青の深淵
二人ぼっちの異世界トリップ01 噂
「お前、そういうのはガキんときに済ませとけよ」
呆れ顔で親友に笑われているのは、女子からかわいいと囁かれているクラスメイト。
仲間たちと一緒になって笑いながらも、そのわずかに青みがかった目には焦りのようなものが浮かんでいる。
噂によればその期限は明日。焦りもするだろう。それが本当ならば。
その噂は数日前、一気にクラス中に、いや、学校中に広まった。
とはいっても、ここはど田舎の、再来年には廃校が決まっている、ひと学年ひとクラスしかない、しかもひとクラス三十人にも満たない、よくぞ今まで廃校を免れたものだと言いたくなるような公立高校だ。
この辺り一帯の高校はここだけ。それでも生徒が集まらず、偏差値の高い子はどんどん遠方の高校へと進学するせいか、年々生徒数が減っている。
その噂は、馬鹿馬鹿しいほど嘘くさかった。
高校生にもなってかわいいと評判の、それなりに人気のある男子生徒が、一週間後に別の世界へと旅立つらしい。その際、一人で旅立つのは心許ないと、それを伝えた神らしきものに頼み込んだら、仲間の同伴を許可された。ただし本人の了承が得られたら。しかも帰っては来られぬ異世界行き。
どんなバカ話だよ、そう彼の親友に笑われていたのは五日ほど前。
彼の仲間たちに笑いものにされていたのはその翌日だったか。その日のうちに学校中に彼の嘘くさい話が知れ渡った。
だよなぁ、と一緒になって笑っている彼の目に必死さが浮かぶようになったのが三日前。
それに気付いた彼の親友や仲間たちが、彼と微妙に距離を置き始めたのが二日前。
クラス中の男子に声をかけ始めたのが昨日。
そして今日、ついに彼は比較的よく話す女子に声をかけ始め、さすがに彼の親友がそれを止めた。それが「ガキんときに済ませとけ」の冷ややかな一言。へらへらと笑いながらも、彼の目には絶望の色が浮かんでいる。
どうして誰も気付かないのだろう。
その嘘くさい話を彼は真正面から信じている。それは、どう転んでも危ういことなのに。
どうして彼も気付かないのだろう。
ここにいる人たちは、誰もがそこそこ幸せの中で生きている。わざわざ何もかもを捨ててまで誰も知らない場所に旅立とうとは思わないだろうに。
「あのさ、私でよければ一緒に行くけど」
釣瓶落としのごとく、急速に闇が深まっていく放課後。
ざわめきとともに熱を失った薄暗い教室で一人、自分の席で頭を抱えて項垂れていた彼に近付き、思い切って声をかけると、ものすごい勢いで顔が上がった。
見上げる彼、見下ろす私。
かわいいと噂されるだけあって、その顔立ちは甘く整っている。
「いいの? 戻れないんだよ?」
その頼りない声に、ひとまずは頷きで応える。そして、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「ねえ、なんで同伴者が必要なの?」
女子からかわいいと言われている彼は、私から見ればかわいいなんて言葉こそ彼には似合わない。彼は私と同じくどこか歪んでいる。どちらかといえば自己完結して見える彼が、あんなに必死になるほど同伴者を必要とする理由がわからなかった。
問い掛けた私の顔を、じっと下から見上げていたかと思ったら、いきなり席を立ち、今度は上から見下ろしてきた。思っていたよりも背が高い。今までこんなに近くで話したことがなかったせいか、その高さに少し驚いた。
薄闇の中、真っ直ぐ見下ろされている視線には、なんの感情も浮かんでいない。ああ、彼らしい、そう思えるその無機質な眼差しに、心のどこかで安堵する。
きっとこれこそが彼そのものだ。おそらくこれから口にすることは彼の真実。どうしてかそんな確信があった。
「連れがいないと、死んでもいいって思いそうだから。俺、生きていないといけないし」
なんとなく、わかるような気がした。
巻き込んだ誰かがいれば、その責任から生きていかざるを得ない。彼はきっと、今までもその責任感から生きてきたのだろう。私とは違って、彼の祖父母は彼をかわいがっているから。
「ふーん」
どこか歪んだ暗さを孕んだ彼の真実への返答は、その一言以外浮かばなかった。自分の声ながら、そこに突き放すような響きを感じて、慌てて取り繕うように口元に笑みを浮かべる。
