青の深淵
二人ぼっちで一人ぼっち
26 凪


「のぞみ!」
 扉が開く音と、その声が聞こえたのは同時だった。

 気付けば、ぬくもりの中にいた。

 弾かれるようにその腕の中に飛び込んだことも、それをしっかり受け止めてもらったことも、自分からその唇に唇を寄せたことも、それ以上に貪られたことも、ちゃんとわかっている。
 わかっているけれど、なによりもそのあたたかさに安堵して、このうえなくほっとして、何もかもが全部吹っ飛んでしまった。

「遅くなってごめん」

 帰って来てくれた。
 ただもうそれしかなくて、とにかくそのぬくもりから離れたくなくて、しがみついたまま何度も首を左右に振った。

 あとで思い返せば恥ずかしさでのたうち回るほど、心の内をぶちまけたような気がする。ぶちまけたくせに、自分が何を言ったかは欠片も憶えていない。
 けれど、それにひとつひとつ頷いて、ひとつひとつ答えをくれて、そのたびに涙を拭われ、唇を重ね、抱きしめられ、慰められたことは憶えている。

「俺は、何があってものぞみのところに帰るよ。どれだけ遅くなっても、必ず帰ってくる」

 私のところに帰って来てくれる人はいなかった。血の繋がった家族ですら、私のもとには帰って来ない。

「俺も、二度とのぞみを一人にしない。一人にしたくない」

 一人で生きてきたはずなのに、もう一人では生きられなくなった。二人を知ってしまえば、もう一人には戻れない。

「俺も、のぞみを俺のものにしておけばよかったって、一人になって後悔した。大事すぎて、俺なんかに穢されるのかと思うと本当は怖かったんだ」

 自分が何を言ったかは憶えていないのに、彼が何を返したかははっきりと憶えている。
 何度も何度も謝られて、そのたびにしがみつきながら首を左右に振り続けた。

 帰って来てくれた。
 結局は、それが全てだった。私のもとに、私のために帰って来てくれた、初めての人。



 そして私は、いまだ彼のものにはなっていない。 
 あのあと、たくさんのキスの最中、あまりにもその腕の中があたたかくて、安心して気が抜けた途端、意識を失うように眠ってしまったらしい。
 散々彼に愚痴られ、彼のシャツを着ていたことをこれでもかとからかわれたものの、ただそばにいるだけで満足してしまい、むしろそのぬくもりから離れられなくなり、それは彼も同じだったのか、それとも何か思うところがあるのか、特に催促されることもなく、再びまったりのんびりとした毎日が続いている。

 ひとつ変わったことといえば、妙な気恥ずかしさが抜けた。恥ずかしさがなくなったわけではないけれど、顔を背けることなく、嬉しさや恥ずかしさを照れ笑いに変えられるようになった。きっと不細工な顔でみっともなくへらへら笑っているのだろう。それでも、顔を背けるよりはマシだと思う。
 それに、笑うと彼もつられるように目を細め、優しい顔で笑ってくれる。それが嬉しくて、その顔を見たくて、顔を背けるのも目を逸らすのも、勿体ないと思うようになった。



「あれ? サンちゃんは?」
「えー…今頃気付いたの?」
 呆れ混じりの笑いを滲ませながら、サンちゃんを置いて戻ってきたのだと、彼が帰って来た翌日、赤い実を収穫に行き、それを三回食べたあとで聞いた。その間、全くサンちゃんの不在に気付かなかった。

 聞いたところによると、すでに彼の存在は知られていたらしい。
 ここでは第三世界と呼ばれる私たちが元いた世界よりも神の存在が強く信じられ、世界中がひとつの宗教に統一されている。多少の宗派はあるものの、元を正せば同じ神に行き着く。それが、世界そのものである彼の存在。
 ここに迷い込むほかの世界からの来訪者は、大抵何かしらの神として崇められ、無碍に扱われることはない。ただ、その種と交わり、残そうとする異常なまでの執着がかなり怖いらしい。

「ここって両性だから、全員が敵なんだよ」
「敵って……」
「気を抜くと襲いかかられそうになる。俺は男だって何度主張しても、意味がわからないって顔で黙殺された」
「男とか女とかって区別がなければそうかもね」
「貞操の危機って、女の人だけかと思ってた」

 彼は、たとえ両性であっても、この世界の生きものの血が混ざっていても、第三世界と呼ばれる地球上の人として、男として生きてきた以上、その性質は人であり男だ。それを黙殺されるということは、人格を否定されることと同じ。そう考えると、彼が「敵」とたとえるのは至極当然のことのように思えた。

