月影奇譚
第三章 因んで
27 月と影と


 重厚な両開きの扉が開いた瞬間、弾けるように駆け出した。
 飛びつけばしっかり受け止められる。
 何も考えられず、何も言葉にできず、本能のままにしがみついた。



 羞恥心──そんな言葉が頭に浮かぶもそれどころじゃない。ここで逃したら二度はないとばかりに必死にしがみつく。どれほどみっともなくたっていい。兄の呆れた顔なんて知ったこっちゃない。

「よくおわかりになりましたね」
 そう声をかけてきたのは、しゅっとしたイケメンだ。なんのことかと訝しむ。
「まさか、お気付きではない?」
 面倒くさい。遠回しな言い方に苛立つ。今すぐ帰りたい。

「お前、少し落ち着け」
 思わず「うーっ」と喉の奥から絞り出すような声が出て、兄がそれはもう嫌そうな声を出した。
「誰も取らないから。お前昔からそうだよな、その唸るクセ、いい年してやめろよ」
 身も蓋もない言い方と、おでこにとんとんと触れている鼻先に、少しだけ落ち着いた。

 両腕ごと、がしっと拘束するようにしがみついていた手を緩めると、そこから腕だけが抜かれ、ぎゅっと抱きしめ返される。夢の中と同じ力加減に今度は涙が止まらない。
 私はどこかが壊れたのかもしれない。そう思うくらい感情が抑えられない。

 ぼたぼたと大粒の涙が零れ落ち、お隣の奥さんが「よかったわね」と優しく笑いながらハンカチを渡してくれた。お隣の奥さんの笑顔に一層涙がどばどば流れる。自分のハンカチはどこだろう、そう思うのに頭が働かない。鼻を啜りながら、拭いてもいい? と目で訴えると、お隣の奥さんが仕方なさそうに頷いた。あとで新しいのを買って返そう。
「いいか、ちゃんと話聞けるか?」
 言い聞かせるような兄の声に、ハンカチで鼻を押さえながら子供の頃のように頷いた。



 千代の月ごとに王家には月の女神の子が生まれる。およそ三世代から四世代に一人、必ず生まれるらしい。それがタロンだ。第一王子と第二王子は双子であり、クローンかと思うくらいその顔以外はそっくりらしい。だからなのか、ベールで顔を隠すと見分けることは誰一人できないそうで、扉が開いた瞬間、一瞬で見分けた私がタロンめがけてイノシシのように一直線に走り出したことに、王家側は目を丸くしたらしい。

 どうやって見分けたのかを訊いてきた太后の興味津々な眼差しに、答えなどなく困ってしまう。

 高価そうな肘掛け椅子に大王(おおきみ)、太后(おおきさき)、第二王子がすっと背を伸ばし品良く腰掛け、私はタロンにしがみついたまま揃って長椅子に腰をおろしている。私たちの背後に兄たちの椅子が用意されている。

 返答に困ってしまい、つい視線が室内を彷徨う。室内はごてごてした装飾品などなく、絵画が一枚、豪華に活けられた大きめの花瓶がひとつだけのシンプルさ。それがとても上品に感じられる。

「見分けるもなにも……」
 どう言えばいいのかわからない。むしろどうして見分けられないのかがわからない。
 ふと見れば、大王たちの背後に控える職員たちの視線も興味をありありと浮かべていた。
「別人としか……」
 言いながら、太后と直接会話していることに気付き慌てる。大王も太后もベールを外している。どこもかしこも上品としか言いようがない高貴な存在を目の前にして、教わったはずの作法が頭の中に見当たらない。
 楽にするよう気遣ってくれた鷹揚な大王の声があまりに優しく聞こえた。かえって緊張が高まる。
 不意に背中にあった手がとんとんと優しいリズムを伝えてきた。するすると緊張がほどけていく。

「なるほど、御印に触れても、香を同じにしても、間違わないわけですね」
 前回面会したのは第二王子らしい。しゅっとした顔がイケメンスマイルを浮かべた。何が「なるほど」なのか。彼の中では結論が出たのか、しきりに小さく頷いている。正直どうでもいい。

