青の深淵
二人ぼっちが生み出すもの12 十
たくさんの嘘をついている。
そう口にしてからというもの、彼はそれまで以上に一人で何かを考え込む時間が増えた。
泉のそばでぼーっと座り込んでいたり、家のそばで大の字になって寝ているのか起きているのかわからない状態でいたり、水浴びのついでに死体のように浮かんでいたり、テーブルに頬杖ついてぼんやりしていたり。
少し心配になるその様子に、結局口を出さずにはいられなくなった。
「あのさ」
ん? と顔を上げた彼は、その日はラグに寝そべって青緑の知的生命体のまねをしていた。つまり手足を投げ出して仰向けでぼんやりと天井を見つめている。ちょっと怖い。
その足元に座り、声をかけた。
「どうした?」
「あのさ、話さなきゃって思わなくてもいいよ」
どう話せばいいかわからなくて、結局口から出たのはそんな言葉で。自分のコミュニケーション能力の低さに泣きたくなる。
なんとなく爆睡中の青緑の知的生命体のしっぽの先をむにっと掴んだ。すかさず指からすり抜けたと思ったら、その指をぴしゃりと鞭のように打ち付けてきた。地味に痛い。
彼が隠していることやついている嘘が、私の生死に関わることなのか、ここでのこれからに大きく関係しているのか、二人の関係を大きく変えてしまうほどのものなのか。そもそも、隠していることをいつ話す気になるのか、それは彼に関することだけなのか、それとも私の関することもあるのか、もしかして二人に関することなのか。
細かいことを言い出したらキリがないくらい、様々なことが思い浮かんだものの、結局は現状維持を考えると知らない方がいいような気がした。それならそう伝えた方が彼の気も楽になるかもしれないと、ここ数日の彼を見ていて思うようになった。
あれ以降、彼が私を見る目が変わった。それまでと一見変わらないようでいて、その目にそれまでとは違う何かが浮かぶ。それはきっと、心苦しさとか、後ろめたさとか、そういった類のもので、そんな目で見られることに耐えられなくなった。
それは私の中の隠しておきたい何かを引きずり出そうとする。思い出したくない何かを思い起こさせる。連想したくない何かを連想させる。
それが怖くて、彼が心配というよりも、保身のためにそう口にする自分のずるさに、心底嫌気が差す。
「それでひかりがそんなに思い詰めたようになるなら、話さなきゃって思わなくてもいいってことを伝えたかっただけ」
「知りたくないの?」
ぶれることなく上体を起こした彼にぎょっとする。どんな腹筋だ。そんなに鍛えられた身体には見えなかったのに。それとも男とはそういうものなのか。私には無理だ。
「知りたくないわけじゃないけど、今のこの生活っていうか暮らし? それが続くなら、別にわざわざひかりが言いたくないことまで聞かなくてもいいっていうか……」
うーんと少し唸りながら、上手く伝えられるだろうかと言葉を探しながら話すと、彼はそれに目を瞠り、しばらくすると続きを促すかのようにゆっくりとひとつ瞬いた。
「私は、このまま、できればひかりと一緒にのんびりまったり生きていければいいから」
慌てて「あっ、ひかりが嫌じゃなかったらだけど」と付け足すと、彼がふっと息を吐くように笑った。
「俺も、できればこのままのぞみと一緒に生きていきたいと思ってる」
彼のそれは、きっと私のそれとは違う。義務や責任がつきまとうものだ。
そうさせたのは私で、そう仕向けたのも私で、それなのに、どうしてかそれにせつないような寂しいような気持ちにさせられた。
対等な関係を望んだはずなのに、彼の後ろめたさにつけ込んだのは私だ。
「のぞみさ、実は俺がのぞみよりも十も年上だって言ったら、信じる?」
どういう意味かと首を傾げる。けれど、彼は無表情で、その目には何も浮かんでいなくて、冗談のように言われたその言葉が真実だとわかる。
わかった途端──純粋に驚いた。どう見ても同い年にしか思えない。
「見た目……」
「うん、見た目っていうか、肉体的にはのぞみと同じ年なんだけどね。っていうか、信じるんだ?」
少し驚いたように言われ、驚くのはこっちの方だと思いながら頷く。
「だって、本当のことなんでしょ?」
その目がさらに見開かれた。
「えっとね、ひかりって、本当のこという時? たぶん自分のことを話す時かな? 感情を隠してる? なくしてる? ような気がするから」
見開かれていた目がより一層大きくなった。それはきっと間違っていなかったからで、少しだけ得意になった。だてに毎日一緒にいるわけじゃない。
「そんなにわかりやすい?」
「どうだろう、わかりにくいんじゃないかな。じっと観察してないとわからないかも」
思わず、といった態で彼が吹き出した。
「じっと観察してたの?」
「ちがっ! だってここにはひかりしかいないし、見るのもひかりだけだから……」
かっと体中が熱くなる。きっと顔も赤くなっているはずだ。尻窄みになる言葉が一層恥ずかしい。どうしてこんな恥ずかしい思いをしなければならないのか。今は彼の話をしていたはずだ。
「のぞみは──」
彼はそう言ったあと、後に続く言葉をのみ込むように口を噤んだ。最近こんなことばかりだ。
「だからいいよ。今日はひとつ教えてもらったから。それだけで」
彼の見た目と肉体は十七歳で、けれど実際は二十七歳だとわかっただけでも、かなりの衝撃だ。二十七歳という年齢が想像できなくて、どう受け止めればいいのかがわからない。
「あのさ、男子の大変な色々って年齢に関係ないの?」