目の前の彼はそれに気を悪くするどころか、驚いたかのように軽く目を瞠り、思い出したかのように瞬いたあと、その表情をほんの一瞬泣き出しそうに歪め、かと思えば次の瞬間には面白いものを見付けたかのような眼差しを向けられる。
そのめまぐるしい変化の意味をはかりかねていると、今度は机の上に浅く腰を落とし、目線を合わせてきた。
「本当にいいの? 二度と戻れないよ?」
「いいよ。しばらくは一緒にいてくれるんでしょ? お互い一人で生きていけるようになるまでは」
「そうだね、そうなるかな」
その軽い返事にほっと息をついた。そのくらい軽い関係の方がいい。
「じゃあ、しばらくよろしく」
そう声をかけると、彼はその口元に一瞬笑みを浮かべたあと、今度はあからさまに訝しむような視線をぶつけてきた。
「なあ、今更なんだけど、俺の話信じるの?」
「自分だって信じてるんでしょ?」
「いや、俺のことは置いといて」
どこか焦ったような表情が面白い。本当に今更それを言うのか。
「別にどっちでもいいの。別のところに行きたいだけ」
彼はやはり面白そうな眼差しを返してきた。それにどこかでほっとする。
ここで引かれたり同情されたりしたら一緒には行けない気がする。きっと一緒に行っても上手くいかない。
「その程度のことなら世界を変える必要はないと思うけど。国を変える程度じゃ済まないの?」
「済むといえば済むけど。国どころか都道府県変えるだけでも済むことだと思うし」
そうだろう、とその目が語る。
「でも、同じ世界にいないと思えば、生きていけるかなって」
「あー…、それはわかるかも」
軽く上向いた彼の目が、宙で何かを見定めたように動きを止め──。
「うん、一緒に行けそう」
そう、ぽつりと呟いた。
「誰でもよかったんじゃないの?」
思わず笑い出せば、ばつの悪そうな顔が返される。
「こいつならって思ってたヤツにことごとく断られてからは、まあ、そんな感じだったけど……どうせ一緒に行くなら気が合うヤツの方がいいだろ?」
「好きな子じゃなくていいの? 彼女とか」
彼はこの小さな学校でも人気があったような気がする。それこそ彼女がころころ変わっていたような。この場所自体にあまり興味がなかったせいか、そのあたりの記憶はかなりいい加減だ。
「それを言うなら俺も同じこと言うけど?」
にやっと笑うからかいを含んだ目に、同じようににやっと笑い返す。
「お互い生理的に受け付けないわけじゃなきゃ、まあ、いいんじゃない?」
「それもそうだな」
「それにきっと、このあたりじゃ私以外は行くって言わないと思う」
それに彼は怪訝そうにほんの少しだけ首をかしげた。その仕草が妙に似合っていて、思わず見惚れる。
「ふーん」
なんとなく納得したような顔で再び立ち上がった彼が、急に真剣な顔で見下ろしてきた。
「明日の朝、目覚めたらそこはここじゃない。本当にいいの?」
「いいよ。それより、同伴者が私で本当にいいの?」
素直な笑顔で頷かれた。
ああ、こういう顔で笑うからかわいいと言われるのか。ようやくそれを頭の隅で理解した。
「じゃあ、印つけるね」
そう言った彼が額に落としたのはその唇で、そこで初めてものすごく動揺した。額から熱が全身に広がる。
「あれ、こういうの初めて?」
思わずおでこを両手で覆い隠した私を、驚いたように見下ろしている。顔から火が出そうなほど熱い。
「そんなわけない!」
思い切り否定した。否定したものの、全身が熱くて、間違いなく顔が真っ赤になっているであろうことが自分でもわかって、それにさらに動揺しながらも「そんなことないから!」と、言い訳のようにもう一度叫んだ。
目の前の彼は、ふっと息を吐くように、嫌味のない柔らかな笑顔を見せた。その余裕が癪に障る。同い年なのに。
「互いの一部を取り込む必要があるんだけど……」
互いの一部──その意味を考えている間に、彼は自分の鞄の中からペンケースを取り出し、そこからカッターを手にした。小さく音を立てて刃先を出し、なんの躊躇いもなく自分の左手の人差し指の腹にその刃を当て、ほんの少しだけその指先に刃先を埋めた。
刃が離れるとそこに、小さく丸い、真っ赤な粒が出来上がる。
それを、目を見開き、微動だにせず、瞬きすら忘れて、ただ、眺めていた。