 なぜ身代わりなど立てなければならなかったのかと思えば、卜占の結果らしい。卜占の結果には何をもってしても従わねばならないという面倒な風習が大昔から連綿と続いているそうで、馬鹿馬鹿しいと思ってはいけないのだろうけれど、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

 イケメンスマイルを浮かべていた第二王子が急に真顔になった。
「月の姫、お聞き届けいただきたき儀がございます」
 姫などという恥ずかしい単語を臆面なくしれっと言える彼は、本当に王子なのだと変なところで感心した。小っ恥ずかしい言葉に小難しい言葉が続き、厳しさすら浮かべた顔で第二王子は説明を始めた。

 月の女神の子は必ず双子で生まれる。一般的には忌み子と云われているものの、王家では別に忌むべき存在ではない。むしろ月の力を多く宿すために歓迎される。
 けれど、双子のうち陽の生きものとして生を受けた方は、およそ三十年ほどしか生きられない。その期限が迫りつつある。つまり、どこからどう見ても若く健康そうな第二王子は近いうちに寿命を迎える。
 その呪いのようなものを月の力で打ち破ることができるらしい。

 もうひとつ打ち破れる呪いが、タロンに関するものだ。
 月の女神の子はほかの陰の人たちとは違い、日の間は獣の姿になり、月の間は陰の生きものになる。陰の生きものになった場合でもその力が強いせいか、ほかの陰の人たちが顎の付け根までしか陰の生きものとしての特徴を持っていないのに対し、タロンは首の付け根までが陰の生きものだ。つまり、ほかの陰の人たちは話せるのに、タロンだけは話せない。月の力が強まる満月の晩にだけ、顎まで陰の生きものの特徴が後退し、話せるようになる。
 月の力を使えば、タロンは普通の陰の生きものにすることもできるらしい。根本的な生命維持も血でまかなわずとも済む。

 ただし、それほどの力を使えるのは一度だけ。その力を使うと私に宿る月の力は消滅すると云われているらしい。

「それはかまいませんが……」
 呟いたそれに、大王の目がくわっと見開かれた。思わずびくっと身体が跳ねる。
 驚いている大王に、失礼にならないよう話そうとするけれど、付け焼き刃の尊敬語はむしろ失礼に思え、自分なりの誠意でもって言葉を選ぶ。
「力がなくなるということは、この印も消えるということですよね。それは私にとってむしろ大歓迎なのですが……」
 なぜか、王家側の全ての人、王族の背後に控える職員たちまでもが信じられないものを見たような、驚愕の表情をしている。

 やはり何か間違えただろうか。不安になって見上げると、琥珀色の瞳が優しく細められた。
「話せたの?」
 小声で訊けば、小さく頷き返される。久しぶりに見たその仕草に涙が滲む。つい、夢の中のようにぎゅっと抱きついてしまう。

 ふと見えた彼の首にある痣は、私の額のそれと同じだ。私のよりもずいぶんと色は薄い。いつもは毛に覆われていたそこにことあるごとに私は鼻先を埋め、額をつけていた。一瞬にして心に浮かんだ様々な想いに後押しされるように、そこにそっと額をつける。

「大王にならなくていいの?」
 満たされた思いでそう口にすれば、返事の代わりに首を軽く噛まれる。
「血って、一度にたくさん必要なの?」
「いや」
 返されたタロンの声。初めて聞いたはずなのに、懐かしく思う。第二王子よりもほんのわずかに低い。頭の中でその声がこだまのように何度も繰り返される。
「だったら、この先私の血だけでなんとかなる?」
 顔を上げそう訊けば、驚いたように目を見開かれた。そして、嬉しそうに笑う。犬の顔なのにはっきりと感情が浮かんでいる。いつまでも見ていたい。
「いいのか?」
「いいの。そのかわり私の血以外はもうダメだからね」
 もうタロンがほかから血を得ることすら嫌だ。たとえそれが狩られた動物たちであっても。
 再び首が噛まれた。

