青の深淵
二人ぼっちのその先に
18 出発


 その日、早速とばかりに赤い実を採りに行き、何かの役に立つかもと、溜まりに溜まっている赤い実の種を全てかき集めた。最近では、暖炉っぽいものの上にかかっている全く使っていない鍋のようなものの中に放り込まれている。
 実はここ、石で囲われていたから暖炉のようなものだと思っていたけれど、本当はトイレなんじゃないかと睨んでいる。なにせここに固形燃焼入れが置かれていた。この鍋のようなものは、実は洗面器みたいなものではないかと思っていたり。煙突がないのは固形燃料を使うからなのかと思っていたけれど、どうも怪しい。心の平和のために暖炉だと思うことにしている。実際に暖炉の可能性も捨てきれない。

 これまた念のためにと、最初にひとつだけ割った赤い実の殻の中に万能薬を微妙な気持ちで詰め、その辺に生えていた大きめの葉をかぶせると、零れないよう細く柔らかいツタをぐるぐる巻いて蓋をする。
 枕代わりにしていた肩掛け鞄に互いのマントコートを詰め、旅支度というには簡単すぎる支度を調える。まあ、二日程度で目的地に着くなら、旅というよりは遠出だ。

 ばたばたとせわしなく動き回る中、相変わらず爆睡中のサンちゃんを連れて行くか置いていくかで悩んでいると、気配を察知したのか、突然サンちゃんがぱちっと目を覚まし、見たことがないほどの素早さで肩に駆け上がり、置いていくなとばかりにひしっとしがみついた。

「噛みついたこと憶えてる?」
 その図々しさに恨み言を言えば、ミュィーだか、キュィーだか、ピュィーだか、あの哀愁漂う鳴き声を上げて、いかにも反省しているふうを装う。調子いいやつ。

「そんなふうに鳴いたって騙されないから」
 必死に頬におでこをなすりつけてくる。それが妙にかわいくて、絆されそうになったところで、彼ががしっとサンちゃんを掴みあげ、容赦なくぽいっと宙に放り投げた。
 あっ、と声を上げるより先に、あの青く透き通った翼をぱさっと広げ、くるっと宙返りしながら進行方向を変え、ぱたぱたと羽ばたき、まるで泳ぐように尾で舵を取りながら戻って来た。

「飛べたんだ」
「あの翼は飾りじゃないのか」
 さすがに飾りじゃないだろう。思わず頭の中でつっこみながら彼を見れば、眉間にしわを刻み、嫌そうな顔でサンちゃんを睨んでいた。

「お前も行くの?」
 ミュィだか、キュィだか、ピュィだか、再び人の肩にしがみついた青緑の知的生命体は、返事をするかのように声を上げた。もちろん! そんなふうに聞こえ、放り投げた容赦ない人の眉間のしわが深まる。

「留守番してろよ」
 ギャィ。まるで、嫌だと言っているかのような鳴き声を上げ、彼に舌打ちされている。

「ねえ、言ってることがわかるような気がするのは気のせい?」
「気のせいじゃない。このチビ、しっかり意思を伝えてきてる」
「言葉がわかるってこういうこと?」
「みたいだな。さすがに俺もそこまではわからなかった」
 彼がここまで苛立ちがなら顔をしかめるのは初めてで、何がそんなに苛立たせているのかと首を傾げる。

「お前にはやらん」
 意味のわからないその一言に、サンちゃんが抗議するかのように、ギャィっと声を上げる。ふと彼の手元を見れば、ナイフと一緒にあの漆黒の実をいくつも持っていた。
 子供の喧嘩か。呆れた目を向ければ、苦虫を噛み潰したような顔をして、再び私の肩からサンちゃんを放り投げた。
 さすがに抗議の目を向ければ、心外だとばかりにふくれっ面になる。つい最近十歳年上だと聞いたばかりなのに、やはり子供の時間が十年長かっただけだなと改めて思う。