「あと、のぞみの存在がバレた」

 私のことは、サンちゃんと話し合って内緒にすると聞いていた。
 私の存在を黙っている代わりに、サンちゃんが常に彼の連絡係となる。それがサンちゃんの地位向上に繋がるらしい。
 どうやらサンちゃんは跡取りの中の一人というだけで、ここにたどり着くほどの力を持っていてもその立場は弱いようで、私を番とすることでその立場を確固たるものにしようと目論み、失敗し、次の手に出たのが私の存在を秘密にする代わりに自分の立場を強める、第一の遣わされしものとなることだった。

「サンちゃんって、野心家だよね」
「生存競争が激しいらしい。あのチビ、十三番目の皇子だって。かなり立場弱いらしい」

 ここでは、翼を持つものが世界を支配し、彼らは一度番うと生涯寄り添い、一生に一度だけ産卵する。その数はなぜか決まっており、ひと番で十四だそうだ。
 下位の存在である翼を持たないものは、ときに番を変えながら、何度も産卵するものの、その数はやはり最大で十四まで。
 そして、彼同様成長は二段階あり、第二成長できる個体は一握りらしく、産まれる数に対し生き残る数は極端に少ない。
 サンちゃんは十三番目の皇子であり、実質第三皇子だ。生き残ったのはサンちゃんを含め三体だけ。けれどここでは、三体も残ったことは稀に見る慶事らしい。

「それで、なんでバレたの?」
「世界が凪いだんだよ」
 意味がわからず首を傾げると、彼はへらりとなんともいえない顔で笑った。

「俺も知らなかったんだけど、のぞみ、歌った?」
 まさか、あの調子外れな鼻歌を聞かれていたのかと目を丸くする。「やっぱりか」と呟いた彼は、急に真面目な顔で話し始めた。

「ここに棲むものと俺たちでは声帯が違うみたいなんだ。ここにも音楽はあるし、歌もある。でも、俺たちが歌うような、あんな繊細な感じの音にはならないらしい」
 どこからともなく聞こえてきたメロディーは、天上の旋律だと大騒ぎになったらしい。

「そもそも俺が声を出すだけでうっとりされる位なんだ」
 確かに彼の声は低すぎず心地いいと思うけれど、私のあの調子外れな鼻歌が天上の旋律とは、それこそ鼻で笑うしかない。

「私、歌上手くないけど。どっちかっていったら音痴だと思うし」
「俺だってだよ!」
 そう叫んだ彼は、余程音痴なのか、見たことないほどの渋面になり、「で、それもあって、帰ってくるのが遅れたんだ」と苦々しく呟いた。

 世界が凪いだ。
 それは、ここに棲むものたちにとって驚愕すべきことらしい。私たちがいた世界でも、どこかしらで大なり小なり自然災害が常に起こっている。それを止めるほどの力があると言われれば、その価値は計り知れない。

「で、チビが実は女神に名を賜り、女神と親しいって大威張りでさ。とりあえず一回殴っといた」
「名って、まさかサンちゃん?」
「そう。サンショウウオのサンちゃん。おまけに俺もチビってうっかり呼んじゃって、それも名を賜ったってことにされた」
「サンちゃんって……」
「すげぇ抜かりないよ、あいつ」
 彼の顔がこれ以上ないほどしかめられた。

「そういえば、ひかりがいなくなったあと、森がざわめいて、刺々しい雰囲気になったんだよ。なんだか見られているような視線みたいなものも感じて、すごく怖かった」
「ああ、そっか。そうだよなぁ」
 一人で納得している彼に、なんのことかと目で訴える。

「のぞみはまだ、この世界の一部とは認められていないんだ、きっと。まだ迷い込んだものでしかない。だから世界が厳しいんだ」

 別の世界に迷い込んだものは、その世界のものと交わることでその世界に認められる。交わらず孤のまま居続けようとすると、世界からの風当たりが強くなるらしい。
 それでも私は、彼の血を与えられていたことで、その風当たりも比較的軽いらしい。あの得体の知れない怖さで軽いなら、意図せず迷い込んでしまった人たちはどれほどの恐怖を味わうことになるのか。

「だから、パラディススから出ると予想以上に負担がかかってしまうんだと思う。ここは、迷い込んだものたちの避難所みたいな場所だから」
 その言い方は、いずれここから出なければならないことを示唆しているようで、少しだけ怖くなった。