青の深淵
二人ぼっちのその先に
16 水中


「ずっと昔、いくつもの世界は繋がっていたって話しただろう?」
「うん」
「それは事実で、この世界から第三世界に迷い込んだものがいたんだ。それが、俺の遺伝子学上の母親、と言っていいのか、卵子提供したものなんだ」
「もしかして、この世界の生きものが両性なの?」
「そう。少なくとも、迷い込んだその個体は両性だった。その卵子と精子の両方から人との交配を試みて、俺の代でようやく結果が出たらしい」
 まるで実験だ。実際に実験なのだろう。人体実験──耳にしたことはあっても、それはどこか空想のようで、歴史上の忌まわしい事実だとしか思っていなかった。

「サンちゃんも人の姿になるの?」
「どうだろう。あれは迷い込んだものとは別の種じゃないかと思ってる。翼があったとは聞いてなかったし」
 サンちゃんのあの姿から人に似た姿になるとは思えない。どちらにしても、ここは尾の生えたものが棲む世界なのだろう。人に近い姿のものがいるなら、それに近い文化もあるのかもしれない。

「ここは第八世界。元々水星にたとえられていた場所にいたものたちが移り棲んだ、海王星にたとえられる場所。深淵や奈落にもたとえられる、そんな世界なんだ」
 水星に棲んでいたものが、海王星に移り棲んだということだろうか。たとえられるということは、実際には惑星としての水星も海王星も関係ないのだろう。深淵や奈落の意味はわからないけれど。

「竜宮城とか、人魚とか、海底都市とか、ノアの箱舟とか、聞いたことあるだろう?」
 頷けば、彼の声が続いた。

「ここには、第三世界に迷い込んだものがそうだったからか、尾の生えた人に似た姿の生きものが棲んでいるといわれていた。元々生息していた世界が、なんだかの理由で第二世界の影響を失い、生命が生息できない世界に変わりつつあった。それらが移り住んだ世界が、この第八世界らしい」
「んー……元々水星にたとえられていた世界は、人魚みたいなものが棲む水中の世界だったってこと?」
「そう。それらが進化していったのが、この世界。のぞみは気付いてないけど、この場所も水中みたいなものなんだよ」
「は?」
 あまりに突拍子もないことに、声が裏返った。

「息してるけど」
「俺たちがいままで感じていたような、そういう意味での水中じゃないんだ。ほら、エネルギーが充満しているだろう?」
 つまり、空気の代わりにエネルギーが充満しているから、水中ってこと? 意味がわからない。

「わけわからないって顔だな。まあ、実際俺もよくわからないからなぁ。そういうもんだとしか思えないっていうか」
「でも、泉の水は?」
「あれはエネルギーが液体化したものだから、それを俺たちが水だと感じているだけなんだと思う。実際にここにいて喉が渇いたことないだろう? 雨が降ったこともない」
 確かにない。けれど、重力とか、洗濯物が乾くとか、そのほかにも色々──。水中の意味がわからない。

「意味わからないんだけど」
「だよな。俺もそうだって言われていただけで、実際にこんな感じだとは思ってなかったからなぁ」
「木も草も生えてるよ」
「生えてるねぇ。本当、普通の森だよな。そうだ、ここはパラディススって呼ばれる場所らしい」
「パラディスス? パラダイスのこと? 楽園って意味の?」
 言葉ひとつひとつに頷かれる。

「壁や塀に囲われた場所って意味らしい。つまり、俺たちみたいな招かざるものを守るための、なんだろう、避難場所? らしい。俺がいた組織のある場所にも、ほかの世界から迷い込んだものにとってのパラディススがあるって聞いたことがある」

 パラダイスとは、もっとこう、天国みたいな平和で幸せな場所だと思っていた。天使がいるようなふわふわした場所。
 確かにここは、ある意味平和で、幸せな場所ではある。

 おまけに、私たちは招かざるもの。それを聞いて、ここでも自分が歓迎されない存在、つまりは粗大ゴミであることに、ショックを受けるかと思った。思ったのに──拍子抜けするほどなんとも思わなかった。それはきっと、彼の存在があるからだ。

「俺がこの世界に留まることによって、この世界と第三世界の扉が俺を媒介に開かれることになる。元々迷い込んだものがいたおかげで道はできていたから。ただ俺は、扉を開くつもりはないんだ」
 もう考える次元が違いすぎて、彼の言う通り、そういうもの、としか思えない。

「ごめん、もうどれだけ聞いても、ふーんとしか思えない。意味がわからなすぎて、どうでもいい感じがする」
「そっ、か……そうだよな」
「それより、この先の私たちはそれで何か変わるの?」
 それに、彼が目を丸くした。何に驚いているのかがわからない。

「ここまで聞いて、それでも俺と一緒にいようって思うの?」
 そう言われて急に不安になった。さっきあれだけ失礼な笑い方をしたくせに、それでも一緒にいたいなんて、ずいぶんと図々しいことのように思えた。

 ここにいられなくなったら、どこに行けばいいのかがわからない。この世界でも粗大ゴミである以上、どこにも居場所なんてない。ここにも、居場所がない。
 一瞬にして身体が強張り冷えていく。

