青の深淵
二人ぼっちで一人ぼっち25 涙
サンちゃんと散々話し合った彼は、一人で下に降りることを決めた。何があっても数日で一度戻って来てくれるらしく、私はここで一人お留守番だ。
「この家と泉の周りにはラップがかけてあるから、何があってもそこから出ないように。森には絶対に入っちゃダメ」
「もう何度も聞いたよ」
「大事なことだから何度でも言う。絶対に俺のラップの外には出ないで」
「わかったから。顔近い」
眉間にしわを刻みながら、ぬうっと目の前に迫る彼の顔を手のひらで押さえる。その手を取られて、もう一度「絶対だからね」と念を押され、ついでとばかりにキスされる。
いまだ慣れないそれに頬が熱くなり顔を背けると、ふっと笑われるのがもはや日常化してきた。平気な顔でキス魔と罵りながら流せていた日々は、今や跡形もない。
「赤い実六つ、これ以上はダメになるから、これをのぞみが食べ終わる前には戻ってくる」
それはつまり、六日以内に戻ってくるということだ。
今朝一緒に収穫に行き、しばらく森には入れないだろうからと、ゆっくり散歩しながら戻って来た。それまで握手のように握っていた手を指を絡めて繋ぐようになり、それにいちいち反応して全身を熱らせ、おたおたと狼狽えてはくつくつと笑われている。
この赤い実は、一度割ってしまうとあっという間に傷んでしまう。
サンちゃんが来た最初の頃、この赤い実をひと匙、爆睡しているサンちゃんの枕元に置いておいたら、おそらく半日も経たない間に水分が抜けて、でろっとしたヘドロのような物体に変わってしまった。臭わないのが不幸中の幸いで、もし匂いがあったとしたらそれはもう最悪だろうと思われるその変わりように、そっと砂の中に埋めてなかったことにした。
おまけに、収穫して六日目まではおいしくいただけるのに、七日目になると同じくいきなりヘドロに変わる。あくまでも私たちの体内時計での日数計算だ。時々それが狂うと、六日目だと思って割った赤い実がヘドロになっていたことが何度かあり、割った瞬間零れ出てくるヘドロに、彼の顔が激しく歪むことになる。
「のぞみ、本当に一人で大丈夫?」
全身で心配を表しながらそう聞かれ、なんてことないふうを装って笑う。すでに泣き出しそうなほど後悔しているだなんて、自分でも間抜けすぎて知られたくない。
「大丈夫だよ。一人には慣れてるから」
そう言って送り出したはずなのに、その日のうちに寂しさに負けて泣けてきた。
今までこんなに毎日誰かと一緒にいたことがなかったせいか、いなくなった時の寂しさや喪失感にここまで打ちのめされるとは思わなかった。
慣れていたはずの一人ぼっちは、いつの間にか二人ぼっちに上書きされていた。
あまりの寂しさに泣いてしまうだなんて、子供のころ以来だ。
おまけに、彼がいなくなってしばらくすると森がざわめき始めた。
彼の存在に隠れていた何かが出てきそうで、言われるまでもなく怖くて森には近付けない。まるで底冷えするかのようなひんやりとした何かが漂っているようで、水浴びや洗濯も極力短時間で済ませ、軒下に改めて張ってくれたツタに洗濯物を手早く干して家の中に閉じこもる。
こんなことで六日も無事に過ごせるのかと不安になりながら、気を紛らわすためにサンダルを編む。
家の中で履くスリッパ代わりのサンダルを、落花生もどきのやわらかめのツタで編んでいる。彼は彼で、漆黒の殻を使って試行錯誤しながらハサミのようなものを作っている。
ここでの不足している色々も、下で手に入れてくると言っていた。
今となっては不便のままでもいいから、行かないでと言えばよかった。もしくは、恥ずかしがっていないでさっさと彼のものにしてもらい、足手まといになってでも一緒に行けばよかった。
好きだと認めた途端、それまで以上に嫌われることに怯える。呆れられていないかと不安になる。
こんなふうに一人の寂しさや、言い知れない薄ら寒さに涙を流すくらいなら、何をしてでも一緒に行けばよかった。
一人縮こまって眠るのは、それまで感じたことがないほどの心細さと凍えるような冷たさを植え付けた。
翌朝、顔を洗ってうがいをし、赤い実を半分食べ、残りの半分は勿体ないけれど砂の中に埋める。泉のそばをへらのように細くカットしてもらった枝を使って掘り起こし、そこに食べきれなかった実を埋めた。殻と種、スプーンを洗って家に戻ろうとして──ぞっとした。
どこからか視線のような、真っ直ぐ何かが突き刺さるような、ひりつくような何かを感じる。
誰かいるのかと思っても、頭には否定が浮かぶ。誰もいないはずなのに、まるで見られているような気がして身震いする。
一人でいることが不安だからそう感じてしまうのか、それとも、本当に誰かに見られているのか。それがわからなくて、わからないからこそ背筋が冷える。
その日は、一日中家に閉じこもっていた。あまりに怖くて、気を紛らわすためにここに来て初めて歌を口ずさんだ。いつかどこかで聞いたメロディーにうろ覚えの歌詞をのせた。
それが全て恋しくて寂しい気持ちを歌ったものばかりだったことに気付いて、一人狼狽える。また寂しくて泣いた。
「早く帰ってきて……」
口に出すと、一層寂しさが募った。一人縮こまって浅い眠りを繰り返す。
寂しくて寂しくて、彼のシャツを羽織ってみるも、それは何も与えてくれない。彼の匂いも、彼の体温も。
