青の深淵
二人ぼっちのその先に
20 熱


 森から一歩出た途端、外に出たという感覚がはっきりと伝わってきた。その張りつめた鋭さに、思わず後退る。

「のぞみもわかった?」
「わかった。ちょっと怖い」
 それは、単に森の外に出るだけではなく、まるで何もかもがむき出しになるような感覚。

「どうする? やめる?」
 やめたかった。その一方で、あの海のような青の正体を、その先を、確かめたくもあった。

「ひかりは?」
「見るだけ見に行ってみる」
「私も一緒に行く」
 迷いがなかったと言えば嘘になる。けれど、一緒なら行ける気がした。ほんの数メートル先。怖いことなんて何もない。

 ほら、そう言って差し出された手を握る瞬間、やはりせつなさに胸を締め付けられて、泣きそうになった。それを誤魔化すように、ぎゅっと握った手に力を入れれば、同じ強さで握り返される。それに一層せつなさが募る。

 踏み出す一歩は、本当に勇気が必要だった。むき出しになるのはその身か心か。それすらわからないような刺々しさに気後れしそうになる。

「行くよ」
 敢えてだろう、そう声を上げた彼に頷き、歩き出す。

 一歩進むごとに何かがむき出されていくような、気付かないほどのかすかな傷を体中につけられているような、ぴりぴりとした空気を感じた。
 ふと頭に浮かんだのは、凍え。そうだ、身を縮めたくなるような、むき出されているような、肌がぴりぴりと痛むような、この感覚は真冬の空気に似ている。それよりもずっとずっと冴えた何か。
 実際に寒さを感じるわけではないのに、そこは凜と張り詰めていた。

 踏みしめる足下が草から砂に変わり、そして、目の前に広がる真っ青が、近付くほどに澄んでいく。泉の水と同じ現象。
 吐き出す息がきらめきを生む。真冬に吐き出す息のようなそれは、まるでエネルギー化しているようで、驚いて隣を見れば、彼も目を丸めていた。

「あんまり長くここにいない方がいいな」
 息を吐き出すごとに体力が奪われていくような──違う、熱が奪われていく。熱はエネルギーそのものだ。



 歩を進めるごとに目に飛び込んでくる景色に、驚きすぎて言葉を失う。
 青がその色を失っていくその先、澄み渡るその広大な水面(みなも)
 そして、たどり着いたその淵から見下ろした景色に目を奪われた。

 白亜の街。クリスタルパレス。行き交う人魚。飛び交う翼竜。
 おとぎ話の中の世界。
 眼下に広がる海底都市。

 どこかで見たことがあるような、けれど決して見たことがないような、幻想的な景色が広がっていた。
 どちらともなくその淵に膝をつき、握り合ったまま手を地につけ、さらによく見ようとのぞき込む。

 到底目に見えない距離なのに、見ようと思えばカメラのピントが合うように見たい場所がズームされる。その不思議な感覚に戸惑いながらも、いつしかそれに慣れていく。

 本当に小さく小さく見える人魚だと思っていたその姿は、まるで尾が生えた人のようで、飛び交う翼竜は、その尾が生えた人が翼を持ったような姿だった。

 ふと、人はこの翼と尾を失ったのか──そんな考えが浮かんだ。

 繋がれていない方の指先をその淵の先へと延ばそうとした瞬間、ギャィっと声が上がり、指先を阻むようにサンちゃんがその指先に噛みついた。

「チビ、よくやった。でも噛むな!」
 なぜか彼がサンちゃんを褒め、いまだ指先に噛みついたままのサンちゃんを目にしながらむっとしている。

「この淵の先、たぶん氷点下どころの話じゃない」
 彼の片手がサンちゃんのあごをがしっと掴み、ぐいっと口の左右から力を加えると、サンちゃんの口がかぱっと開いた。すかさず指を引き抜き、血が出ていないことを確かめ、こっそりスカートの裾でその指を拭う。

「そうなの?」
「そう。今の状態で触れたら、間違いなく指先が壊死する」
 どうしてそんなことがわかるのか。けれど彼の言葉を頭の中が勝手に肯定している。
 おまけにサンちゃんまでが、そのとおり、とばかりに偉そうにキャィっと鳴いた。一度ならず二度までも、人に噛みついておきながらこの態度。

「ありがとうって言ったら、サンちゃんは噛みついてごめんねって謝る?」
 心外だとばかりにギャィギャィ抗議された。

「サンちゃん、面倒だからって噛みつかないで。マーキングもダメ」
 哀れっぽい声を上げて誤魔化そうとしてもダメ。さっき仁王立ちしていたのを見た。そのあとの彼とのやりとりで、彼が生まれたばかりの子供じゃないこともなんとなくわかった。
 そして、面倒だから噛みついた──そんな意思のようなものが伝わってきている。あわよくばマーキングできないか、とも。トカゲもどきの表情ははっきりとはわからないものの、感情のようなものがそれなりに伝わってくるせいで、文字通り心の内が透けて見える。



