青の深淵
二人ぼっちのその先に
19 香り


「俺無理。野宿無理」
 まだ眠くて仕方がないうちに叩き起こされた第一声がこれだ。

「ごめん、私が寄りかかってたから」
「いや、俺ものぞみにもたれかかってたし。素直に寝転がればよかった」
 しょぼしょぼする目を擦りながらその情けない顔を見て、どうして彼はこうも眠ることに関してはひ弱なのかと思う。
 ぎゅっと背後から抱き込まれるようにもたれかかられていたせいか、首と背中が痛い。ぐうっと伸びをして、体中のこりをほぐす。足の疲れがまるで取れていない。

「やっぱりあのマット持ってくるべきだった」
「でもあれ、かなりかさばるよ」
「そうだけど! 一刻も早く果てを見て帰ろう!」
 その一言に、どれほど私が安堵したかも、歓喜したかも、彼は知らないだろう。

 ぶつぶつと文句を言いながら赤い実を半分に割っている彼を見ていたら涙が滲み、慌ててあくびで誤魔化した。

「ごめん、のぞみは寝足りないよな」
「ん、平気。どうしても眠くなったら言うから」
「そうして」
 申し訳なさそうに言われ、慌てて首を横に振る。

「これまで私に付き合ってくれていたんだから、お互い様だよ」
 ふっと優しく笑いながら手渡された赤い実に、スプーンを入れる。
 それを口に入れた途端、食べ終わったらこのスプーンをどうやって洗おうかに頭を悩ませる。泉の水を持ち歩くすべがなくて、喉が渇かないのをいいことに諦めた。
 顔を洗えないのも、うがいができないのも仕方がない。

「スプーン、どうやって洗おう」
「適当に拭っておくしかないな」
 だよね。そう思いながら赤い実を口にする。

 赤い実は全部で六つ。三日以上歩いても果てに着かなければ、一旦帰ることになっている。
 彼が言うには、ここはそれほど広い場所ではないらしい。もっと狭いかと思っていた、とも言っていたから、もしかしたらここではない別の場所のパラディススはもっと狭いのかもしれない。

「そうだ!」
 赤い実を食べ終わったタイミングで、彼がナイフを持って立ち上がる。

「のぞみ、スプーン持ってきて」
 そう言って、手近の木の枝にナイフを入れた。どばどばと樹液のような水が溢れ出てくる。慌ててスプーンをそれで洗う。

「ついでに顔も軽く洗えば?」
 手に掬った水は、泉の水と同じに見える。急いで、けれど慎重に口に含めば無味無臭で無害だと頭に浮かぶ。そのまま口をゆすいで吐き出し、顔も洗う。拭うものがなくて、渋々スカートの裾で顔を拭く。
 同じように彼もうがいをして顔を洗い、またしても人のスカートの裾で顔を拭いた。

「ねえ、なんで人のスカートで拭くの?」
「布がたっぷりだから? 俺の服のどこで拭けって?」
 確かに一理あって、一理あるからこそむっとする。自分のシャツの裾で拭けばいいのに。そう思いながらも、それはどこかを柔らかくくすぐるような、ふわっとした気持ちにさせてくれて、どうしようもなくせつなくなった。



 歩けど歩けど、森の終わりにたどり着かない。

「真っ直ぐ歩いているつもりなんだけどなぁ」
 ちょっといい? そう言いながら私の鞄の中に手を突っ込み、サンちゃんのしっぽを掴んで引っ張り出した。サンちゃんの扱いが乱暴すぎて心配になる。

「ほら、起きて」
 そう言いながら、ぽいっと青緑の物体を宙に放り投げた。さすがにそれはない。慌ててサンちゃんをキャッチしようと足を踏み出せば、彼の腕に引き留められる。

