青の深淵
二人ぼっちのその先に
15 尾


 その話に、怒り以外のどんな感情を抱けばいいのか、私にはわからなかった。

「俺は、肉体が十歳になるまでの二十年間、ある組織の施設で育ったんだ」
 そう聞かされながらふくらはぎにすり込まれた万能薬は、きらきらときらめきながら、痣のようになっていたサンちゃんの噛み痕をたちどころに癒やしてくれた。
 元が何かを考えなければその素晴らしさを手放しで褒め称えられただろうに、いかんせん元が何かを知っているだけに微妙だ。

「血が出るほどじゃなくてよかった」
「かなり鋭い歯だったから絶対に血が出てるって思ったのに」
「あの歯、まだ柔らかいんだよ」
「そうなの?」
 人に噛みついておきながら知らん顔して爆睡中の、不貞不貞しい知的生命体の口元を勝手にこじ開けその歯を触ってみれば、シリコンみたいな微妙な硬さ。知らなかった。これだけ好き勝手されても爆睡できるこの子は、大物なのか間抜けなのかがわからない。
 その様子に同じことを思ったのか、隣の呆れ顔が「今日はもうこのまま水浴びして寝よう」と言い出した。どうせふくらはぎ洗い流すだろう? と続いた彼の言葉に、当然とばかりに頷き返す。元を知っているだけに洗い流さないという選択肢はない。

「寝ながらの方が色々話しやすいし」
 それはこれまでの習慣からか。それとも、寝ながらであれば真正面から顔を合わせなくて済む気安さからか。それでも腕の中にいれば互いにその思うところが伝わってくる安心感からか。
 その全部なのだろうと思い、黙って頷き返した。

 水浴びしている間、色々なことを考えすぎて結局何も考えていないという、一体自分の頭の中はどうなっているのかと呆れながら、いつものように洗濯まで済ませて家に戻れば、先に水浴びを済ませていた彼が、ラグの上にぼーっと座り、サンちゃんのしっぽを掴んではぴしゃりとやり返されるを繰り返していた。

「あのさ、無理に話さなくてもいいよ」
「いや、何から話せばいいかなって、ちょっと考えてた」
 そんな途方に暮れたような目は初めてだった。見上げてくるその青が不安そうに揺れる。

「たぶん、なんだけど、今のひかりそのものは嘘じゃないんでしょ?」
「俺そのものって?」
「目の前にいるひかりっていうか、んー…なんて言えばいいのか……。たとえば、私に向けている感情っていうか、本当は私のこと大嫌いで、それを隠して一緒にいるとか、そういう意味の嘘っていうか……。ひかり自身の気持ちとか思いとか、そういう根本的なことに偽りがないって感じ?」
 自分でも何を言っているのかいまいち要領を得ない。それでも、たどたどしく話す合間にもちゃんと相槌を打ってくれるから、それに勇気付けられてつらつらと言葉を並べていく。
 いつだって先を急がせるでもなく、こっちのペースでちゃんと話を聞いてくれる。彼のこういうところにいつもほっとする。

「そういう意味での嘘はない。それはちゃんと伝わってるだろう?」
「うん。だからね、嘘っていうのは、ひかりを取り巻く状況とか、ここにいることの意味とか、なんだろう、外的要因? みたいなことなんだとしたらね、あんまりいい言い方じゃないけど、ふーんくらいにしか思わない気がする」
「ああ、そういえばのぞみはそうだったなぁ」
 何かを思い出すかのような目をした彼に、なにが? と首を傾げる。

「ほら、ここに来る前の日、俺が連れがいないと死にたくなるって言った時も、ふーんって人ごとみたいに言われた」
 ああ、あの時はあれ以外の言葉が浮かばずに、ついそのまま口に出してしまった。

「ごめん」
「いや、あれでのぞみと一緒ならって、もしかしたらのぞみならって思ったんだ、俺は」
 申し訳ない気持ちの上にそんな言葉をのせられて、それの何が決定打だったのかがまるでわからず、ますます首を傾げる。

「周りのヤツらは、お前がそんなこと思うわけないだろうって否定したんだ」
 社交辞令的にもそう答えるのが正しい気がする。実際、周りのみんなは彼をそう見ていたのだろう。

「のぞみだけが、否定するでも肯定するでもなく、突き放したんだ。好きにすれば? みたいな顔で」
「そんな顔してた?」
「してた。ついでに言えば、俺自身が理解されたような気がした」
 確かに、彼ならそう思いそうだと思ったような。好きにすれば、とは思わなかった気がするけれど、どこかでそう思っていたのかもしれない。

