青の深淵
二人ぼっちが生み出すもの14 ハーフ
彼はこの世界そのもので、この世界と繋がっていて、私はその一部と認識されていて、あの泉の水は底に染みこんでいて、彼は嘘をついていて、子供の時間が人の倍あって、ハーフで両性で、もしかしたら謎の知的生命体。
わかっていることはこれだけ。
ただ、何一つその意味するところはわからない。彼が無表情で言ったことだから、間違いなく大切なことなのだろうけれど、意味がわからなすぎて正直そういうものとしか捉えられない。
世界そのものでおまけに繋がっているという部分が一番よくわからなくて、一番どうでもいいことのように思える。
彼の存在がどういうものかがわからない不安と、目の前にいる彼の確かな存在感。
そのちぐはぐな感覚に一層わけがわからなくなる。
目の前にいる彼は、少なくともあの田舎で何年も生き、実は無表情がデフォルトで、笑うと妙にかわいくて、肌がきれいで──そうか、両性だから肌がきれいなのかもしれない。
そして、青みがかった瞳にそこそこ背が高く、十代男子の色々を時々もてあますような、普通の少し大人びた十七歳男子だと思う。
わからないのは彼を知ろうとしないからかと思い、あれから彼をよく観察するようになった。
観察するようになって気付いたのは、私は意外と人の顔を見ていないということ。見ているつもりで見ていない。相手がわかりやすく表情に出してくれなければ、その感情を読み取るまで見ることはない。
そこまで考えて気付いたのは、彼の無表情の中にも感情が隠れているのではないかということで、無表情の中の感情を読み取るには、その無表情の違いがわかるようにならなければいけない。そのハードルの高さに一生わからないのではないかと思い始めていた。
「無表情は、表情が無いから無表情なわけで……」
口に出して言ってみたところで、理解できるものでもない。もう自分が考えていることすら理解不能だ。使いすぎた頭がかゆい。無意味に感じる挫折感が半端ない。
彼は日課の散歩に出掛けている。ブーツではなくサンダルで出掛けたから、きっと近場であの落花生もどきを探しているのだろう。トカゲもどきの食料であり、綿の原料らしきそれは、彼の寝心地のいいベッドマットのために大量に必要なことがわかっている。
ちなみにスツールの上に敷くクッション代わりにひとつふたつ失敬したら、ものすごい勢いで怒られた。ケチすぎる。
で、彼が出掛けている間に家の中を掃除しながら、つらつらと彼についてを考えていた。
最初に掃除を手伝おうとする彼を止めたのは私だ。さすがにやることがなさ過ぎて、掃除くらいしていないと暇で仕方ない。一緒に出掛けない日はもっぱら掃除しながら暇をつぶしている。ただ、残念なことに特に掃除が好きなわけではないので、そのやり方はかなり大雑把だ。
ぞうきん代わりにしているのは、エプロンの裾を三十センチくらい切った布。さすがに三着しかないワンピースの裾を切る勇気はなく、普段は長い裾が鬱陶しいので、膝の下あたりで裾を適当に結んでいる。
そもそもエプロンといってもエプロンドレスのように布がたっぷりと使われ、その丈もワンピースに合わせているのか長い。三十センチほど切ったところで膝までの長さは残っている。
切りっぱなしにしてほつれるかと思ったけれど、布自体が織られたものではないせいか、ナイフでざく切りしてもほつれることはなかった。たとえるならティッシュペーパーのような布。その切り方が、豪快すぎてどうなの? と彼に渋い顔をされたけれど。
「箒がほしい」
思わず口に出すほど箒がほしい。できれば座敷箒。バイトで出会った人の中に、毎年庭で箒草を育て、手作りしている人がいた。箒を自分で作るなんてすごいすごいと感心していたら、次に会った時に一本くれた。これがなかなか使いやすくて、かなり重宝した。
「ここに箒草なんて生えてないよねぇ」
這いつくばって手を動かす。ぞうきん掛けが腰にくる。膝も痛い。掃除機なんて贅沢は言わないから、箒でささっと済ませたい。
「そういえば、ひかりって生理あるのかなぁ」
「ないよ」
びっくりした。飛び上がるほどびっくりした。
返事があると思っていなかった独り言に、しかもデリカシーの欠片もない一言に、妙に冷静な返事がきた。
「ないんだ」
「あったら、きっとそれって俺の心が女性化している証拠だと思う」
「ああ、だから……」
思わず彼の股間に目をやったら、心なしかその腰が引けた。いや、ぞうきん掛け中で床に這いつくばっていたせいか、ちょうど目の前にその部分があっただけだ。痴女じゃない。
「男子も色々大変ですね」
「その棒読みはなんなの?」
「デリカシーがなくてごめんなさいって意味」
素直にごめんなさいが言えなくてそんなふうに誤魔化せば、見透かされたのか彼がにやりと笑う。
「デリカシーがなくてごめんなさいだと棒読みになるわけ?」
「んー…、どうかなぁ。適当。痛っ!」
いきなりふくらはぎに走った鋭い痛み。
見れば左のふくらはぎに、最近「サンちゃん」と呼んでいる青緑の知的生命体が噛みついていた。びっしりと生えていた小さく鋭い歯は、ふくらはぎにその歯を食い込ませているものの、噛みちぎるほどの力はないようで、痛いと言えば痛いけれど、泣きそうなほど痛いというわけでもない。
「コラ! 放せ!」