「のぞみ? こいつに食いつかれたの忘れたの?」
「忘れてないけど」
「全くあいつは、油断も隙もない」
 手にしていた漆黒の実と、いつの間に作ったのか、ツタでできている鞘に収まった大きい方のナイフを自分の鞄に、小さい方のナイフは私の鞄に入れ、ぐるっと家の中を見回し、忘れ物がないかを確認している。
 あっ、スプーンを忘れるところだった。

「よし、行くか!」
 そのときの彼の顔は、ここに来た時に見たのと同じくらい、期待と興奮で目を輝かせていた。そんな顔を見たら、行きたくないとは言えず、自分の中にある不安を押し隠し、その中にも少なからずある、その先への期待と興奮を表に引っ張り出した。



「どうしてこの世界を見てみたくなったの?」
 ずっと歩き通しになるからと、ゆっくりと歩を進める彼に訊いてみた。もうあれだけのことを聞いたのだから、今更何かを誤魔化すこともないだろう。あらかたのことは答えてくれるような気がした。

「のぞみに俺のこと話すまでは、別にどうでもいいと思ってたんだ。前にも言ったけど、ここでのんびり生きていけばいいやって」
 隣を歩く彼の表情はどこか晴れやかだった。

 やはり嘘をつき続けることは心苦しかったのだろう。
 もっと早く聞けばよかった。こっちから訊いたところで答えてくれるかはわからなかったけれど、それでも、無理に聞きたいわけじゃなく、聞く気持ちがあるということを、ちゃんと伝えておけばよかった。
 前に彼がしてくれたように、ん、と短く相槌を打ち、続きを促す。

「のぞみが俺を受け入れてくれたから。俺さ、絶対人には受け入れられないって思ってたんだ」
「人にはって……ひかりだって人でしょうが」
「それでも、俺の三分の一は人じゃないから」
 どこからどう見ても人なのに。思わずそう小さく呟けば、隣から息を吐くような笑いがもれた。

「そうやってのぞみが受け入れてくれるから、俺もこの世界を受け入れる気になったっていうか、見てみようっていう気になったっていうか」
 照れくさそうに話す彼は、本当に晴れ晴れとしていた。

 きっと、彼を知る誰もがとは言わないけれど、それでも彼を彼のまま受け入れる人はそれなりにいたと思う。私が受け入れた以上に受け入れただろう。

「のぞみは特別なんだ」
「それ、この間も言ってたよね」
 あの時は、何が特別なのかと聞き流した。自分が特別なわけがないとも思った。

「あそこで、俺を見た初めての人だったから」
「は?」
 意味がわからない。

「あそこの人たちは、俺の表面に誤魔化されていたから」
「それは自分がそうし向けていたんでしょ?」
 今にして思えば、あんなふうに毎日にこにこと笑顔をはり付けていたのが嘘みたいだ。私の知る彼は無表情の方が自然だ。

「よくあんな嘘くさい笑顔に騙されていたよね、みんな」
「ほらね、のぞみは嘘くさいって見破ってたんだろう?」
「それはきっと、よそ者だったからだよ。それまでのひかりを知らなかったから」
「それはあるかもな。でもさ、逆に毎日一緒にいて、それなりに気を許し合っていて、それでも、それに気付くヤツはいなかったんだよ」
 どこかせつなさを含む彼の声は、本当は気付いて欲しかったと言っているようだった。

「気付かないふりをしてくれてたんじゃないの?」
「そうかなぁ」
「そうだよきっと。大体、気付いて欲しかったなら、あんな嘘くさく笑わなければいいのに」
「嘘くさく笑っていないと、生きていられなかったんだよ」
 困ったように笑われ、また無神経なことを言ったことに気付いた。

「ごめん」
 私には人にしか見えないけれど、彼自身が自分は人ではないと思っていたなら、そこから逃れるために自分にすら嘘をつくしかなかったのかもしれない。

「なんで謝るの? のぞみは間違ってないよ」
「でも、無神経だった」
「それはさ、のぞみの中で俺が人でしかないからそういう言葉が出てくるんだろう? 俺はきっと、そういうところに救われてる」
「きっとみんなも同じようなこと言うよ。私だけじゃない」

