてきた。まさかすでに知っているとも言えず、曖昧に笑って誤魔化したものの、すぐに見破られ、隠していたオパールまで発見され、羞恥で怒り狂った。
 今思えばあれが初めての喧嘩だった気がする。
 しばらく口をきかなかったものの、結局は彼の腕の中で眠り、翌朝には怒りも忘れた。そもそも彼が悪いわけでもない。して言えば、見て見ぬふりをしてほしかった。

 素手でつまむ気にもならないその美しすぎる粒は、無造作に固形燃料入れの脇に転がっている。一度に排出されるのは一粒。六粒転がっているのを見れば、互いに三度排出したことが簡単にわかる。わかるからこそ、本当になんともいえない気持ちになる。
 こういう生理現象があからさまに相手に知れるのは勘弁してほしい。この世界は人に対してデリカシーがない。人の方が招かざるものなのであれば、それも仕方ないと諦めるしかないのが、本当に心底やるせない。



「のぞみー。いらんもんにストーキングされてるー」
 間延びした嫌そうな声に、慌てて家の裏から表に顔を出せば、彼の肩につかまろうとするたびにぺしっと叩き落とされているサンちゃんがいた。

 サンちゃんが言うには、私が心配だからと彼は勝手に戻ってきたらしい。とりあえずサンちゃんにだけは言付けていたらしく、なんとかその場をサンちゃんが誤魔化してきたものの、いつまでたっても戻ってこないことにしびれを切らし、わざわざ迎えに来たらしい。

「一度降りたんだからもういいだろう?」
 ギャィギャィ反論しているサンちゃんは、完全に自分の保身に走っている。

「お前の立場とか知らんし」
 ギャーッと叫んだサンちゃんが、地面にぽとっと落ちた。ひくひくと四肢を震わせるそのわざとらしいリアクション芸に、顔を見合わせ無視することに決めた。



 サンちゃんが兎にも角にもギャィギャィうるさい。常時爆睡していたのが嘘のように、毎日毎日ギャィギャィ文句を言っている。
 ついに面倒になってラップのかかった小部屋にこもるくらい、サンちゃんが小姑化している。

「なんで俺があいつに説教されないといけないんだよ」
 番でもないのに私を独占するな! と、小部屋の入り口で仁王立ちしながら叫んでいるトカゲもどき。シュールすぎる。
 向こうからはこっちが見えないけれど、こっちからはその全てが見える。本当にあの青緑は態度が悪い。

「なんでサンちゃんは私たちが番じゃないってわかるの?」
「のぞみから俺の匂いがしないらしい。俺からものぞみの匂いがしないらしい」
「匂いって……そんなに鼻がいいの? 彼ら」
「さあ。どういう意味かは俺もよくわからん」
 使っていない方のベッドに腰掛け、作りかけのハサミらしきものから視線を外さず、これでもかとうんざり感がこもったため息を全身から吐き出した。隣に座る彼から相当げんなりしている様子がひしひしと伝わってくる。

「行かなくていいの?」
「行ってほしい?」
「まさか。でも、サンちゃんの言い分もわかる気がするから……」
 平等に各国代表と顔合わせすべきだとのサンちゃんの主張は、ずいぶんと一方的だけれど、わからないでもない。それを途中で放り投げてきた彼に、その順番を決めたサンちゃんが責められたそうで、そこはまあ、ご愁傷様としか言いようがない。
 それに耐えかねたサンちゃんが、彼を迎えに行くという口実で逃げてきたのだろうこともわかってしまった。

「神様なんて気まぐれなんだから、放っておけばいいんだよ。だいたいチビがいるせいでおちおちのぞみといちゃつくこともできん」
 サンちゃんが常に彼を見張っているせいで、彼のストレスは相当なものだ。自分のことを「神様」なんて言っちゃうくらい、疲れている。

 今まで常時監視の目にさらされてきた彼は、ここに来て本当にのびのびしていたらしく、再び監視の目にさらされることがそれまで以上に過敏になっている。
 常に監視される生活なんて想像もできない。けれど、確かにサンちゃんが常につきまとっているのは正直かなり鬱陶しい。しかもねちねち小うるさい。今まで爆睡しているだけで、その存在を気にすることもなかったせいか、常に目覚めているサンちゃんの存在が、その声同様無駄に大きい。

