青の深淵
二人ぼっちで一人ぼっち23 卵
そこからしばらくは、それまで通り穏やかな日々が続いた。
しばらくは、ギャィギャィ喚きながら、気に入ったから番にしてやろうと思ったのだ! との、かなり上から目線の言い訳めいた主張をしつこく繰り返していたサンちゃんも、諦めたのか最近はまただらだら寝て過ごしている。
どうやらサンちゃんはこの世界最大の宗教国の跡取りらしく、他国他者を出し抜いてここに来たらしい。そもそもここまで来られるほどの力があるのは自分だけだ! と、ふんぞり返って偉そうに主張していた。
色々バレてからのサンちゃんの態度は、それまでと違ってずいぶんと尊大なものに変わり、ますます番どころか友達にもなりたくない。
「ちゃんと国家とか色々あるんだね、ここには」
「第三世界より歴史が古いからね」
遙か昔は別の場所にあり、その場所にいられなくなったものたちが移り棲んだ、第八世界。
運動不足を実感したため、時々彼の散歩に付き合うようになった。彼はとにかくあの落花生もどきを探し回っている。
「私たちがいた、えっと第三世界だっけ? そこには移り棲まなかったの?」
「移り棲んだものもいたみたいだよ。それが、人魚や海底都市みたいな伝説として残ってる」
「ああ、竜宮城とか?」
「そうそう。半魚人とか」
なるほどねぇ、と声を上げると、杖のような棒で草をかき分けながら、落花生もどきと同じ葉を探し歩いていた彼が振り返り、ふわっと柔らかな表情で笑った。
「いいな、のぞみは。そのまま受け入れてくれて」
「そう? みんなそんなもんじゃない?」
「いや、根本が違う。戯言としてしか受け入れない」
棒の先で乱暴に下草をかき分けている。それがまるですねているかに見えて、笑いをこらえた。
「そりゃそうだよ。この世界を知らなければ、おとぎ話のように感じるよ」
この世界にいてすら、初めて聞いた時はおとぎ話のように思えた。実際にこの目で見たあの美しくしくも幻想的な光景すら、日が経つにつれて現実味が薄れ始めている。
「たとえそうでもさ、根っこのところで信じてるかどうかで、変わってくるだろう?」
確かに。彼の異世界トリップ話も、嘘くさいと思いつつどこかで信じていたからこそ声をかけた。
「それって、話自体を信じているっていうより、ひかりが信じてるならってのもあるかも」
「それはつまり、あそこで俺はのぞみ以外には信用されてなかったってことですかね」
「ちがっ──」
──わないかも。嘘くさい笑顔だったし。
むくれた表情をあえて作っている、その顔がすでに嘘くさい。
「そうやって嘘くさい顔するからだよ」
むっとしながら言い返すと、声を上げて笑い出した。かと思えば急に無表情になる。
「俺は、もうあの世界にはいたくなかったんだ」
そうかもしれない。人ではないと思い込んでいたなら、人で溢れていたあの世界は、彼には優しくなかっただろう。
「のぞみが、同じ世界にいなければ生きていけるって言った時、ああ俺もって心底共感できたんだ」
「でもそれって、ひかりが思うのとは次元が違うっていうか、重さが違うかも。私はただ逃げ出したかっただけだし」
「同じだよ。俺も逃げ出したかっただけだから」
そうはいっても抱えているものの大きさが違う。きっとまだ私の知らない何かを抱えているのだろう。無表情でそう呟いた彼を目に映し、なんとなくそう思った。
不意に立ち止まった彼が、真面目な顔で見下ろしてきた。
「俺は、近いうちにこの世界に降りなければならない」
急に言われたそれに、言葉が出なかった。様々な感情が綯い交ぜになって、言い知れない不安が押し寄せる。
「のぞみを一緒に連れて行くには、のぞみを俺のものにしなければならない。そうじゃないと、のぞみは下のヤツらに確実に襲われる」
「それは、被食者の意味で?」
「犯されるって意味で。ここでは、異種の交わりが尊いことのように思われてるみたいなんだ。第七世界は翼を持つものが棲まう世界だ。その第七世界から迷い込んだものと交わって、翼のあるものが生まれている」
犯されるという言葉に、背筋が冷えた。ぞくっと身震いすれば、どこか戸惑いがちにそっと抱き寄せられる。
「だからって、定期的に俺に犯されるのも嫌だろう?」
ほかでもないひかりなら、そう思う一方で、犯されるという言葉が使われたことに首を傾げる。
「ひかりも犯すの?」
「同じようなもんだろう? 俺は人じゃないんだから。俺のものにするためには避妊はできない。いずれのぞみは、人じゃない子を産むことになる。しかも、産むのは卵だ」
緩く囲われた腕の中から見上げた彼は、思った通り無表情だった。
彼が頑なに人じゃないと言い張る理由のひとつが、それなのだろう。人が卵を産むなんて想像すらできないせいか、現実として捉えられない。
「下の人と交わっても、産むのは卵なんでしょ?」
「そうなるな」
「ごめん、そもそも子供がほしいって思ったことないから、産むのが卵かどうかはひとまず置いといて、知らない人に犯されるのは正直勘弁してほしい。さすがにそこに感情がないのは無理──」
そこまで言って、また自分の失言に気付いた。
「ごめん。ひかりの存在を否定したいわけじゃないの」