 自分から壁を作らざるを得なかった彼は、どんな気持ちで生きてきたのだろう。それでも気を許しあえる友達を作るのは、彼の場合、自らを完璧に偽らなければ無理だったのではないかと思えてならない。

「お疲れさま」
 ふと思い浮かんだのはそんな言葉で。
 それを聞いた彼は一瞬目を丸くしたあと、その顔をくしゃっと歪め、泣き笑いのような複雑な笑顔を見せた。

「だよな。俺、お疲れさまだよなぁ」
「うん、本当にお疲れさま」
 真っ直ぐ前を見つめながら隣を歩く彼が、もう一度「お疲れさまだったなぁ」と、まるで自分に言い聞かせるかのようにしみじみ呟いていた。



 言葉少なにのんびりと歩きながら、変わらない森の景色を進んでいく。一緒に来ると譲らなかったサンちゃんは、早々に人の鞄に潜り込み、のんきに爆睡中だ。
 途中、休憩の時にそっと鞄から出してそこに置いていこうとしたら、数歩離れた途端、ものすごい勢いで飛びついてきた。
 お腹を抱えて笑う彼に、ギャィギャィと抗議の声を上げるトカゲもどき。そんな和やかさの中、もしかしたらこれが失われるかもしれないと思うと、心が締め付けられた。

 どれほど歩いたのか、途中二度ほど休憩を挟み、さすがにくたびれたところで寝ることにする。こう昼も夜もないと、どこで区切りを付けていいかわからなくなる。自分の感覚だけが頼りだ。

 木の根元に背を預けて座る彼を見て、マントコートにくるまり、同じように木を背にして座ろうと腰を落としかけた途端、ぐいっと手を引かれ、バランスを崩して彼の上に倒れ込んだ。

「ちょっ、何すんの!」
「のぞみは冷えるだろう? くっついて寝なよ」
 慌てて起き上がろうとすれば、そのまま抱え込まれた。彼の足の間におしりを落ち着け、彼の身体に背を預けて座り込む。マントコートにくるまる私ごと、彼のマントコートがくるんでくれた。
 さすがにこの距離だと、水浴びしていないことが気になって仕方がない。

「臭かったらごめん」
「いや、臭いと思ったことないし。っていうか、匂いってあんまりしないよな」
 言われてみればそうかもしれない。

 はっきりと匂いを感じたのは──そうだ、落ちた瞬間に赤い実が甘い匂いをさせた時と、木の枝を切った時に感じた青臭さ、どちらもその瞬間だけだった気がする。毎日赤い実を割る時に香るのも一瞬だけ。匂いが継続しない。
 すんすんと彼の匂いをかいでも、ほんの微かになんとなく感じるくらいで、これが彼の匂いかとわかるほどの強さがない。

「ひかりって匂いしないね」
「のぞみもだよ。この距離にいても微かになんかの匂いがするかな、って程度しか匂わない」
 頭に鼻先を付けてその匂いを吸い込みながら言われ、恥ずかしさに悶絶しそうだ。匂わないと言われた途端、心底ほっとした。実際にどれほど間近で匂いをかいでも彼の匂いもしない。

「鼻がおかしくなってるのかな? 匂わないことないはずだよね」
 これまでにも自分が臭いと思ったことは何度もある。汗をかけば臭いし、お風呂に入らなければそれなりに臭う。そういえば、息が上がることがあっても汗をかくことがないような……。

「ここが水中だって考えると、だからだろうなって思う」
「水中ねぇ……」
 どう考えても水中だとは思えない。それまで感じていた水の中とは違う意味なのだろうけれど、普通に息を吸って吐いている。エネルギーが充満していることを水中と表現しているだけだとしか思えない。

「あのさ、汗ってかかないよね」
「確かに。やっぱ、水中だからかなぁ」
 何をもって水中とするかがわからなくなりそうだ。