「お前たち、人の話聞けよ!」 
 苛立ちを抑えた兄の声に我に返る。ようやく再会できたんだから、もう家に帰りたい。わがままだと言われようがなんだろうが、とにかくタロンと一緒にいたい。
 後ろで兄が「俺って無職になるのか……」とぼそっと呟き、肩を落とした。

「誠によろしいのですか?」
 第二王子の確認に、頷き返す。
「どちらを……」
 そこで言葉に詰まった第二王子を真っ直ぐに見返す。
「命の方を優先します」
 だよね、とタロンを見上げれば、はっきりと頷きが返される。
「それでは影成は今のまま……」
 太后の声が震えている。それに頷きを返す。太后が大王に手を伸ばし、互いに握り合った。

「影成って名前なの?」
 こっそり訊けば、頷かれる。頭の中に浮かんだのは月明かりに浮かぶタロンの姿だった。月影のタロン。そんな馬鹿みたいなことを考えて、つい口元が綻ぶ。

 太后がタロンに本当にいいにかを確認している。第二王子に至っては、信じられない様子で呆けていた。
「誠によいのか? 晄成の方で?」
 大王の戸惑いを浮かべた声にタロンが答えた。
「彼女は私であればそれでよいのです」
 思わず頷く。聞きようによってはずいぶんと俺様な言い方だけれど、それ以外に言いようがない。

 タロンが犬の姿だろうが、月に一度しか話せなかろうが、それがどうした。今までと何も変わらない。むしろ話せることを知った喜びの方が強い。
 タロン自身がそれを望むなら考えるけれど、タロンは弟の命を犠牲にしてまで自分の姿を変えたいとは思っていないはずだ。現に、この先は私の血だけでいいと言ってくれた。自分の呪いの方をなんとかしてほしければ、あそこであんなふうに笑わない。

 これまでも王家のこの呪いを解こうと月の力を持つものが現れるたびに願ってきた。けれど、誰一人として月の力を手放さなかったらしい。
 私にとって痣は忌々しいものでしかない。月の力を使ったのはたった一度だけだ。それがなくなったところで何も変わらない。むしろ痣が消えてくれるなんて願ったり叶ったりだ。

「でもタロン、夜も犬の姿だったりしたよね」
 こそっと小声で訊く。
「月の間はどちらにも」
「じゃあ、今夜から夜は人ね」
 額がぺろんと舐められる。

 大王と太后、第二王子はなにやら話し合っている。「普通は兄の呪いの方を解くだろう!」という第二王子の抑えきれない声に目を丸くする。「弟は生まれたときからの覚悟が覆されたのだ、取り乱しもする」とタロンがこっそり教えてくれた。
 ああ訊いてはみたものの、まさか本当に呪いを解いてもらえるとは思っていなかったらしい。
 私のような月の力を持つものは、月の女神の子以上に生まれにくい、伝説になりかけているような存在らしく、生まれた瞬間から傅かれる。それを当たり前として育ってしまえば、その力を手放そうとは思わないらしい。
 私はこことは別の世界で生まれ、痣の意味など何一つ知らないまま生きてきた。

 医者のおばあとお隣の奥さんに目を向ければ、好きなようにしなさい、と口が動いた。年寄りの代表もそれに頷いている。医者のおばあの満足気な笑み。きっと第一王子がタロンだと当たりをつけていたのだろう。

「なんで会ってくれなかったの?」
 そんなつもりはなかったのに、拗ねたような言い方になってしまった。
「忙(せわ)しくもあったのだが……自信がなかった」
 私と一緒に暮らしている間、月の女神の子としての儀式や卜占を後回しにしていたらしく、戻った瞬間からとにかく忙しかったらしい。会いに行きたくとも行けなかったのだと謝られた。

