青の深淵
二人ぼっちのその先に
17 時


 目覚めた瞬間、がばっと飛び起きた。ぱっと横を見れば、にやにやした顔がそこにある。

「私昨日なんか言った?」
「憶えてないの?」
 にやにやが深まる。とんでもなく負けた気がした。不覚というのはこういうときに使う言葉だ、きっと。

「憶えてるから聞いてる」
 渋々白状した。きっとここで嘘をついても何もいいことがない。そもそも私は嘘をつけるほど賢くない。

「なら、言ったんじゃないの?」
 これ以上ないほどのにやけ顔に、思いっきり眉間にしわが寄るのがわかった。それに彼の笑みがますます深まる。むかつく。

 一番知られたくなかった人に知られたというのに、変わらない彼の様子を見ていると、それは自分が思っているよりもずっと些細なことのような気がしてきた。
 むすっとしたまま考え込んでいると、ぐいっと手を引かれ、ぽすっと倒れ込んだ彼の腕の中は変わらずあたたかで。ぎゅっと閉じ込めるかのように抱きしめられれば、それはあながち間違いではないのかもしれないと思えてくる。

「のぞみ、俺とずっと一緒にいて」
 その言い方は彼の優しさだと思った。頷きで返せば、ふっと息を吐くかのような笑いが伝わってくる。それに身体の力が抜けた。一緒にいてほしいのは私の方なのに。

「あのさ、なんでいつもひかりの方が先に起きてるわけ?」
 いまだかつて彼より先に起きられた例しがない。まあ、大抵はのっぴきならないことになって顔を引きつらせているか、今のようににやにや笑いながら寝顔を眺められているかのどちらかだけれど。

「えー…それをのぞみが言うのかぁ。のぞみさ、目が覚める直前、俺のこときゅーって抱きしめるんだよ」
「うそ」
「本当。で、抱きしめ返すとふにゃって幸せそうに笑う」
 何をやらかしているのかと、無意識の自分の行動が恨めしい。恥ずかしさで顔が熱い。彼に向き直り「ごめん」と謝ると、彼の仕方ないとでも言いたげに優しく笑うその表情がどうしてか嬉しかった。

「しかもさ、のぞみ、自分が毎日どんだけ寝てるかわかってる?」
「どんだけって、六時間くらい? もっと少ない?」
「間違いなく半日は寝てるよ」
「うそ!」
「本当。俺の感覚だとそのくらいは確実に寝てる。だから、のぞみは寝るの好きだよなっていつも言ってるだろう?」
 待って。だとすると、ここに来てからの時間経過が変わってくる。

 くるっと身体の向きを変えてうつぶせになり、枕代わりの彼の腕を抱えるように肘をつく。

「あのさ、ここに来てどのくらい経ってると思う?」
「ふた月以上じゃないの? 三ヶ月は経ってない感じ?」
「うそでしょ……ひと月くらいかと思ってた」
 あれ? だとするとおかしい。

「三ヶ月近くたっている割に、爪はそんなに伸びてないよね」
 爪を切ったのはつい最近だ。彼の作った爪切りが優秀すぎて、すごいすごいと褒め称えたのは記憶に新しい。

 あの漆黒の刃の素になっているだろう殻を上手い具合に乾燥させて、大きな彫刻刀のようなカーブした刃を作り出した。
 太い木の枝をコースターのように輪切りして作った爪切り台の上に、指の腹を上向けて置き、指先を傷つけないようその刃を爪の裏に当て、上から押すように切る。すーっと音もなく刃が爪の中に入っていき、台の上にとんと当たったわずかな衝撃で、爪が切れたことがわかる。あまりの切れ味のよさに、指先を切ってしまいそうでかなり怖い。どれほど切れ味がいいかといえば、切れた爪が飛び散らず、その場にそのままの状態で「え? 切れたの?」みたいな様子でひっそりと残っているくらい切れ味がいい。
 ちなみに刃を研ぐのは、あの小判型のお弁当箱のような落花生もどきの殻だ。あの網目模様に漆黒の殻を当てて研ぐと、驚くほどの切れ味のいい刃ができる。先日鉈を研ぎすぎて、当たった感覚もなく切れることに、彼が飛び上がるほど驚いていた。

「たぶん、第三世界にいた頃よりも新陳代謝がかなりゆっくりになっているんだと思う」

 第三世界。聞き慣れない言葉。ふーんとしか思えない言葉。
 彼にとって元いた世界は第三世界と認識されている。それが、なんだか少しせつなかった。そんなこと知らずに生きていたかっただろうに。

「それって、年を取るのもゆっくりになってるってこと?」
「たぶんね。俺はこっちの生きものの血が混ざっているから、ここでの時間経過がはっきりとわかるけど、のぞみは身体の感覚の方に引っ張られてしまうんだと思う」
 抱えていた彼の腕の先が、頬にかかる髪を払ってくれる。その指先がそのまま弄ぶかのように髪に絡みついた。
 寝癖がつかないほどの無駄に健康で真っ直ぐな髪は、ひそかな自慢でひそかに厄介だ。どれだけしっかり巻いてもあっという間に元に戻ってしまう。