「気持ち悪いだろうけど、これ、舐めて飲み込んで」
まるで吸い込まれるようにその一粒から目が離せない。それはとてもきれいな赤。
口元に差し出された指を言われるがまま口に含む。口内に広がる血の味は、不快感とともにどういうわけか甘さすら感じた。
口に入れられていた指が抜かれ、そこでようやく我に返り、慌ててその指をハンカチで拭おうとポケットを探っている間に、それがそのまま彼の口に含まれた。
かっと全身が熱を持つ。まるで見せつけるかのようにゆっくりと口の中から引き抜かれた指が、制服の裾で拭われた瞬間、シャボン玉がはじけるかのように現実が戻って来た。まるで夢を見ていたかのような、現実離れした空気が飛散する。
慌てて顔を上げれば、その目にからかいを浮かべたかすかな笑みが目の前にあった。その余裕が無性にむかつく。
「身ひとつでしか行けないから。普通に寝ても平気。別れを言いたい人には、今日のうちに言っておいて。忽然と消えることになるらしいから」
「いなかったことになるわけじゃないの?」
「俺の場合はそうはならないらしい。だから、同伴者の了承が必要なんだって」
「誰に言われたの?」
思わず訊いたら、途端に難しい顔をされた。
「たぶん、神みたいなもの? なんか、頭の中に意思を直接伝えられたような感じ? 自分の考えみたいに自分のじゃない考えが浮かぶような?」
どうにも胡散臭いその声に、一瞬、もしかして全て彼の妄想かもしれないと思った。と同時に、それならそれでもいいやと思う。
ここではないどこかに行く。そう考えただけで、たくさんの何かを振り切れるような気がするから。
「一緒にいなくていいんだ」
「うん、印つけたから」
おさまりかけた熱がぶり返す。こいつ、わざと言ったな。思わず睨みつけるように見上げれば、面白そうに目を細められる。
「着ているものは向こうに合わせたものに勝手に変わるから、パジャマ着て普通に寝て。目覚めたらそこはもう別の世界だから」
「あのさ、どんな世界に行くのか知ってるの?」
「あんまり。よく伝わってこなかった。ただ、魔法みたいなものはないと思う」
さすがにそうだろう。知ったような考えが浮かんで消えた。
「勇者とかそういう感じ?」
「それも違うらしい。なんていうかな、世界と世界を結ぶために人柱になるみたいな、そんな感じ?」
人柱──嫌な言葉を選んだものだ。けれど、ああ彼らしいとも思ってしまう。そこできれいごとのように架け橋とか、絆とか、そんな言葉を使われたら、それこそ嘘くさい。それに、彼ならそう言いそうだと、以前聞こえてきた噂話が一瞬頭をよぎりかけた。
「俺の存在そのものが必要らしい。ただ、その世界で生きてさえいればいい」
「なんか、それもどうなのって感じだね」
「だろう? 一人だったらソッコー死にたくなるだろう?」
確かに。思わず納得してしまった。なんの目的もなく別の世界に連れて行かれて、そこでただ生きていればいいと言われたら、むしろ死にたくなるかもしれない。
「どうやって生活していくの?」
「さあ。なんとかなるんじゃない? ここでだってただ生きていこうと思えば、なんとかなるだろう?」
そう言いながら彼は、胡散臭く笑った。
「稼ぐあて、あるの?」
「なんか、その世界で困らないだけの能力はくれるみたいだから。ほら、言葉とか、最低限の知識とか」
「同伴者にも?」
「たぶん?」
そこは自信を持って答えてほしい。万が一彼に放り出されたら生きていけなくなるのは困る。
「そこは強くお願いしといてよ。言葉とか最低限の知識とか」
「りょーかい」
妙に軽く返されて、その軽さに初めて不安を覚えた。そこは重々しく返してほしい。
じゃあ、明日の朝現地で。
まるで近所での待ち合わせのように軽い挨拶を交わし合い、その足でバイトを辞め、今住んでいる場所に戻る。
家──そう思っていた場所はすでにない。
最初に捨てたのは母だった。次に捨てたのは父だった。最初から必要ないものだったのは祖父母だった。
私は粗大ゴミだ。粗大ゴミを押しつけられた祖父母は、口に出さずとも、そこに存在することを日々不満そうに眺め、ゴミの回収日を指折り数えて待っている。
早く朝になればいい。
ただそれだけを思って、氷のような手足を抱え、いつもより早く眠りについた。