 ゆっくりと立ち上がった彼に続いて、小部屋に向かい、ベッドに横になる。変わらず彼は腕を広げ、変わらず私はそこに入り込む。
 それに彼がほっとしたのが伝わってきた。

「のぞみは、俺が人じゃないってわかっても変わらないな」
「は? どこからどう見ても人でしょうが」
 自分を傷つけようとする言葉に、怒りが湧いた。
 思わず身体を起こし、寝そべる彼を上から見下ろす。目を逸らし、きつく結ばれた口元はへの字みたいに口の端が下がっていた。
 この人はきっと、ずっとそんなふうに思いながら生きてきたのだろう。

「あのさ、自分が人だと思っているなら人だよ。ひかりは自分が男だと思っているから、男なんでしょ? それと同じでしょ」
 急に伸びてきた腕に力一杯抱き寄せられた。鼻が彼の肩にがつっと当たり、かなり痛い。鼻血出そうなレベルで痛い。

「のぞみ、キスしていい?」
「やだよ」
 それなのに、勝手にキスされた。
 角度を変え、よくわからない強弱で唇に刺激を与えられ、うっかり気持ちいいと思ってしまう私もどうかしているけれど、喜びをキスで表す彼もどうかしている。

 そう、すごく嬉しいとその唇が伝えてきた。
 言葉にされるよりもずっとずっとわかりやすく伝わってきた。
 だからみんな、誰かと思いを伝え合うために唇を重ねるのかもしれない。それが、初めてわかった。

「あのさ、私以外にも同じようなこと言われなかったの?」
「キスの余韻を楽しもうとは思わないの?」
「やだって言ったのに」
 ようやく申し訳なさそうな顔をする彼に、お前はキス文化で育ったのか! そう言いたくなった。一応空気読んで黙っているけれど。

「のぞみ意外には言われたことないよ。だいたい俺の正体知ってるの、組織の人間以外いないし」
 組織の人間──その組織がどんなものなのかがわからない。

「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは?」
「組織の人間」
「そうなの? でも、かわいがられてたよね?」
「かわいがられてはいたな。でもまあ、半分監視も兼ねているし、記録も取られていたし、そういう意味では、純粋な愛情じゃなかったよ。人だと思われてないなぁってあからさまに感じることもあったし」
 思わず顔をしかめてしまう。どこからどう見ても人なのに。人以外の何者でもないのに。

「俺は、七十パーセント弱、第三世界の人間なんだ」
「第三世界?」
「俺たちがいた世界。あそこは第三世界って呼ばれている」
 ふーん、口から出たのはそんな一言だった。もぞもぞと身体の位置を動かし、彼の腕の中のおさまりのいい場所を探す。

「俺のような個体は全部で十数体あったらしい。その中で最後まで生き残り、第二成長を遂げたのは俺だけだった」
「第二成長?」
「まず、孵化しなかった個体が半分。そのうちの半分が肉体が十歳になる前、俺以外の個体は第二成長でもある十歳を超えられなかった」
 ふか──それが孵化だと気付くまでに時間がかかった。気付いた途端、睨みつけたのは天井で──彼がどんな思いでそれを口にしたのか、想像すらできなかった。

「俺は、人工子宮の中で育つ卵から生まれている」
 その声に温度はなく、それなのに、突き放すような響きが含まれていた。

 どんな言葉をかけていいかわからず、どんな言葉もかけるべきではない気がして、天井を睨んだまま小さくひとつ頷いた。
 気を抜くと涙が出そうだった。絶対にここで泣いてはいけない。そんな気がして、奥歯をこれでもかと食いしばった。

「俺さ、身体が十歳になるまで尾が生えていたんだ。第二成長でなくなったけど」
「しっぽ?」
「そう。爬虫類のような尾。でも鱗があるわけじゃなくて、手足と同じような、肌色のトカゲみたいな尾が生えていた」
 想像するとなんだか間抜けで、途端に肩の力が抜けた。それが伝わったのか、隣で彼が不思議そうな顔をする。

「なに?」
「ん、ごめん。それってなんか想像すると間抜けだなって」
 その瞬間の彼の呆気にとられた顔も、十分間抜けだった。

「気持ち悪くないの?」
「気持ち悪いってよりも、間抜けだなって。ごめん、だっておしりから生えてるんでしょ? 肌色のしっぽ。せめてふさふさだったらよかったのにね」
 言った瞬間、たとえふさふさでも実際に生えていたら間抜けだろうなと思ったら、なんだかおかしかった。

