青の深淵
二人ぼっちが生み出すもの11 嘘
その日から、青緑の生きものは、三日ほど眠り、豆を二粒食べ、すぐまた眠る、を繰り返している。
水分を取らなくていいのかが心配になったものの、生態がトカゲやサンショウウオとは違うだろうし、そもそも自分自身も水分を必要としないので、ここではそういうものだと無理矢理納得しておく。私たちもあの赤い実さえ食べていれば空腹や喉の渇きを感じない。この知的生命体にとってはあのマカダミアナッツもどきがそれに当たるのだろう。
そして、同じくその日から、寝る前のひとときに彼が面白い話を聞かせてくれるようになった。
それは──。
遙か昔はいくつもの世界が繋がっていたとか、その世界はそれぞれ惑星にたとえられているとか、だから肉眼でしか天体観測ができなかった時代からいくつもの惑星が知られていたのだとか、中でも光の世界と闇の世界のそれぞれが作用してこそ生命が芽生えるとか、天国や地獄はそこから生まれた概念だとか、そのバランスが一番いいのが私たちがそれまでいた世界なのだとか──。
まるでおとぎ話のようなそれを、ひとつひとつ、ぽつりぽつりと話してくれる。
それを話す時の彼は、懐かしそうでいて、どことなく寂しそうで、ほんの少しの怒りが隠されているようで──。
もしかしたらその怒りは、私が感じるよりもずっとずっと強いものなのかもしれない。話を聞くたびにそう思うようになった。
「ちょーっ! 何してんの!」
「へ? ああ、ちょっと鬱陶しいから切ろうかと思って」
まさに今ナイフを横にすべらそうとしていたその腕を、がしっと力任せに掴まれた。
「のぞみさ、女の子だよね」
「一応」
背後に立つ彼の顔が思いっきり引きつっている。そんなにおかしなことだろうか。
「まさかとは思うけど、これまでもそうやって切ってたの?」
「まさか。ちゃんとハサミで切ってたよ」
問題はそこじゃない、そうぼそっと零しながら、慎重にナイフが首の後ろから引き抜かれ、おまけにナイフを取り上げられた。
先に泉で水浴びしている最中、水の中でゆらめく髪を見て、そろそろ切るかと思い立った。
残念なことにここには鏡なんて上等なものはない。泉に自分の姿が映るほど水面は静かではなく、常にゆったりと波打っている。光の加減なのか、水を汲むひしゃくのようなお玉に掬った水にも、はっきりと姿が映らない。唯一自分の姿が確認できるのは、彼の瞳に映るそれだけだ。
髪を真後ろでひとつに束ね、その根元あたりをナイフでざっくりと切ろうとしていたところで、頃合いだろうと着替えを持って家を出てきた彼に見付かった。
これまでも、プロにカットしてもらうのは年に一度か二度だった。そんなところに回す余裕はなかったから、器用な友人が時々カットしてくれたり、自分で鏡を見ながらなんとかしていた。祖父母のところに来てからは、一層余裕がなくなり一度も切っていない。
「やっぱりハサミがないって不便だよね」
ここに来てハサミの偉大さを知った。ナイフだけでは色々不便だ。
「とりあえず爪切りはなんとかなりそう」
「本当?」
ここ数日、彼があの漆黒の殻を使って何かをしていたのは知っている。爪がそれなりに伸びてきているものの、さすがにナイフと鉈と斧しかないここで、どうやって爪を切るかに頭を悩ませていた。
「で、どのくらいの長さに切りたいの?」
「どのくらいでもいい。今より短くなれば」
胸まで伸びてしまっている髪は、まとめるものがないここでは鬱陶しい以外の何ものでもない。小枝を拾ってかんざし代わりに使っていたものの、それも段々面倒になってきた。当然ドライヤーもないので乾かすのも面倒極まりない。
「あっ、どうせならできるだけ短く」
彼が切ってくれるつもりなのがわかって、慌てて注文をつけると、ため息をつきながらも髪を手櫛で梳きながら、少しずつナイフを入れ始めた。そう、ヘアブラシだってない。常に手櫛だ。
泉の脇にあぐらをかいて座っていたその傍らに、十五センチほど切られた髪が一房ずつ積み重ねられていく。
「動くなって」
切られた髪に目を向けた瞬間、頭を片手でぐいっと掴まれ、正面を向かされる。ナイフで削るように切っているのか、髪が引っ張られるような感覚と、じじっと髪が切られる瞬間に立てる音がすぐ近くで聞こえる。
「俺もそのうち切ってもらわないとなぁ」
「私、ひかりほど器用じゃないよ」