彼がサンちゃんを引きはがそうとしてその胴体を持ち上げると、噛みついているその歯がぐっと中にめり込もうとする。これは泣きそうなほど痛い。
「痛い痛い! ひかり! 引っ張ると余計に痛い!」
ちっ、と舌打ちしながら、サンちゃんを持ち上げるのをやめてくれた。けれど、青緑を掴んでいる手を離さない。めり込んだ歯も外れない。痛い。激しく痛い。
焦ったように目を彷徨わせた彼が、再び舌打ちした。
「のぞみ! 口開けて!」
緊迫感のあるその声とふくらはぎの痛みに、言われるがままに痛みで食いしばっていた口を開けると、そこにぬるっと何かが入り込んできた。目の前にきれいな白磁の肌。咄嗟に仰け反ろうとして、彼のもう一方の手で後頭部ががっちりと固定されていることに気付いた。
ずっと、舌を絡めるキスは、どれほど好きな人であっても気持ち悪そうだなと思っていた。
それなのに、口の中でうごめく舌は、気持ち悪いどころか気持ちよくて、そのわけもわからない初めての感覚に混乱する。混乱が痛みと混ざり合って、気持ちよさとパニックが絡まり合って、わけがわからないまま泣きそうになる。
口の中に溜まるどちらの唾液かわからないそれを、そのままごくんと喉を動かし飲み込むと、少ししてふくらはぎの痛みの元凶が消えた。
舌の動きがゆっくりと優しいものに変わり、もう一度喉を動かすと、下唇に軽く吸い付かれたあと、互いの唇の間にほんの少しの隙間ができた。
「ごめん、嫌だった?」
嫌ではないけれど、混乱しすぎた頭ではどうしていいかがわからない。小さく横に首を振ると、目の前にある青が細められたのか黒に変わった。近すぎて色の加減しかわからない。
「前に、ここに来る直前に、俺の血を舐めただろう?」
頷けば、あれの効果が切れたんだ、そう言葉が続いた。
「効果?」
もう少し、唇の間に隙間ができる。それでも触れようと思えば触れられるほどの近さ。まるで内緒話をするかのように顔が近い。
「そう。のぞみは俺の一部を取り込まないと、ここに棲むものに食われる」
視線を下げ、いまだ彼の手に握られている青緑の生きものを目に入れる。軽く下を向いた拍子に、おでこが彼の顔のどこかに当たった。
「でこちゅーシカト?」
「これのエサ?」
理解が追いつかない。この青緑の、トカゲのようなサンショウウオのような、ぬいぐるみのような、この知的生命体のエサ? あれ、でこちゅーって言った? まあそれはこの際いいや。
「サンちゃんって肉食なの?」
「さあ? 雑食じゃない?」
答えてほしいのはそこじゃなくて──。
「これが捕食者で、私が被食者?」
「そうとも言える、かなぁ」
「えーっと、ひとつ屋根の下に、捕食者と被食者が同居してるってこと?」
「効果が切れた場合ね」
顔を上げてすぐそこにある瞳に、自分の姿が映っているのが見えた。面白いほど狼狽えた顔をしている。
「あのさ、血、もらってもいい?」
「血がいい? 唾液がいい? それともせい──」
「血で!」
さっきから、うわー、マジかぁ、それしか浮かばない。
以前あれほど狼狽えたでこちゅーをスルーできるほど、自分がこれのエサだという事実が衝撃過ぎる。
寝てばかりいるとはいえ、エサをあげる時のあの妙にちんまりとした姿がかわいいのなんのって。常に私がエサをあげていたせいか、エサのおねだりは私にするほど懐いたと思っていたのに。効果が切れた途端がぶりとは。飼い知的生命体に手を噛まれる、だ。やるせない。
「のぞみさぁ、今キスしたばかりの俺の腕の中で何考えてる?」
言われてみれば、彼の片腕に抱きしめられたままだった。ぬくぬくとしたあたたかさについうっかりリラックスして、まったり考え込んでしまった。
「飼い知的生命体に手を噛まれるやるせなさに思いを馳せていた」
「また棒読み……」
「あのさ、ひかりって、なんで私とセックスしたいの? 一人でも出せるでしょ?」
「そんなあからさまな……。愛があるからだとは思わないの?」
そのあまりに嘘くさい声に顔を上げる。目の前にあるその顔は、無表情を取り繕おうとして失敗したような、変な顔をしていた。
「ひかりが私のこと嫌ってないのはわかるけど、そこに愛がないのもわかる」
「山ほどの好意はあるよ」
「そりゃ私だってあるよ」
「そのうち芽生えるかもしれないだろう?」
「芽生えなくていいから」
それでも、いずれ彼とそういう行為をする日が来るのだろう。漠然とした予感は、確信なのか、期待なのか、恐怖なのか、単なる興味なのか、よく、わからなかった。
「のぞみは特別なんだよ」
特別ねぇ。何が特別なのか。それでも、こうして二人っきりで異世界に来てもいいと思える程度には互いに好意はあるのだろう。
「あとさ、なんでひかりの一部? にそんな効果があるの? ああ、なんだっけ、この世界そのもの、だから?」
「この世界の生きものとのハーフだから」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
言葉が脳に染みこんでいくにつれ、混乱した。
この世界の生きもの。
思わず目を向けたのは、いまだ彼の手に捕まれたままの知的生命体。
これ? そう思いながら顔を上げると、目に映ったのは今度こそ紛れもない無表情で──その瞳に映る私は間抜けなほど驚いた顔をしていた。