「大丈夫」
 彼が自信満々にそう言い終わるかのうちに、ギャッ! と声を上げたサンちゃんが宙返りして戻って来た。またしてもギャィギャィ抗議している。

「なあ、ここの果てってあとどのくらい?」
 あんなことしておいて、しれっとサンちゃんに訊くその神経がいまいちわからない。そして、一瞬考え込んだようなそぶりのあと、キュィキュィ彼に応えているサンちゃんも。おまけに、ホバリングできるのかと感心している私も。

「あと少しって言ってる?」
「こいつの少しがどの程度かにもよるけど」
 再び、ギャィギャィと声を上げるサンちゃんからは、あと少しって言ったらあと少しだからと言っているようで、鳴き声の意味がわかる奇妙さにどうしても慣れない。しかもむっとしていることまで伝わってくる。

「もう少し歩いてみるか」
 そう言って歩き始めた彼の肩に、サンちゃんがしがみついた。このまま起きているつもりらしい。

 そして、本当に小一時間も歩かないうちに、目の前がいきなり開けた。
 木々の間から見えるその先は、木々が途切れた先に下草が続き、その下草が途切れた先には一面の白い砂。さらにその先には、目の覚めるような青が果てしなく広がっている。

「海?」
 思わず走り出そうとしたその瞬間。「のぞみ待て!」の鋭い声と、ギャィギャィと同じく注意する声が聞こえた。
 何事かと振り向いた先には、眉間に深いしわを刻む険しい顔つきの彼と、その肩の上で仁王立ちしているトカゲもどき。仁王立ち……しかも腕を組んで。

「のぞみ、念のため俺の血を取り込んだ方がいい」
 そういえば、彼の血をもらうつもりがすっかり忘れていた。

「ただ、前と違ってここで俺の血を取り込むと、どうなるかがわからない」
 そう言いながらも、鞄の中からナイフを取り出し、自分の指先を躊躇なく傷付けた。

 小さく盛り上がる深紅の一粒。
 前に見た時よりもより鮮明なその赤から目が離せない。心なしか花のような甘やかな香りが漂い、その香しさに惹きつけられる。

 差し出されたその指先を口に含んだ瞬間、舌に広がるのはそれまで感じたことのない甘さ。
 甘露──頭にそんな言葉が浮かぶと同時に、その指先を撫でるように舐め取り、小さく喉を鳴らしながらそれを飲み込んだ。

 その瞬間、身体の奥底から爆発的に膨れ上がる何か。
 一瞬にして体中が熱を持ち、どくりと大きく音を立てた心臓が苦しいほどに強く脈打つ。

「な、に、これ」
 まるで腰が抜けるようにその場にへたり込んだ。目の前の彼が慌てて腕を伸ばす。
 掴まれた腕から広がる、ぞくぞくした得体の知れない感覚に、お腹の底がとろけていくような気がした。

「平気?」
 平気じゃない。身体の熱さと、ぞわぞわと痺れるような刺激、身体の芯がとろけていくような感覚と、くらりと世界が回っているような目眩。苦しいほどの浅い息の中、どうしようもないほどの渇きを覚えた。

「どうなってる?」
「あつい……、ぞくぞく、して……、くらくら……、かわく……」
 吐き出す息すら熱を孕む。せわしなく繰り返す浅い呼吸の合間を縫って、短い言葉を並べる。自分がどうなっているのかがわからない。どうしてか自分の周りが異常にきらめいて見える。
 サンちゃんが噛みつこうとしてか、大きく口を開けた。

「くそっ! チビ! 離れろ! あとシールド!」
 ギャィギャィ。
「とぼけるな! いいからシールド張れ!」
 ギャィ。
「お前はシールドの外にいろ!」
 ギャッ!
 