「知ってる。俺、あんなふうに後ろでひとまとめにした髪をざく切りするのって、力士の断髪式以外見たことない」
私は力士の断髪式を見たことがない。それはそんなにポピュラーなセレモニーなのだろうか。
「じーさんが相撲ファンだったんだよ」
まるで心の声を聴いたかのように返された。そこに気恥ずかしさが滲んでいて、彼が祖父母にかわいがられていたことを思い出した。
それでも彼は、ここに来なければならなかった──そう考えると、それはとても残酷なことのように思えた。
彼の抱えている何かを知りたい気持ちがないと言えば嘘になる。そのうちうっかり口に出してしまう迂闊さが自分にあることも知っている。
できれば彼から話すのを待ちたい。それは待てるだけの余裕があるからではなく、単に自分から訊くのが怖いからだ。
今のこの穏やかでまったりとした毎日を気に入っている。これが壊れるようなことは極力避けたい。
「できた」
「ん、ありがと」
髪は鎖骨をくすぐる長さになっていた。頭をふるふると振ると、乾き始めていた髪がわずかな重さをもって揺れる。頭が軽くなったような気がする。
私の一部ではなくなった髪を集めている彼を手伝おうとして、なぜか止められた。
「のぞみ、見てて」
その声はいつになく緊張を伝えてきて、何事かと微かな緊張を持って傍らに立つ彼を見上げる。やけに真剣な表情で睨むように水面を見ていた彼が、手に集めた私の髪の束をぱっとまき散らすようにそこに放り投げた。
何してんの! そう声を上げようとして──それが音になることなく口の中で不自然に凝り固まった。
泉に散らばった髪の残骸が、ゆらめく水面からすーっと溶けるように消えていく。
息をのみ、目に映ったそれに理解が追いつかず、あっという間にいつものように透明になった泉から目が離せない。
「この泉、溢れるはずの水がどこに消えるか考えたことある?」
聞こえてきた静かな声に、小さく何度も頷く。考えたことはある。答えはなんだったかと思い出そうとするも、目の前で起こった事実を上手く処理できずに、頭が混乱して答えが見つからない。
「泉の底に染みこんでいる」
ああ、そうなんだ。一瞬、そのくらいの感想しか浮かばなかった。けれど次の瞬間、今度は疑問が浮かぶ。
「底から湧いているのに底に染みこんでるの?」
「この泉の水は湧いてるんじゃない。溜まっているんだ」
もう本当に意味がわからない。
「ここの大気中のエネルギーを集めて雫に変えてる」
だとしたらこの波紋は、底から水が湧いてできているわけではなく、雫が落ちてできたものだということになる。ますます意味がわからない。
「雫って……、見えないんだけど」
「エネルギーの小さな塊が水面に触れることによって、その瞬間この水に変わってる」
どうしてそんなこと知ってるの? 口走りそうになった言葉をなんとかのみ込んだ。それと髪が溶けてなくなったことが一体どう関係しているのか、まるで見当もつかない。
「水浴びしても大丈夫なの?」
たくさんの疑問をのみ込んで、必要なことだけを口にする。
「服や身体の汚れが落ちるだけで、俺たち生きているものが溶けるわけじゃない。不要なものが溶け出すだけ」
まあそうだろうなと思う。さもなければすでに溶けていたはずだ。
「のぞみ。俺は、たくさんの嘘をついている」
そこでようやく、泉に向けていた目をゆっくりと傍らの彼に向ける。地面にあぐらをかいて座っているせいか、その視線は足から握りしめている拳、強張っているようにも見える肩をたどる。その先にある表情はいつもより遠く見えづらかった。それでも、そこに何も浮かんでいないのは明白で、大切なことを話しているのだとわかる。
「いつか、ちゃんと話す」
その言葉に、がっかりする以上にほっとした。知りたい気持ちよりも、現状を維持したい気持ちの方が大きい。
きっと聞いてしまえば何かが変わる。きっと何かが変わる時に彼は話すのだろう。それが私の望む変化であってほしいと願い、願うと同時に私が望む変化とは何かを自問した。自問したものの、答えはすぐには見付からない。
はっきりとわかっている当面の望みは現状維持だ。それがわかっているだけで、とりあえずなんとかなるような気がした。そうやって、これまでも生きてきた。
「ん」
短く返しながら、もう一度きらめく水面にゆっくりと視線を戻し、頷きをひとつ返す。
「ごめんな」
漠然と、それは色々な思いがこもった言葉なのだろうと思った。