青の深淵
二人ぼっちで一人ぼっち22 ラップ
家に戻ってきて、まずは交代で水浴びをした。
行きはのんびり歩いて二日かかったところを、とにかく歩き通して一気に家まで戻って来た。
あの木の板のベッドにマット一枚よりは大地で寝る方がマシだけれど、二枚重ねのマットは段違いの快適さだ。寝ることに関してはとにかくひ弱な彼に、「寝るなら家で」と真顔でお願いされた。
「まさかのぞみが野宿なのに丸一日寝るとは思わなくてさぁ」
「ごめん、起こしてもよかったのに」
「気持ちよさそうに寝てたし。さすがに丸一日寝るのはどうかと思って起こしたんだけど、まだ寝足りそうだったじゃん」
確かに寝足りなかった。けれど、起きてみれば寝過ぎたのか身体の節々が痛んで、さすがに寝過ぎを自覚した。
それなのに、ただひたすら黙々と歩き通した今は、また丸一日寝てしまいそうなほど疲れ切っていた。ここに来てからというもの、あまりにまったりのんびり過ごしてきたせいか確実に運動不足だ。思っていた以上に体力が低下している。
ここが水中なのだとしたら、それまでとは違う筋肉を使っているのかもしれない。
「先に起きてていいからね。起こしてくれてもいいし」
「いいよ。ぼーっと考え事してるのも悪くないから。俺に付き合わせて疲れさせたんだし」
二枚重ねのマットの上に寝転がり、「やっぱりベッドは弾力がないと!」と極上の笑顔で力説している。今まで弾力のあるベッドで寝たことがながった私を軽くむっとさせるくらい、ご機嫌だ。
「なんでそんなに寝るところにこだわるの?」
「寝るところしかこだわれなかったから」
それ以外は全てが決められていたのだと、彼は諦めたような顔で笑った。
「俺は、研究対象のモルモットであり、世界を繋ぐ扉であり、その扉を開く重要な鍵だったんだ」
ベッドに腰をおろせば、後ろから伸びてきた腕に抱き込まれ、そのままころんと後ろに倒される。寝転がった場所は当たり前のように彼の腕の中で、その変わらない寝心地とあたたかさに、無事に戻って来たことをようやく実感した。
もしかしたら、二人で戻ってくることはないのかもしれない、そう思っていた。
ふうっと息をつきながら身体の力を抜けば、心が綻ぶかのようにじんわりと体中に安堵が広がっていく。
「何もかもが決められていて、食べられるものや使うもの、ありとあらゆるものが決まっていて、その選択肢もかなり狭くて、選ぶってことができなかったんだ。その中で、唯一自由になったのがベッド周りのもので、マットや枕の種類や硬さ、シーツの素材やデザインなんかが結構豊富で、それだけは自由に選べたんだよ」
「洋服は選べなかったの?」
「基本、訓練用のボディースーツか制服だったし。それ脱ぐときは大抵寝る前だったから……」
「パジャマは?」
「俺、裸で寝る人」
まあそうだろうなと思っていた。今も上半身裸だ。きっと私がいなければ下も履かないのだろう。
むき出しの腕に触れている彼の素肌はいつだってすべすべで気持ちいい。
「ひかりって、日本人なの?」
ふと思い立って訊いてみる。彼は日本人にしては彫りが深い気がする。まあ日本人でも彫りの深い人は大勢いる。光の加減で茶色にも見える黒髪から、ずっと日本人なのかと思っていた。
「ラテン系日本人」
「それって、スペイン人ってこと?」
「のぞみの中ではラテンっていうとスペイン?」
「それかイタリア。もしかしてポルトガル? あれ、フランスもだっけ?」
「イタリア人と日本人のハーフの遺伝子で作られています」
おどけたように笑う彼にぎゅっとしがみついた。
「ごめん。考えなしに訊いた」
「いいんだよ。のぞみは普通の感覚でなんでも訊いてくれて。俺の精子提供者がイタリア人と日本人のハーフだったんだ」
組織の研究者同士の間に生まれた、二世研究員だった、と何かを耐えるようにわずかに眉を寄せた彼から、そんな言葉が続いた。
「あれ? でもお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは日本人だったよね」
「あれは、父親の両親じゃないから。組織を引退した夫婦。赤の他人」
「なんで日本?」
もともと大西洋の島にいたなら、どうしてすぐ近くのイタリアではなかったのだろう。そもそも、この間も言っていた組織とはなんだろう。
「ほら、あの国道のずっと先に変なコンクリートの建物があるだろう? 窓のない丸い要塞みたいな」
「あの怪しい建物?」
「怪しい……やっぱりそう見えるのか」
呆れ混じりのため息をもらした彼に苦笑いで応える。
大きな円柱状のコンクリートの壁にしか見えない、窓ばかりか出入り口すら見当たらない建物は、何かの研究所だとは聞いていた。頻繁にヘリコプターが発着する様子はあまりに怪しすぎて、よからぬ研究をしているのではないかと面白半分に噂されていた。
「あそこが第九世界の研究所なんだよ。俺に訓練つけてくれた人が、第九世界の人と、その一部になった人なんだ。第二成長が終わって、一人生き残って、この世界のことを学ぶことになった時、第九要塞のある日本を希望した」
「でも、ここは第八世界なんでしょ?」