「もしかして、京御所の夜、会いに来てくれた?」
 タロンが目を泳がせた。
「晄成から私との縁を望んでいると聞き、それで、嫌がられていないとわかった」
 第二王子だけじゃなく、タロンも生まれたときから一人で生きていく覚悟をしていたそうだ。誰かと縁を結ぶことなど考えもしなかったらしい。
「まさか、嫌がられてると思ってたの?」
 むっとすれば、背中を宥めるように撫でられる。
「向けられる想いがどのような意味を持つのかがわからなかった」
 情けない顔。さっきの俺様発言が聞いて呆れる。

 王家の長い歴史の中でも月の女神の子が縁を結んだ例はなく、私がイノシシ突撃したときの王家側の驚きには、そのことも多分に含まれていたらしい。
 確かに私もタロンが男の人だと意識したのは、最後の最後だ。それまでは単純にタロンの存在そのものを大切に想っていた。

「ずっと一緒にいてって言ったのに」
 やっぱり拗ねたような言い方になってしまう。
 この首飾り邪魔だな、と言いながら首を甘噛みされる。それ借り物だから壊さないでよ、と小声で注意すると、医者のおばあに借りたパールのネックレスがそっと外された。





 結局。
 タロンは再びあの家で私と一緒に暮らしている。

 第二王子の呪いは、いわゆるスーパームーンの時に言われるがまま月の力を全解放した。ただ、その年のスーパームーンはエクストリーム・スーパームーンと呼ばれる特別月の力が強い満月だったせいか、第二王子の呪いだけじゃなく、タロンの呪いも少しだけ解けた。

 月の印を持つものの降臨と第一王子との縁が同時に発表され、第一王子が神格へと移り、第二王子が王位を継ぐことも発表された。月向こうの世界では当たり前に神の存在を受け入れる。それが信じられない。
 準備に一年もかかった縁結びの儀は、顔を見せることなくベールのまま滞りなく済ませ、誰一人それを疑問に思わないことが、本気で信じられなかった。それと、本気の平安装束は重すぎて泣けた。

 第一王子が月の女神の子であることも公表された。
「月の女神の子と月の女神の結婚って、それだけ聞くと微妙。千年後には間違いなく近親相姦って言われるな」
 すっかり公民館に住み着き、最近では館長と呼ばれるようになった学者さんと、同じく公民館に住み着き、居候と呼ばれている兄とで、時々うちに来てはお隣、表、医者の息子さんたちも交えて神話の闇を微妙な顔で語り合っている。近く学者さんはそれらをまとめた本を出版するらしい。
 その間私はお隣の男の子の家庭教師だ。彼は中学までは元の世界の学校に通い、高校からは月向こうの学校に通う。粉のところの女の子とそう決めているらしい。「彼女なの?」と訊いたら、顔を真っ赤にしてもげそうなほど首を振って否定していた。まだ、彼女じゃないらしい。

 とある満月の夜、内々の結婚式を公民館で挙げた。ここに住む人たちが総出で祝ってくれ、とてもあたたかく思い出深い式になった。
 別の満月の夜、医者のおばあが嫁いでいった。ひそかにそうじゃないかと思っていた通り、幼馴染みの侍医がそのお相手だ。これが絵に描いたようなロマンスグレーの紳士で、なんと二人ともお互いを想ったまま独身を貫いてきたらしい。お隣の奥さん仲間たちが「これぞロマンス! これぞ純愛!」と興奮気味に囁き合っていた。

 最悪なことに痣は消えなかった。
 私は月向こうの世界と元の世界の両方の月の力を使っているらしく、そのパワーはかつてないほど強いらしい。おかげでタロンに与える血もほんの少しで済む。
 ただ、そのせいで私たちは月の女神と子としての公務が課せられている。踏んだり蹴ったりだ。力がだいぶ弱まってしまったので、死ぬまでにもう一度くるだろうエクストリーム・スーパームーンの時にタロンの呪いも解こうと思っている。

