青の深淵
二人ぼっちのその先に21 アポストルス
内と外。
その境界際から少し森の中に戻り、そこでそのまま一眠りすることにした。
エネルギーを取り込んだからといって、疲れ切ってしまった身体がいきなり元気になるわけもなく。手を引かれるままに惰性で足を動かし、もうこれ以上は無理だと声を上げようとしたところで、「ここにしよう」の声がかかり、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
彼の心配を滲ませた苦笑いに、大丈夫だとの意味を込めて笑い返すも、引きつったような笑いにしかならない。それでも伝わるものがあったのか、小さくひとつ頷き「さすがに俺も疲れた」と息をつきながら、彼もすぐ隣に腰をおろした。
「念のためにって、あの種持ってきてよかった」
漆黒の実を割りながら言われたそれに、何度も頷く。万能薬も赤い実の種も、結局は私が使う羽目になっている。お互いに、いると思う? いらないんじゃない? でも一応持っていくか、そんなやりとりの末に用意したものだ。
「で、お前、まだここにいるの?」
当然と言いたげに鳴いたサンちゃんの、食べてもいい? のおねだり目線に、どうぞと一粒差し出せば、すでに隠すことをやめたのか後ろ足で立ち上がり、完璧な二足歩行で近寄ってきて、差し出された実を両手で受け取った。
さすがにあの景色を見て、サンちゃんがただのトカゲもどきだとは思わない。
「お前、帰ったらちゃんと説明しろよ」
キュィーっと鳴いたそれは、ええーっ、と嫌そうに聞こえた。
「ついでに俺たちが寝てる間、シールドな」
ギャィギャィ。
「文句言うなよ。ここまだ淵に近いだろう」
ギャィギャィギャィ。
「お前寝てばっかだっただろうが。今度は俺が寝る番だろう。やらないならもう豆やらねー」
ギャッ。
最後が舌打ちに聞こえたのは、間違っていない気がする。
「シールドって何? 盾?」
「盾っていうより、障壁とか遮蔽だな」
しょうへき? しゃへい? なんのことかと首を傾げていると、目に見えない壁のようなものだと教えてくれた。
「それを上下左右前後の六方向囲って中に閉じ込めた対象物を守ったり捕獲したりするんだ。食べ物にラップかけるようなもん」
最後のたとえがわかりやすかった。
「サンちゃんそんなことできるの?」
「できるんだよ。だいたい、ここにいられるだけでもこいつの能力は並大抵じゃないはずなんだ」
意味がわからなくて首を傾げていると、それもまた説明された。
「さっきの森を抜けた先に俺たちがいるのはきつかっただろう? こいつにとっては逆にここにいることがキツイはずなんだ」
言われてみれば、なるほどと思う。
「で、たぶん、ここにいるために小さくなってるんだよ、こいつ」
「無駄なエネルギー使わないために?」
「たぶんそんな感じじゃないかな」
「もしかして、だから寝てばっかりいるの?」
「それはどうかなぁ。単にこいつが怠け者ってだけだろう」
ギャィギャィと抗議の声が上がる。それまで何も言わなかったということは、彼の言ったことは間違っていないのだろう。
「お前、アポストルス……日本語だとなんだっけ、使徒だっけ? 遣わされたもの、だろう?」
キュィー。ご名答と、ちょっとふざけたふうに聞こえた。
「なるほどな。それなのにその態度か」
そうため息交じりに小さく呟いた彼に首を傾げつつ、そのままこてんと首が落ちそうになる。
「のぞみ、眠い?」
もう本当にへとへとだった。隠すことなく素直に頷けば、自分の鞄からマントコートを出して広げ、その上に横になるよう言われる。私の鞄からもマントコートを出し、それをかけてくれながら、彼もごろんと横になった。いつものように、当たり前に、その腕の中に入れてくれる。
「シールドよろしく。お前、中入ってくんなよ」
ギャィギャィ文句を言いながら、サンちゃんが少し離れた場所に移動する。ぴきっと何かが固まったような、そんな感じがした。
「これがシールド?」
「そう。見えないけど、ラップがかかったみたいになってる。ちょっと下手だけど」
「下手なの?」
見えないのに下手だとわかるのだろうか。
「下手だね。これなら俺の方が上手い」
「ひかりもできるの?」
「できるんだよ。こんな訓練ばっかりさせられたんだ」