「丸一日以上起きていて、半日くらい寝てるよ」
 そう言われてもその時間経過に首を傾げるしかない。感覚が違いすぎて、自分でもどうすればいいのかがわからない。そもそも彼は私の感覚に合わせていて平気なのだろうか。なんだかんだ言って、彼が合わせてくれているのは間違いない。

「ごめん、私に合わせてて、平気?」
「平気。俺の感覚とも近いから、苦になったことないよ」
 それもそうかと思う。彼だって今までずっと彼の言う第三世界で生きてきたわけだから、感覚的には同じようなものだろう。

「それでも、やっぱりそのうちここの感覚に合わせた方がいいのかな?」
「いいんじゃない? ここの時間の感覚って、第三世界と照らし合わせるとかなり違ってるから。俺たちが考えるような時間の感覚じゃないと思う」
 そういえば、前にもそんなことを呟いていたような……。

「もしかして、私が頭に浮かんでわかることと、ひかりの頭に浮かぶことって違うの?」
「どうだろう。のぞみの頭ん中に何が浮かんでるか俺にはわかんないし。もともとこの世界の予備知識みたいなものはあったから」
 ばつの悪そうな顔で言われ、なるほどこれが彼の言っていた嘘のひとつなのかと気付いた。この世界についてはよくわからないと聞かされていたはずだ。

 嘘。
 本当は怒るべきなのかもしれない。ぼんやりとそう思う。
 ただ、何に怒ればいいのかがわからない。彼のついた嘘に、私自身は何一つ傷つけられているわけでも、不快に思うわけでもない。仕方なかったのだろうという気持ちの方が大きい。さすがに昨日聞いた彼の事情を先に知らされていたら、ここには来なかったかもしれないけれど。
 ああ、なるほど。だから彼は、「それでも一緒にいようと思うのか」と訊いてきたのか。

「それでも一緒にいようと思うんだよねぇ」
「それは愛の告白でしょうか?」
「違います」
 大げさに傷ついた顔をするのはやめてほしい。

「何がそれでも?」
「んー…昨日のひかりの話を聞いても、それでも一緒にいようと思うし、ここに来られてよかったって思うから。昨日も言ったと思うけど、一晩寝てもそれ以外に思うことがなくて」
「だから、それが愛の告白じゃなくてなんだって思うの?」
「単なる友情だよ」
 はーっ、と大げさなほどのため息をつかれ、髪を弄んでいた指に恨みがましくひと房くいっと引っ張られた。

「のぞみさ、俺の腕の中にいて安心してるだろう?」
 している。抱きしめられるのは悪くない。あたたかいのも幸せだと思う。
 髪を引っ張ったままの青の瞳が、どうしてか優しい。

「俺にキスされて気持ちいいって思ってるだろう?」
 言うに事欠いて何をいけしゃあしゃあと! 間違ってはいない恥ずかしすぎる指摘に、間違いじゃないからこそ、かあっと全身が熱を持つ。

「なんで!」
「なんでって、俺も気持ちいいし」
 こいつは……。

「まあいいや。言葉はどうでも」
 髪を引っ張っていた指が後頭部に回り、当たり前のようにキスされる。それを当たり前のように受け入れる私はどうかしている。キス魔がであることを簡単に受け入れてしまっている。
 この世界のことや、彼自身のことも正直なところよくわかっていない。けれど、どうしてか当たり前のように受け入れてしまっている。
 それと同じことのような気がする。

「のぞみさ、この場所の果てに行ってみる?」
「果て? なんだっけ、パラデススだっけ? 塀に囲われてるんだよね」
「パラディススね。実際に囲われているわけじゃないだろうけど、たぶん、そこに行けばこの世界が見えると思う」

 見てみたい。そう思う気持ちと同じくらい、それを見たあとの変化が怖い。そのあともここでのんびり暮らしていけるのか。それがわからなくて不安になる。もしそれを見たあとで、彼がここに棲むものたちとの生活を望んだとしたら──。そうしたら私は、また一人で生きていくことになる。

「何が不安?」
 じっと見られていたことに気付き、慌てて口元を引き上げる。

「ん、不安じゃないよ。ひかりは見てみたい?」
「見てみたい、かな。昨日まではそうは思えなかったけど、今は見てみたいって思えるようになった」
 その妙にすっきりとした物言いに、きっともう彼は何かを決めていて、たとえ私が行かないと言ったとしても、いずれ彼は一人でもその果てを目指すだろうことが容易に想像できた。

「一緒に行って足手まといじゃない?」
 置いて行かれるくらいなら、ぎりぎりまで一緒にいよう。その先で彼が何を選ぶのか、ちゃんとこの目で見届けよう。

「いや。そこまで遠くない気がする。たぶん一日か二日で着くんじゃないかな。あの泉がおそらく中心だから」
 もっとずっと先にある果てだったらよかったのに。

 自分の中の何かを誤魔化すように、えいやっと身体を起こした。あたたかなぬくもりから抜け出て、顔を洗うために泉に向かう。
 淵源、そう頭に浮かぶ泉の水が、いつも以上に指先に冷たさを伝えてきた。