「下に降りるって約束して追い返す? 今度は私も一緒に行くから」
「俺のものになる覚悟できた?」
 手元から顔を上げた彼の目には、ほんの少しだけ熱がこもっていた。

「それは前からできてるんだけど……」
「まあな、俺もいざとなると尻込みするからなぁ。やっぱいいのかなって思うし」
 かすかに青の瞳が揺れた。

「そこはあんまり関係ないっていうか……」
「ん? じゃあ、何が心配?」
 顔をのぞき込まれるように首を傾げられる。この場面で無駄にかわいいのはやめてほしい。

「私、がりがりだし……」
 自分で言っておきながら惨めさに唇を噛む。情けないほど丸みのない女らしさに欠ける身体は、きっとその意味での抱き心地は悪いはずだ。胸だってたいしてない。

「そう? 俺はのぞみならどんな姿でもいいけど。そんなこと言ったら、俺、人じゃないけど?」
 苦笑いしながら小首を傾げた。その仕草にイラッとする。

「人だよ! 私よりよっぽどきれいな人だよ! 別にひかりが人じゃないとかはどうでもいいんだよ! 男のくせに無駄にかわいいのがむかつく!」
 そもそも、彼が私よりきれいなのが悪い。あのなめらかな白磁の肌なんて、本当にきれいでうらやましすぎる。小首を傾げる仕草のかわいらしさといったら、本当に腹が立つ。逆ギレも甚だしいけれど、叫ばずにはいられない。私もかなりサンちゃんに苛々させられている。責任転嫁だ。

 頬に触れた手のひらがあたたかい。親指の腹で噛んでいた唇をすっと撫でられた。

「俺は、人じゃない俺でもいいって言い切っちゃう、のぞみがいいんだ」
「私じゃなくたって、そう言う子は山ほどいるよ」
「いたらここにも一緒に来てるだろう? ここに来てくれたのはのぞみだけだ」
 見つめ合い、唇が触れ合おうとするその瞬間、まるで見計らったかのように聞こえてきた小姑の声。ギャィギャィうるさい。隠れてこそこそ何やってるんだ! とは、大きなお世話だ。
 超どアップで舌打ちされる。同じく舌打ちしたい気分だ。あのトカゲもどきめ。

「あれがいる限り、おちおちのぞみを俺のものにもできん!」
 怒りに震える彼が怖い。ここまで怒っているのを見るのは初めてだ。まあ、確かに邪魔された気はする。すごくする。大いにする。
 彼のラップで向こうからは見えていないとはいえ、サンちゃんの気が利かなさにはため息しか出ない。人の機微をここの生きものであるサンちゃんに求める方が無理なのかもしれないけれど、さすがに遠慮してほしい。

 またもやタイミングを逃した私たちは、とりあえずサンちゃんにお引き取り願うための作戦会議をこそこそと開いた。

「一緒に下に降りたら、のぞみ歌わされるよ? いい?」
「嫌だけど仕方ないよ。でも一回だけにしてほしい。そして音痴でも笑わないで」
「笑うわけない。俺の方が絶対音痴だから。とりあえず常に俺のそばにいて。ヤツら、うまいこと言って俺から引き離して即座に番おうとするから」
 それだけは絶対に嫌だ。彼らの性行為がどんなものかは知らないけれど、絶対に嫌だ。そもそも噛みつかれたくもない。

「ひかりと引き離されたら二度と歌わないって言う」
「ああ、それいいかも。すごかったんだよ、ヤツらの陶酔っぷり」
 彼がわざとらしいほどうっとりとした顔を作ってみせる。ぽかんと口を開け半目になったその顔は、さすがに不細工すぎて笑える。

「サンちゃんにはなんて言う?」
「できれば三回はのぞみに俺の血を与えたいんだ。連続してはちょっとキツイと思うから、三日くらい間を空けた方がいいだろうし……」
 発情した自分を思い出し、思わず顔に熱が集まる。相変わらず小部屋の入り口で仁王立ちしているサンちゃんに邪魔されないうちに、唇がさっとかすめられた。

「そのあとの状態を確認しながら、もう一度与えるかどうか決めるから……二十日後だな」
「二十日後ってどうやって伝えるの?」
「そこだよなぁ。こっちの時間経過がどんなだか、俺もまだよくわかってないんだよなぁ」
 そう言いながら、二人揃ってサンちゃんに目を向けると、仁王立ちのサンちゃんが、タイミングよく、ふん、と鼻を鳴らした。その無駄に偉そうな態度が無性にむかつく。