「のぞみ?」
「あの、さっきは笑ってごめんなさい。できれば、ここにいてもいい? 嫌ならこの家からは出て行くから、せめてこの森の中にいることは許してください」
「ちょっ、え? のぞみ?」
 失いたくない。しがみつく自分がバカみたいで、けれど、しがみつかずにはいられなくて──。

 このぬくもりを失うかもしれない。
 今まで感じたことがないほどの恐怖に襲われる。怖くて怖くて仕方がない。母親がいなくなった時よりも、父親が帰らなくなった時よりも、ずっとずっと怖くて、怖すぎて、目の前のぬくもりにしがみついてしまう。

 そのぬくもりが怖いものから守るかのように、ぎゅっと力一杯つかまえてくれた。

「のぞみ、俺はずっとのぞみと一緒にいるから」
「ずっと?」
「ずっと。のぞみは、それでも俺と一緒にいてくれるんだろう?」
 私にとってはそれは当たり前のことで、その前提で全てが回っている。

 最初、ここに来るまでは、しばらくの間、そう思っていた。ここで一人で生きていけるようになるまで、そう思っていたはずなのに。

「一緒にいてもいい?」
「いいよ。当たり前だろう。俺がのぞみを連れてきたんだ」
 その最後の言葉に、すっと背筋が冷える思いがした。

 私が彼にそれを強要した。彼の弱みに付け込んで、一緒にいいることを強要した。
 それを都合よく忘れていた自分の卑怯さを棚に上げて、何に怯えているのか。本当に私はずるい。

「ごめんね、ひかり」
 本当にずるくて卑怯だ。自分が楽になりたいからって、意味もなく謝って。

「謝るのは俺の方でしょ。のぞみのこと騙して連れてきたんだから」
「騙されたって思ってないから」
「俺が人じゃなくても?」
「人にしか思えないから」
「両性なのに?」
「男にしか思えない」
「尾が生えていたのに?」
「それは、いつかおしり触らせてほしいって思う」
 段々と言葉に笑いが含まれてきて、答えるこっちまで笑いそうになる。それが彼の気遣いで、その気遣いをありがたく思う。

「ひかり、連れてきてくれてありがとう」
「俺は、そこでそんなふうに言えるのぞみが心配になるよ」
 意味がわからなくて、ずっと彼の胸に埋めていた顔を上げた。

「のぞみは、何を恐れる?」
 ますます意味がわからずに、顔をしかめてしまう。

「騙されるように連れてこられて、連れてきた相手は人じゃなくて、おまけに両性で、尾が生えていたような生きものなんだよ? 普通は一緒にいられないって思うだろう?」
「なんで?」
「なんでって……」
 困惑するかのように、その青い瞳が揺れた。

「だって、ここに連れてきてほしかったのは私だし、ひかりはひかりだし、むしろ私の方がそれを強要していると思うんだけど……」
「強要?」
 うっかり口をすべらせ、思わず口ごもる。目の前の青に、吐け、とばかりに睨まれる。

「前にひかりが嘘ついてたって言った時、それに付け込んで一緒にいることを強要した、から……」
「そうだっけ? ごめん、強要されたと思ってなかった。俺、それでも一緒にいてくれるんだって感動してた」
 その言葉に目を瞠る。青の瞳が黒に変わって、唇にぬくもりが触れた。

「キス魔?」
「そうかも。俺の育った場所、大西洋に浮かぶ島なんだ」
 なるほど、と納得してしまうのはたぶん間違っている。けれど、なんだかもう色々なことが頭に詰め込まれすぎて、わけがわからなくなりそうだった。

「寝ていい?」
「えっ、この場面で?」
「この場面でってなに? なんか頭の中ごちゃごちゃで、とりあえず一回寝たい」
「これから色々盛り上がる場面じゃないの?」

 これからも一緒にいてもいいとわかった途端、もうだめだった。
 頭の中がごちゃごちゃな上に、恐怖のあとの安堵。もうこれ以上は無理だ。眠いというより、意識を保っていられない。試験前に一気に勉強しすぎて急にどうしようもなく眠くなるのと一緒だ。

「ごめん、寝る」
「のぞみは寝るの好きだよな」
 意識が落ちそうになっているのに、耳のそばで囁くように話し掛けられ、その低すぎない優しく心地いい声が頭の中にすーっと溶け込むように入ってくる。

「のぞみ、いつか俺のこと男として好きになって」
 それはだめ。

「どうして?」
 すきになったら、おわり。

「どうして終わりなの?」
 そだいごみになる。

「ゴミになるの?」
 ごみになった。

「どうしてごみになったの?」
 すてられたから。

「俺は捨てないよ」
 すてられたくない。

「俺は捨てない」
 すてないで。

 俺は捨てないから。そう言われたのは夢の中だったのか。どこからが夢の中だったのか。
 そうだ。捨てないで──ずっとそう言いたかった。言ったら捨てられなかったのだろうか。それでも捨てられたのだろうか。怖くて言えなかった、子供の頃からずっと心の中でくすぶっていた言葉。口に出せなかった言葉。

 与えられるぬくもりにしがみつき、そのあたたかさに幸せを感じて、あたたかい涙が流れていった。
 囁きの合間に与えられる瞼や頬、唇への柔らかな刺激は、ふわふわとして気持ちいい。その気持ちよさにお腹の底から何かがふつふつと湧き出した。それが何かを確かめることなく、吸い込まれるように意識がぬくもりの中に落ちていった。