冷たい涙が零れた。
翌朝、顔を洗うために家の外に出れば、昨日までとは打って変わってなんの気配も感じなかった。森のざわめきも消えている。首を傾げつつ、今のうちにと水浴びと洗濯を済ませる。
どういうわけかその日は一日中穏やかで、ほっと息をつき、肩の力を抜いて家中の掃除と洗濯をした。
けれど翌朝には再び森がざわめきだし、ひんやりとした何かが漂い始めた。やはり怖くなって家の中に閉じこもり、気を紛らわすためにスリッパを編む。
更に翌日には再び見られているかのような、ぞっとする何かを感じ始め、怖くなってまたしてもへたくそなうろ覚えのメロディーを口ずさむ。恐怖で強張った頭にはもう歌詞すら思い浮かばず、ただただ、メロディーだけを口ずさむ。時折、早く帰ってきて、一人は怖い、寂しくて仕方がない、そんな適当な言葉を感情にまかせてメロディーにのせた。
「早く帰ってきて」
口に出して懇願する。幾度も幾度もそう呟きながら、ただひたすら彼の帰りを願った。何も与えてくれない彼のシャツをそれでも羽織り、縮こまって冷たく浅い眠りを繰り返す。
彼がいなくなっておそらく五日が過ぎたその日は、再びなんの気配も感じず穏やかだった。
残りひとつになった赤い実を眺めながら、肩の力を抜き、水浴びしようと家を出る。ざわめきのない森はひっそりと静まりかえり、それが余計な寂しさを連れてくる。
それでも、明日には帰ってくるはずだと思えば心が軽い。急いで水浴びと洗濯を済ませると、なんとなく泉の淵に座り込んで、その水面をぼんやりと眺めていた。
湧き出す水の波紋ではなく、零れ落ちる雫が作り出す波紋。
そういえば、切った髪が溶けてなくなる、そんな不思議な泉だ。淵源──そう頭に思い浮かんだのは、もうずっと前のような気がする。
ここに来て、体中の毛の色が抜けてきた。この泉の水の作用なのか、黒かった髪が茶色に変わり始め、むだ毛が目立たなくなっている。それは私だけではなく、彼も同じ──。
彼の面影を思い浮かべた途端、またしても寂しさに涙がにじむ。彼がいないだけで、こんなにも弱くなってしまう。こんなにも寂しくて心が締め付けられる。
しばらくただ涙を零しながら水面を眺めていたら、徐々に頭が重くなり強い眠気に襲われる。彼がいなくなってから眠りが浅い。ここに来て疲れが出たのかと、ゆっくりと立ち上がり家に戻った。
まだ眠るには早いと、スリッパの続きを編み始めても、気付けばうつらうつらしている。どうにも眠気が抜けない。もういっそ一眠りしてしまおうとワンピースを脱ぎ、彼のシャツを羽織り、一人ひんやりしたベッドに潜り込んだ。手足を抱え、小さく縮こまる。あっという間に眠気が襲ってきた。
ずいぶんと眠った。そう思うほど、長い時間寝ていた気がする。浅い眠りを繰り返し、完全に覚醒する前に再びまどろむ。それを何度も何度も繰り返した。
ベッドの中でぐうっと手足を伸ばし、えいやとばかりに身体を起こす。
寝過ぎて重い頭をなだめながら、着替えを後回しにして顔を洗おうと家の外に出れば、森のざわめきがそれまで以上に強くなっていた。不安を煽る強いざわめき。心なしかいつもそよいでいる風すら強く感じる。刺々しい気配を感じて、慌てて顔を洗い家の中に駆け戻った。
今日は彼が帰ってくるはず。そう思いながら、最後の赤い実にナイフを入れた瞬間、ヘドロが漏れ出た。一瞬わけがわからずパニックになりかけ、慌てて切り口を上向け、それ以上ヘドロが出てこないよう手で蓋をする。
いつの間にか六日以上経っている。
丸一日以上寝てしまったのか、それとも浅い眠りを繰り返していたせいで体内時計が狂ったのか、どちらにしても丸六日以上経っていることは間違いない。
彼が帰ってこない。
それを受け入れるのに長い時間を要した。
のろのろとヘドロになってしまった赤い実を砂の中に埋め、汚れてしまったテーブルを拭き、布巾と手を洗い、家に戻る。森から感じる刺々しい気配が、一層強まっているようで、心細さに涙が零れる。
彼が帰ってこない。
どうしていいかわからず、どうすることもできず、着替えることもできず彼のシャツを羽織ったまま、ラグの上で膝を抱えて小さくなった。
帰ってくることを疑わなかった。帰ってくるものだと思い込んでいた。今でも、帰ってくると信じている。
けれど、六日以上経っていることは間違いなく、私よりここでの時間経過をしっかりと感じることができる彼が、うっかり忘れているとは思えない。
何かあったのか。それとも、戻りたくなくなったのか。
二人きりだったことにどこかで安心していた。嫌われたくない、呆れられたくないと思いながらも、それでも二人で生きていくことは必然だと思っていた。
彼は、あのおとぎ話に出てくるようなこの世界でも生きていける。わざわざこんな不便な場所で、私と二人きりで生きていく必要なんてどこにもない。
どうしてもっと好かれる努力をしなかったのだろう。どうしてもっとちゃんと想いを伝えなかったのだろう。どうして、さっさと彼のものにならなかったのだろう。
ここに連れてきたのは彼だから、勝手に血を与えていたのは彼だから、それにどこかで安心していた。思い上がっていた。
欲しいと手を伸ばすものは、いつだって決して手に入らない。いつの間にか、手を伸ばすことも、欲しいと思うことすらも、諦めていた。
涙が溢れて止まらなかった。