「第八世界と第九世界はそれなりに繋がりがあるから。だから許可されたんだ」
「んー…第九世界の研究所が第九要塞で、それが日本にあるってことは、第八世界の研究所はどこにあるの?」
「俺がいた大西洋の島」
「えっとじゃあ、第七世界や第六世界もあるの?」
「あるらしい。第七世界は第八世界とも繋がりがあるから、多少のことは知ってるけど、それ以外の世界のことは俺も知らない」
あっ、寝そう。ふと意識が途切れそうになって咄嗟に口走る。ゆっくり休んで、と返されたような気がした。
おもむろに意識が浮上し始める。
ゆっくりと静かに、穏やかに目覚めていく心地よさは、ここに来て初めて知った。そういえば、ここに来て夢を見ることがなくなった。覚醒しきっていない頭でぼんやり思う。
ふと、いつもあるはずのぬくもりがなくて、咄嗟に手を伸ばしてもその存在がどこにもなくて、慌てて飛び起きた。
「ひかり?」
怖くなって呼んだ声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
「ああ、起きた? ごめん、ちょっとチビと話してた」
慌てたように大股でそばに来てくれたその存在にほっとする。一瞬、何もかもが夢だったのかと怖くなった。
思わず手を伸ばせば、ベッドに腰をおろしながらぎゅっと抱きしめられる。ようやく確かめられたぬくもりにほっと肩の力が抜けた。
「ごめんな。こっちにはチビが入れないようにしてあるから……」
「そうなの?」
「そう。こっちは俺のラップがかかってる。万が一寝込みを襲われたら嫌だろう? 泉にも覗かれないようにかけてあるから」
なんだったか、障壁で、シールドだったか。すごいことのはずなのに、ラップで通じてしまうのが微妙だ。
「襲われるようなものがいるの?」
まさかと思いつつ訊いてみる。ここには私たち以外いないはずだ。頭にも変わらずそう浮かぶ。
「忘れたの? チビに食われそうになっただろう?」
そうだった。身体を離しながら呆れた顔をされる。ぬくもりが離れていった途端、肌寒さにふるっと震えた。それを見た彼が、もうひとつのベッド──今は着替えが置かれている無駄に大きな台の上から、腕を伸ばしてワンピースを取ってくれた。
「でも、食べられるって感じじゃなかったような……」
「まあね。あれマーキングだし」
「そうなの?」
マーキングって、縄張り的なものだったような……。ワンピースに腕を通しながら首を傾げる。
「のぞみってね、この世界だと女神みたいな扱い方をされるんだよ」
あまりに胡散臭い話に顔をしかめるも、彼がふざけているようには見えない。ワンピースの木の実のような小さな丸いボタンをひとつひとつ留めながら、「だったら」と声を上げる。
「私が女神なら、ひかりは?」
「神みたいな何か。ほら、俺と世界が繋がってて、のぞみはその一部になってるってあれ。宗教的に言うと、それって神や女神みたいなもんだろう?」
あまりに突拍子もない話に胡乱な目を向けると、「だよな」と苦笑いが返された。
「でも考えてもみてよ。別の世界から来た知的生命体だよ?」
「捕らわれた宇宙人的発想しかできない」
「ああ、まあ、そうとも言えるんだけど……」
嫌な未来しか思い浮かばない。
「でも、大切に扱うべき存在ってすり込まれているんだよ、ここでは」
「なんで?」
すり込まれるということは、そう仕向けられたということだ。
「ほら、もともと世界は繋がっていたって言っただろう? 昔はそれなりに交流があったんだと思う」
「それが行った先々で神や女神にたとえられたってこと?」
「そういうことじゃないかと思う。畏怖されていれば迷い込んだ方もおいそれとは危害を加えられないだろうし」
それとマーキングが結びつかない。
「それと、サンちゃんのマーキングの意味は?」
「あのチビはあれでいてこの世界の代表みたいなもんなんだよ。本来の姿だと適齢期らしい」
「もしかして本来の姿って、あの空飛ぶ人型翼竜?」
青のきらめきの中、気持ちよさそうに飛んでいた。
「そう。翼のある方が上位の存在らしい。で、女神を番にできたら、箔がつくだろう?」
つがい──思いっきり顔が引きつる。嫌すぎる。何もいいことがないような気がする。
実は彼のでこちゅーもマーキング。彼の血の効果が切れて、同時に私の額にあった印も消え、これ幸いとばかりにサンちゃんがマーキングしようとしたものの、残念なことに身体が小さすぎて噛み痕がしっかり残らず、マーキングは失敗に終わった。顛末はそういうことらしい。
「ごめん、お断りして」
「もう断った」
それを聞いて安心した。ほっと息をつけば、ふっと息を吐くように笑われてしまう。
さすがに番になれと噛みつかれても困る。しかも女神っぽい何かだからとりあえずマーキングしておこうという意図が透けて見えて余計に嫌だ。
ふと視線を感じて目を向ければ、小部屋の入り口に腕を組んで仁王立ちしているサンちゃんがいた。しかもトカゲというよりはサンショウウオのように丸くのっぺりとした顔が、不満そうに歪んでいることまでわかる。
体長三十センチほど。仁王立ちのサンショウウオ。しかもむっとした顔。そのシュールすぎる光景に、頭が痛くなりそうだった。