 そんなやりとりが聞こえた。シールドってなんだろう、そう思いながら、熱と渇きを逃がそうと大きく息をつく。それに、身体を支える彼の腕がびくっと震えた。力が抜けすぎて、自分で自分の身体を支えられない。彼の身体にもたれかかれば、彼に触れた場所から、ぞくぞくといい知れない痺れるような何かが体中に広がっていく。

「鞄開けるよ」
 慌てたように何かを探っていた彼が鞄から取り出したのは、赤い実の殻を葉で包んで、ぐるぐるツタを巻き付けておいた例のブツ。巻き付けたツタを蓋代わりの葉ごとむしり取り、例のブツを指先でつまんで目の前に差し出される。

「嫌だろうけど、舐めて」
 嫌だろう、じゃなく、絶対に嫌だ。万能薬が何かを知っていながら、それを厳しい口調で舐めろと言う彼が、変態を通り越して鬼畜に思えた。

「むり」
「無理じゃない! 今自分がどんな状態かわかってないだろう! 今ヤツらに見つかったら、俺の血があろうと、間違いなく貪り尽くされる!」

 忌々しげに舌打ちしながら、その指を自分の口に入れた次の瞬間、後頭部に回された手が有無を言わさない強さでその唇まで引き寄せられた。
 引き結んだ唇をこじ開けるように、彼の舌が入り込もうとする。
 唇に触れてきた舌の冷たさと潤いに、熱を持ち渇いた身体がいともあっさりそれを取り込もうと開いた。抵抗する心を身体が簡単にねじ伏せる。

 そのあとはもう夢中で──まるで氷の粒のように感じるそれを余すところなく取り込もうと、貪欲な舌がまるで意思を持ったかのように勝手に動く。それが喉を通り過ぎるたびに、身体の熱りが落ち着き、渇きが癒やされていく。
 もっともっと。舌先が氷の粒を探す。まるで誘われるように彼の舌についていき、その口の中へとその探索の範囲を広げる。

 ただ、気持ちよかった。
 冷たさと潤いの先にある気持ちよさに夢中になった。

 時々喉の奥で鳴るくぐもった音にも、いつの間にか彼の首に両手を回しその頭を抱え込んでいたことにも、夢中で彼と舌を絡め合っていたことにも、気付いたのは身体の熱と渇きが完全に消え失せたあとで。
 慌てて彼から離れようとすれば、わざとらしくその唇が音を立てて離れていった。
 自分のしでかしたことと、聞こえてきた恥ずかしすぎる音に、再び熱がぶり返す。

「エロい」
「なっ、なんでそういうこと言うの!」
「のぞみ、自分がどんだけエロかったかわかってる?」
 その言葉で、自分が発情していたことに気付いた。間違いなくあれは発情だ。その恥ずかしさといったら、もう言葉にならないほどで。できたことといったら俯きながら両手で顔を隠すことくらいだった。どこかに隠れたい。

「俺、よく耐えた。まあ、ちょっとだけ耐えきれなかったけど、襲わなくてよかった」
 聞こえてきた安堵の声に、何かがすっと冷めていった。

「のっぴきならない事態になったわけですか」
「あんなのぞみ見て、あんなエロいキスして、出すなって方が無理」
 どうしてこうあけっぴろげに口にするのか。もう少しオブラートに包んでほしい。しかも、エネルギーに変わるから汚れなくて助かるなどと、ばつの悪そうな少し赤らんだ顔で、知りたくもない情報公開までしてくれた。

「のぞみからどうしようもないほどいい匂いがしたんだ」
「それ、ひかりの血もだよ」
「花みたいな?」
「そう。いい香りの花を全部集めたみたいな甘い匂い」
 お互いに同じような匂いを感じていたらしい。見れば彼の眉間にしわが寄っている。私も顔をしかめているのを自覚している。
 互いの匂いが何を意味しているのかがわからない。彼もわからないから顔をしかめているのだろう。 

「帰ってから考えるとして、見に行く? 果て」
 そうだった。私たちは、果てを見に来た。目の前の事態にすっかり忘れていた。

 大きく頷けば、立ち上がった彼が手を差し伸べてくれる。
 その手を取る時のせつなさは見ないふりをして、ゆっくりとその手に引かれながら立ち上がった。