感情などない行いで生まれた彼に、言っていいことじゃなかった。わかっていると言いたげな笑顔を返されて胸を撫で下ろしながらも、もっと気をつけなければと心に深く刻む。自分の迂闊さが嫌になる。
「俺は、最初からのぞみをここのヤツらに与えるつもりはなかったんだ。だから、ここに来る前に俺の血を与えた」
それは一緒に来る上で必要だったからではないのか。思わず首を傾げれば、再び歩き出した彼が言葉を続けた。
「先に血を与えておくと、この世界に順応しやすくなるんだ」
この世界に一緒に行くと言い出したのは私だ。順応しやすくしてくれるのは悪いことではないと思う。
「ほかのヤツなら血は与えない」
「え? なんで? 順応しなくていいの?」
「いい。ここにはちゃんと文明があることがわかってたから、ヤツらが自分で選んで順応していけばいいと思ってた」
自分で選んで──私にはその選択肢が与えられなかったということなのか。首を傾げれば、思っていることが顔に出ていたのか、振り返った彼に頷かれた。
「あの時俺は、のぞみをここのヤツらに与えたくないと思ったんだ。俺が欲しかった。簡単に言うとマーキングした」
「つまり私は、下の人たちに犯されることなく、ひかりのそばにいられるってこと?」
「できれば一生俺のそばにいてほしい」
「それはいいけど……」
「のぞみ、ちゃんとわかってる? 俺はのぞみと同じ人じゃないんだ。その上、のぞみの一生を俺に縛り付けようとしているんだよ?」
怒ったような声に怯みながらも、しっかりと頷く。
「いいよ。ひかりが望んでくれるなら、ずっと一緒にいたい」
再び抱きしめられた腕の中は、さっきよりもずっとその囲いが狭かった。狭い分、さっきよりもあたたかさが伝わってきて、それにほっとして肩の力が抜ける。
「なあ、のぞみ。いつか、俺の子供産んでって言ったら、どうする?」
何気なく聞こえた声とは裏腹に、腕に込められた力とかすかな震えから緊張が伝わってきた。後頭部に添えられていた手に力がこもり、顔がその胸に押しつけられる。
顔を見られたくないほどの何かが、きっとその言葉には込められている。
子供がほしいと思ったことはない。自分のような子供が生まれるのは、絶対に嫌だった。けれどその一方で、自分の子供はどんなことをしてでも守り、愛情をたくさん注いで育てたいとも思っていた。
ただ、それは理想であって、現実には無理だとわかってもいた。結婚どころか恋愛したいとも思えなかったのだから、必然的に子供はできない。誰かの精子だけをもらってシングルマザーになる覚悟を持てるほど、私は強くもなかった。
「ひかりの子供なら、かわいいだろうね」
「卵で生まれてきても?」
「生まれ方は正直よくわからないからなんともいえないけど、ひかりの子供はきっとかわいいと思う」
抱きしめる腕の力が強すぎて、顔を上げることすらできない。また無表情になっていないかと心配になる。
「俺の中には、死んでいった兄弟たちがいるんだ。死ぬ間際に、残っている兄弟にその一部をこっそり託し合った。最後まで生き残った俺の中には、たくさんの兄弟たちの欠片みたいなものがあるんだ」
「それを生んであげればいいのね」
勢いよく両肩を掴んだ腕に身体が離され、驚いた顔が見下ろしてくる。
「あれ? 違った? そういうことかと思ったんだけど……」
泣き出しそうに顔を歪め、再び勢いよく抱きしめられた。鼻が胸に思いっきり当たって、少し痛い。
「産んでくれる?」
「いいよ」
ここに連れてきてくれて、このぬくもりを与えてくれて、私の存在を喜んでくれた人の子供なら、どれだけでも生めると思う。たとえそれがよくわからない産まれ方であったとしても。
きっと彼は、かわいがって育てるだろう。彼の子供なら、どれだけでも愛情を注げる。
自分の中にあった頑なな何かが、ここに来たことでゆっくりと解けていった。
こんなに簡単に考え方が変わるなら、もっと早く、彼に出逢いたかった。
「そのかわり、子供を捨てないで」
「は? 捨てるわけないだろう?」
何を言っているのかと言わんばかりの声が返ってきて、思わず彼にしがみついた。
「できれば、私も捨てないで」
小さく小さく口の中に落としたそれを、彼はしっかりと拾ってくれた。
「俺は、何があっても、死ぬまでのぞみのそばにいる」
しがみつく腕に力がこもる。同じだけ、それ以上に、力一杯抱きしめ返された。
「なあ、のぞみ」
静かな声。静かなのに、熱のこもった声だった。
「こんな俺だけど、のぞみに俺の全部をやる。俺の全てをのぞみにやる。だから、のぞみも俺に全てよこせ。のぞみの全部は俺がもらう」
それが、最後まで残っていた頑なな何かを、粉々に砕いた。
砕け散った何かが、あたたかいものに変わって昇華していく。
「ごめんな、のぞみ。本当にごめん。でものぞみだけは、どうしても欲しいんだ」
苦しげに吐き出された、渇望にも似た何かを含むその言葉に、彼がどんな意味を込めたのかはわからない。どうして謝られるのかもわからない。わからないけれど、どうしても欲しいのは私も同じだ。
胸に広がるあたたかで苦しいほどせつない想いから、ずっと目を背けてきた。考えないようにしてきた。
この人が好き。
ようやく私は、それを認めた。