「すごいね。何かのヒーローみたい」
そのあとの返事も聞かず、すとんと落ちるように眠ってしまった。
かすかな振動が伝わってくる。それは心地いいほど柔らかな震え。
「のぞみ? そろそろ起きる?」
耳に届いたゆったりとした声。ん、と喉の奥を鳴らし、それに答えようとするも、そのあとの言葉が続かない。
「まだ眠い?」
ゆるゆると頷けば、ふっと息を吐くかのような笑いが伝わってきた。
髪を梳かれている。顔にかかっていた髪が後ろに流される。何度かそれが繰り返され、頬に何かがかすかに触れる。それが心地よくもくすぐったくて、すぐそこにあるぬくもりに顔を埋めると、再びかすかな振動が伝わってきた。
「のぞみは本当によく寝るね」
そう? 答えようとしても寝起きの喉は喉は上手く動いてくれず、くぐもった声が出た。
「おまけに、あのマット一枚のベッドより大地に寝転んだ方がまだマシだって、どういうことなんだろうなぁ」
確かに。あの木の台の方が固い。
「すなち……」
「ああ、だからか。あのベッド改良して砂詰めようかな……」
それはどうかと思う。どうしてそういう発想になるのか。
「あの綿もまだ枕一個分しか集まってないし……」
「わたし、いらない」
「だろうね。のぞみの枕俺だもんな。俺も抱き枕はいらないなぁ」
ぎゅっと抱き込まれたことが嬉しくて、思わず頬が緩む。
「目、覚めてきた?」
頷けば、再びふっと息を吐くような笑いと振動が伝わってきた。
顔を上げた途端、かすめられた唇。なに? と思う間もなくもう一度重なった。妙な気恥ずかしさに再び顔をその胸に埋める。するとまた、かすかな振動が伝わってきた。
「きすま」
「のぞみ限定だけどね。愛情だとは思ってくれないの?」
その嘘くさい声にくすくすと笑みが零れる。
「うそくさい」
「本気で言ったら、のぞみは困るだろう?」
ふざけた声に紛れていた張り詰めたような何かは、外の凜とした空気に似ていた。
困らない、とは言えない。
まどろみを蹴散らしたその何かに心がざわめく。
「でもそれは、ひかりだからじゃないよ。誰に言われても困る」
「なんで? のぞみはそれなりにモテただろう?」
自分でも嫌悪が顔に出たことがわかる。それに彼が驚いたように目を丸くした。
「のぞみ、もしかして自分の顔が嫌いなの?」
嫌いどころか、お金があったら整形したい。
「なんで? 美人なのに」
「母親に似た顔は好きじゃない」
父親が憎々しげに吐き捨てた言葉が忘れられない。
私たちを捨てた母を父は許さなかった。その母の血を引き、母によく似た私を父は疎んだ。もっと父に似ていたら、もっと愛されたのだろうか。
いつか酔って帰ってきた父が口にした。母はとてもきれいな人だった、と。愛して愛してやまなかった、と。だからこそ憎い、と。
──お前には関係ないのにな。でもな、お前はあの女にだけ似ている。だから、お前も憎い。その顔を見たくない。
「俺は、のぞみのお母さんを知らないから、似てるかどうかはわからない。でも、俺はのぞみの顔、好きだよ」
「私も、お母さんの顔は知らない」
家に母の写真はなかった。幼い頃にいなくなった母の顔はよく憶えていない。
「だったら、似てるかどうかなんてわかんないだろう?」
「でも、お父さんが……」
「似てるって? のぞみが自分の顔を嫌うようになったのは、父親がそう言ったからなんだろう? そんな言葉なんて信じなくていいよ」
驚きすぎて、思わず起き上がった。
「そういうことだろう? のぞみに何があったかは知らないけど、だいたい想像はつく」
親に捨てられた子だと噂されていたのは知っている。祖父母もそれを否定しなかったことも。あそこでは、知られたくないことが当たり前のように知られていた。
「俺は、誰かに似ているのぞみなんて知らない。目の前にいるのぞみしか知らない」
ゆっくりと起き上がった彼が、そっと腕を伸ばしてきた。そのまま抗うことなく抱き寄せられる。
この人はいつもあたたかい。このあたたかさだけは失いたくない。
その彼に一番知られたくないのに。知られたくなかったのに。
彼の肩におでこをつけ、そっとその背に腕を回す。
「ひかりは、あったかい」
「のぞみだってあったかいよ」
このあたたかさを失わずに済むにはどうすればいいのかがわからなかった。