 再び、淵からその中を、その真下をのぞき見る。

 青のきらめきの中にあるその景色は、どれだけ見ていても飽きなかった。
 白亜の街並みは、きっと白い砂が固まってできた砂岩でできているのだろう。水晶の城のように見えるあれは、何でできているのか、ガラスのようにも氷のようにも見える。
 星が瞬くように、きらめきが浮遊する。
 国のような大きな街。その周りに広がる小さな町。その遠くにまた大きな街が見える。
 遙か眼下に広がる光景は、本当に物語の中の景色のようだった。まるで天上からから見下ろしているかのような、まさにパノラマ。

「そろそろ森の中に戻ろう。ここにいるだけで体力が奪われる」
 森に引き返そうと立ち上がりかけ、またしても腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。身体に力が入らない。

「ああ、クソッ、そうか」
 そんな声を上げながら、慌てたように抱きかかえられる。突然の浮遊感に、しがみつきたくとも身体が上手く動かない。そんな不安が伝わったのか、しっかりと彼の身体に抱き寄せられる。抱え上げられた羞恥より、彼も同じように体力を奪われているはずなのにと、申し訳なさに俯くしかない。

「ごめん、俺がこれだけキツイなら、のぞみはもっとだって気付くべきだった」
 違う。こんなになるまで気付かなかった私が悪い。そう言おうとしても、顔を上げることすらままならない。それでもなんとか顔を上げ、口を開けたのに、喉が上手く動かない。

「言いたいことはわかるから」
 そう言いながら慰めるかのように目元を和らげ、足早に森へと戻る。

 内に入った。
 それがはっきりとわかるほど、森に入った瞬間、全身がいきなり緩んだ。どれほど身体に力が入っていたかを思い知らされる。これだけ力が入っていたならそれ以上は無理だと思うほど、これでもかと身体が強張っていた。

 抱きかかえられたまま、彼がふーっと大きく息をつき、大地に座り込む。
 膝の上に抱えられたまま身じろぎすらできずにいると、彼が焦ったように自分の鞄から赤い実の種を出した。それをナイフの柄で力一杯叩き、ひび割れたところからエネルギーが漏れ出したそれを口元に運ばれる。

「吸える?」
 すでに瞬きする力すら失われそうで、首を振ることもできない。
 察した彼に吸い上げられたエネルギーが口移しで流し込まれる。ひとつ分取り込んだだけで、わずかながら身体が動かせるようになった。身体に熱が戻ってくる。

「あり、がと」
「ごめん、もっと早く気付けばよかった」
「自分、ことなの、に、気付かな、った私、が、悪いよ」
 もつれる舌を駆使してなんとか声を出していると、もうひとつひび割れた種が口元に運ばれる。すうっと吸い込めば、ほわっと体中が一気に暖まる。寒さを感じたわけでもないのに、エネルギーを取り込むと、身体がずいぶんと冷えていたことがわかる。

 死にかけていた。たぶん、そういうことだ。
 それが今になってはっきりとわかり、気付けば、すぐそこにある存在にしがみついていた。

 まるでその実感がなかった。いつの間にか動けなくなっていた。身体がだるくなったわけでも、重くなったわけでもない。どこかに痛みを感じたわけでも、息苦しさを感じたわけでもない。最初に感じた凍えにも似た感覚がずっと続いていただけだ。それすら、いつの間にか気にならなくなっていた。

「本当ごめん。もっと早く気付くべきだった」
 ぎゅっと抱きしめられ、小刻みに震える身体から、その震えが包み込んでくれる身体へと移っていく。

「よかった」
 耳元で囁かれた多分に安堵を含む震えた声が、こんなときなのにどうしようもなく嬉しかった。自分の存在が無事であることを、こんなふうに喜んでもらえたことはない。

 ああ、生きていたのか。そんな目で見られることが常だった。
 死んでほしいと思われていたわけではないだろうけれど、生きていることを望まれていたわけでもない。無関心の先の、ただの気付き。

「ありがと、ひかり」
 生きていてよかった。

 ただ、悔しくて生きてきた。ただ、悲しくて生きてきた。ただ、寂しくて生きてきた。
 いつかきっと生きていてよかったと思える日がくる。
 そう誰かが言っていたから。そう誰かが歌っていたから。そうどこかに書いてあったから。
 そんな日が自分にも来るのか半信半疑だった。期待する分、諦めてもいた。諦めながらも、それを心の底から望んでいた。

 こんなに嬉しいとは思わなかった。こんなに心が震えるとは思わなかった。こんなに、愛おしいとは思わなかった。