 あの切り株のそばに「月読みの社」が建てられ、宮中とワープシステムで繋がれた。満月の夜にまたしてもぺかっと光らせた。古代から使われているというよくわからないシステムは、世界の至る所に残されているのものの、現状はただの巨石と化している。水晶の原石で作られた平たい岩のようなそれは、人には動かすことができず、月の印を持つものだけが動かせる謎の物体だ。私には発泡スチロールでできているのかと思うほど軽い。こんな変な力は危険極まりないと、ようやく実感した。

 その社で事あるごとに卜占を行っている。絶対に内緒だけれど、月に見立てた手のひらほどの平たいおはじきのような水晶を放り投げ、表か裏かで占う。
「それ私たちじゃなくてもいいんじゃないの?」
 そう何度もタロンに愚痴るほど、大雑把な占いだ。二者択一のため、最終的な答えにたどり着くまでに何度も放り投げる羽目になる。
 月の力を持たないものが投げると、朱色の分厚い敷物の上にただぼたっと落ちる月もどきの水晶は、私たちが投げるとふかふかの敷物の上なのにくるくる回転してからどちらかに倒れるという芸を見せる。くるくる回る時間が無駄だ、さっさと倒れろ、といつも思っている。
 これのせいでタロンが会いに来られなかったのかと思うと真っ二つに割ってやりたい気にもなる。タロンもかなり苛ついたらしい。当時何度か逃走しようとしたものの、さすが生まれた頃から仕えている人たちだからか、逃走経路に悉く待ち伏せされていたらしい。こうなればさっさと終わらせようと寝る間も惜しんで卜占に明け暮れたのに、一年の放置のせいでいつまで経っても一区切りもつかなかったと嘆いていた。
 今ならわかる。キリがないのだ、この占いは。

 兄はそれまで通り特使としてあっちの世界とこっちの世界を行き来している。お嫁さんはまだ見付かっていない。

 両親と祖父母には騙すようで申し訳ないけれど、第二王子に代役になってもらい結婚の挨拶を済ませた。あまりに上品すぎる第二王子を見た家族の不審な目が後ろめたかった。兄の誤魔化し方があまりに下手すぎて、一層不審がられてしまった。
 第二王子は第二の人生を謳歌している。后の第三子の懐妊に国中が沸いた。

 ちなみに、幼少の頃の私を誘拐していたのは月向こうの世界のエジプトだ。あの国の王家は世界でも珍しい猛禽の頭を持つ。結婚を発表したというのに、しつこく縁結びの申し入れが続いている。タロンと同じ月の女神の子が元の世界と行き来している際に私を発見したらしい。狼人と結婚できるなら隼人とも結婚できるだろうという失礼すぎる主張と、元の世界のエジプトに幼少の頃住んでいたことを盾に取り、自国に繋がる者だとの意味不明な主張は、色々面倒で仕方がない。人を誘拐しておいてどの口が言うのかと呆れてしまう。





 聞こえてきたタロンの遠吠えに、たらいと足ふきマットを用意する。お風呂の準備を済ませ、たらいに水差しでお湯を注いでいるとタイヤが砂利を踏みしめる音が響き、「じゃあな」とお隣の息子さんの声が聞こえてきた。
 玄関のドアが開き、タロンがたらいで足を洗う。膝をつきその首を抱きしめる。鼻先を柔らかな毛に埋め、彼の匂いを吸い込む。甘噛みされる首には四つの小さな丸い痕がくっきり残る。最近は耳を歯先で噛まれることも多くなった。
「おかえり」
 それに頷きで応えながら、マットで足の裏をとんとんと拭き、タロンはそのままお風呂に向かった。

 たらいのお湯を外に捨てに行き、山の空気を胸一杯に吸い込み家に戻る。彼のために珈琲を淹れていると、かすかな水音に紛れ、ここ最近よく口ずさんでいる童謡が聞こえてきた。適当すぎる歌詞に思わず笑う。

──むすんで、つないで、ちなんで、つきのかげ。

 歌声につられるように、ベビーベッドからもご機嫌な声が聞こえてきた。


前話目次