ご飯を食べに行くバイトで知り合ったおじさんに、それ系の話が好きな人がいた。年を取ると色々残念なことになるとぼやいていたような。妙に明るくからっと言うからか、そこにいやらしさはなくて、男の人の色々は若いうちからある程度知っておいた方がいいとのそのおじさんの持論によって、私のあまり役に立たない知識の一部が培われている。
あのバイトで知り合った人たちは、本当に面白い人が多かった。たくさんの色々な話を聞かせてくれた。大抵、うんうんと聞いているだけで喜んでくれるような、そんな人が多かった。
たまに女の人もいて、買い物に付き合っただけなのに、お礼にと服を買ってもらったこともある。ただ、似合うか似合わないかを思うまま伝えただけなのに、すごく喜ばれた。
あの人がお母さんだったら、この人がお父さんだったら、こんなお祖父ちゃんだったら、そう思うことで自分を慰めていた気がする。
実際にそういう設定のバイトだった。娘とはできないことを代行するバイト。私は中でも食事を担当していた。
「身体的には十七歳なんだよ。たぶん十年くらいじゃそんなに変わんないと思うし。俺の場合、幼少期が人の倍だっただけだから」
少し呆れた声が聞こえたものの、それよりも思い出したバイトの方に意識が持っていかれていた。
あれは本当にいいバイトだった。世間的には褒められたバイトではないかもしれないけれど、紹介してくれた友達に何度も感謝した。
名前を呼ばれて我に返る。
「ん?」
「のぞみも、聞いてほしいことがあったら話していいよ。俺に訊きたいことがあったら訊いてもいい。俺は──」
またもや言葉が続かなかったのか、もう一度口を開こうとして、けれどそれを諦めたのか、曖昧な笑顔を返してきた。それに答えられるかは彼自身もわからないのだろう。
自分から話してくれたことなら、訊いても平気だろうか。
「さっきの、幼少期が倍ってどういうこと?」
「十歳になるまでに二十年かかっているんだ。それ以降は人並みに成長してる」
それは病気か何かだろうか。どうして? と口にしていいのかがわからず、けれど知りたいのはそれとは別のことのような気がした。
世の中には私が知るよりずっとたくさんの、思いも寄らないような奇病があると教えてくれたおじさんもいた。
そういえば、彼も転校生だと聞いたような。だからあの高校で唯一、彼に興味を持ったような気がする。
「そっか」
それでその話は終わりにした。
十歳になるまでに二十年かかっていたとして、それは十歳で精神年齢が二十歳だったということにはならない気がする。ただ単に子供の時間が人より長く、少しだけ大人びた子供だった、それだけのような。
そう考えると、同じ年なのに彼に余裕があることにも納得できる。それを知ったところで、これまでの彼に違和感を感じたこともない。
「それだけ?」
「うん、それだけ」
「ごめん、どう思ったか聞いてもいい?」
面食らったような彼の表情が少し珍しくて、なんとなく楽しいような嬉しいような、よくわからないながらもほっとするような、一度だけ食べたことがある綿菓子を口にした時のような気持ちになった。
今日はどういうわけかあのバイトのことを思い出す。
綿菓子も、洋服を買ってもらったのとはまた別の女の人に買ってもらった。その日、何かで歩行者天国になっていた通りを見て、行ってみたいと子供のような顔で言われ、一緒にそれを楽しんだ時に買ってもらったのがカラフルな綿菓子だった。食べてみたかったのだと笑うその人に、「実は私も初めて食べる」と打ち明けると、目を丸くしながら「一緒ね」と柔らかな笑みをくれた。それが無性に嬉しくて、口に含んだ甘さの余韻がいつまでも心に残っていた。
「合っているかどうかはわからないけど、子供の時間が長かっただけかなって、大人びた子供だったんだろうなって思った。あんまり違和感とか感じたことなかったし。あと、そういえばひかりも転校生だったなって思い出した」
「それだけ?」
訝しむような視線に少したじろぐ。ほかに何を思えばいいのかがわからない。気の利いたことが何一つ思い浮かばない。
さっきまで膨らんでいた綿菓子が一気にしぼむ。買ってもらった綿菓子は、大切に取っておけばおくほど、しぼんでみすぼらしくなっていった。
「ごめん、ほかに思い浮かばない」
「あのさ、気持ち悪いとか、人間離れしているとか、そんなふうには思わないの?」
不安そうに見える彼のその表情に首を傾げる。何がそんなに気になるのか。
「それは思わないよ。人と違う成長の仕方なのかもしれないけど、別にだからって人間離れってほどのことでもないと思うし。だいたい、ひかりはどこからどう見ても十七歳男子にしか見えないし。人はなんだかんだいっても見た目が大事だって聞いたことあるから──」
いきなりの衝撃に何が起きたのかわからなかった。ただ、唯一知っているあたたかさに包まれていることはわかる。
「俺、のぞみにだけは嫌われたくない」
「私だってだよ」
耳のすぐそばで聞こえた小さな囁き。間髪入れず返す。そこに迷いはない。私だって彼に嫌われたくない。この人にだけは嫌われたくない。
それは、ここに二人っきりだからという以上の何かを漠然と感じて、そう感じた瞬間、急にどうしようもないほど恥ずかしくなった。
抱きしめられているのは、自分より大きな身体とぶれることなく起き上がる力を持っている人。それに、自分でも戸惑うほど心が騒いだ。
そして、しばらくしてその腕から解放された時、それまで以上の寂しさを感じた。