「初めて笑われた」
 呆然とした顔で言われ、はっとした。それがどれほど失礼なことだったかにようやく気付いた。

「ごめん、すごく失礼だった。本当にごめんなさい」
 慌てて謝ったところで、もう遅い。一度放たれた言葉は二度と戻らない。
 嫌われてしまう──ぞっとするほどの恐怖に狼狽えながらも、きちんと謝ろうと身体を起こそうと力を入れた瞬間、彼の腕に捕まった。

「違うんだ。そうだよな、間抜けだよなって、自分でも思って……」
 くくっと声を殺して笑っていたかと思ったら、次の瞬間には声を上げて笑い出した。こんなこと前にもあったような……。

「怒ってない?」
「怒ってない。むしろ、もっと早く俺もそう思えばよかった」
「もしかして、気持ち悪いって思ってたの?」
「思ってた」
 そうかもしれない。もし自分のおしりからそんなものが生えていたら、人とは違うそれを嫌悪するだろう。それを笑うだなんて、本当にどうかしている。

「やっぱりごめん。笑っていいことじゃなかった」
「笑っていいことだったんだよ。俺も笑えばよかったんだ」
 彼の腕に力がこもった。

「俺の遺伝子学上の父親、つまり精子提供者は組織の研究者で、自分を嫌悪した俺に責められ続けて自殺した。俺が殺した」
「でもあれは事故だって!」
「違う。あの日、あの豪雨の中、流されるとわかっていた橋に彼が向かったのを知って、意味もなく追いかけたんだ。橋の真ん中で、水しぶきを受けながら振り返った彼は、俺を見て笑いながら橋ごと水にのまれていった」

 自分が持てる力一杯で彼を抱きしめた。いつも抱きしめてくれるのと同じように抱きしめた。
 それ以外、できなかった。

 彼の父親は、台風かなにかの大雨の日、過去に何度も流されたことのある小さな橋の様子を見に行って、そのまま濁流にのまれてしまった。いまだ彼の父親は見つかっていない。それ以降、どれほどの豪雨になっても橋が流されるほど川が荒れなくなったことから、誰が言い出したのか「人柱」という言葉が囁かれていた。あからさまに「彼の犠牲あってこそ」という、無神経な声すら聞いたことがある。
 あの場所にほんのわずかの期間しかいない私にも聞こえてくるほどだ、その息子である彼はどれほど聞かされ続けたことだろう。
 どれほど憎んでいたとしても、死んでほしいとまでは思っていなかったはずだ。それがどれほど彼を傷つけたかなんて、考えなくてもわかる。

「ごねんね、嫌なこと思い出させてごめん。嫌なこと言わせてごめん」
 慰め方がわからずに、ただ無意味に涙を流すことしかできない。

 それなのに、抱きしめ返された上に、まるで慰めるかのようなキスが降りしきり、逆に慰められている自分が情けなかった。それを気持ちいいと感じて安心してしまう自分が嫌で仕方がない。

「俺は、自分が両性なことも、尾が生えていたことも、成長がおかしいことも、何より人じゃないことも、全部、彼のせいにしていたんだ」
「でも、実際にそうでしょう?」

 どういう理由でこの世界の生きものとの間に人の子供をつろうなどと思ったのか。どんな理由があろうとも、それで生まれた子供が苦悩するとは思わなかったのか。
 大人の勝手な都合で生まれた子供がどんな気持ちで生きているかなんて、彼らは考えることもないのだろう。彼らは、私たちに感情があることを、心があることを知ろうともしない。

 生み出したものが持つ傲慢さは、真っ赤に焼かれた鏝のようだ。生み出された私たちは逃れることもできず、悲鳴すら上げることも叶わず、強引にそれを一番柔らかな場所に押しつけられる。
 いつまでもじくじくと痛む傷に耐え、いつ癒えるともわからない絶望を抱え、ただひたすらその痕を隠して生き続けなければならない。

 勝手に彼を作り出し、当てつけのように勝手に死んでいった彼の父親に怒りを覚える。
 きっと彼は、死にたくても死ねなかった。死ぬより生きることの方が辛かった。私にでもわかるそれが、大の大人にわからないはずはない。最後に笑ったのは、きっとそういう意味だ。私にはそうとしか思えない。彼の父親を悼む気持ちにはなれない。

 生きていないといけない。彼はそう言っていた。
 これまでも、これからも、彼は自分の意思とは関係なく、生きなけれなばらない。
 生きたいでもなく、生きたくないでもなく、生きていないといけない──そこに彼の意思はない。どんな思いでそれを口にしたのか。
 当たり前に、生きたい、死にたくない、そう思い続けて生きてきた私には、きっとその一欠片もわからないほど、重く苦しい言葉だ。