アンダーカバー / Undercover
第五章 存続77 とつおいつ
あちこちに散らばった本部の設置は粗方終わり、続いて宿舎の移動が始まった。
作業中の小さな怪我を治しているうちに一日が終わる。そうそう事故が起こったり大怪我をする人もいないので、基本的にはほぼ待機だ。合間にキューブハウスに加護を与えたりもしている。一度にやるにはまだまだ力不足で、一日一棟、のんびり広大な敷地内を歩いて回る。
暇ついでにビュンビュン丸の運転を教わろうとしたら、ブルグレに却下された。鈍くさい私では無理らしい。航路と高度、速度、その他諸々をいっぺんに考えながら運転できるかを聞かれ、無理だなと諦めた。むしろなぜブルグレは運転できるのかを訊けば、「空を飛べるものの勘」とドヤられた。何も言うまい。聖女は空を飛べない。
シリウスもエニフさんも忙しそうで、暇を持て余す。
で、ノワが樹海に霊果から生まれる精霊を宿しに行くというのでほいほいついてきた。
「ちょっと思うんだけどさ、本部が最前線にあるってダメなんじゃない? 万が一停戦協定が破棄されたらどうするんだろ。また移動するのかな」
「アトラスは攻め込まれないわよ」
「なんで? 妙にきっぱり言い切るね」
「霊獣のいる地を攻め込む馬鹿はいないでしょ」
あ、そっか。霊獣や聖女はある意味中立な立場のはずなのに、このまま連合本部に居続けていいのか気にならないわけじゃない。
「どこにも属さないってだけで中立じゃないわよ」
「どこにも属さないってのは中立ってことじゃないの?」
「違うでしょ」
ぐるっと巨大な首を百八十度回して、馬鹿にしたように目を細めるのはやめてほしい。
しかもだ、しっぽの先を左右に動かし、風上から精霊の核みたいなものを樹海の上に蒔くだけだった。宿すと言うからには、ひとつひとつ丁寧に木や植物に託すのかと思っていたのに、あまりに大雑把でびっくりする。
「だから面白くないって言ったのに」
「なんかこう、もっと感動的なシーンが見られるかと思ったんだよ」
こんな機械的な作業だとは思わなかった。粉のような小さな煌めきが風にのって木々の上に振りかけられていく。きれいといえばきれいだ。ただ、地味ではある。
「ねえノワ」
「ん?」
巨大ノワの後頭部を背もたれに景色を眺める。遠くにアルプスやヒマラヤみたいに険しい山々が連なっている。万年雪が雲と同化して、互いの白を深めている。この世界にも登山家はいるのだろうか。ノワの住処に挑む無謀な冒険家がいるくらいだ、登山家もいそうだ。
「なんか疲れたかも。ここ最近色んなことがいっぺんにありすぎたよ。聖女のくせに胃が痛いってどうなの?」
「あなたが気にしすぎなだけでしょ」
「気にしてないよ」
「はいはい、私はそういうことにしとくけど、シリウスはそういうことにはしてくれないわよ」
わかっている。ここ数日シリウスから逃げている。心がひりついて仕方がない。
この期に及んでまだぐだぐだ悩んでいるだなんて、シリウスには知られたくない。間違いなくバレているのもわかっている。それでも、それを指摘されたくはなかった。
しばらくノワの住処に雲隠れしたい。
「トイレないけどいいの?」
「持って行く」
「いやよ。あそこにそんなもの必要ない」
「けち」
「けちで結構」
ここでも木々は紅葉する。赤や黄色に混じってなぜか紫系に色を変える木がある。赤紫やピンクの木を見て、最初は花をつけているのかと思った。きっと今までも目にしてきたはずなのに、まさか葉が紫やピンクに変わっているとは思わなかったせいで、その異様さに今更ながら気付いた。
「もしかして私の目がおかしいのかな」
「そう? 私にはもっとカラフルに見えてるけど」
ノワの視覚では人には見えないものも見えるらしい。
「オバケ的な?」
「そういうのとはまたちょっと違うわね」
本来なら何世紀もかけてできるような広大な森林が一夜にして出現したのはノワの力だ。そんな力を持つノワが見るこの「界」は、一体どんな景色なのだろう。
同じ景色を見ているようで、違う景色が見えているのかと思うと、なんとも不思議な気持ちになる。
「私とシリウスって同じように見えてる?」
「ほぼ同じね。でも色の感覚がちょっと違うわ」
「どんな感じ?」
「どんな感じって……言葉では説明できない感じ?」
知らなかった。どんな感じなのだろう。ノワが見ている視覚を脳に送ってもらっても、私のスペックでは私が見ている景色と同じになってしまう。
無理だとわかっていても、いつかノワやシリウスが見ている景色も見てみたい。
その夜、ノワの言った通りシリウスは見逃してくれなかった。ノワとブルグレはどこに行ったのか、その気配すら感じない。
「サヤ、聞け」
「いい。聞かなくていい」
シリウスが心配してくれているのはわかる。自分が本当は知りたがっているのもわかっている。
それでも、聞きたくない。逃げていたい。
──サヤ。
頭に響くシリウスの声。
「ずるいよ! それやられたらどうにもできない!」
「だったらちゃんと耳で聞け」
真上から容赦なく見下ろしてくる怖いくらい真剣な濃紺の眼差しに逃げ場はない。シリウスの凪いだ声は逆に私の感情を波立たせる。
少しくらい逃げたって、少しくらい耳を塞いだって、少しくらい、いいじゃないか。
「その少しくらいで自分が潰れそうになっているのがわからないのか?」
「わかってるけど!」
それでも、聞きたくない。目を逸らしていたい。
「あのな、サヤ。俺たち軍人は人の命を奪う。だから俺たちは自分の死を常にそばに置いて生きる」
今日もさっさと寝てしまおうと仮眠室のベッドに潜り込んだのに、そこから引きずり出された挙げ句、肘掛け椅子に座らされ、シリウスが肘掛けに両手を置くことで身動きを封じられた。足もシリウスの両足に挟まれて身動ぐこともできない。
「サヤは一見逆のことをやっているように思うだろうが、治癒する者も同じように死をそばに置かなければならない」
意味がわからない。生きることと死ぬことは同じじゃない。
「同じだよ。人を生かすということは、少なからず死を遠ざけることだ。遠ざけた分、治癒した者が死に近付く」
理屈はわかる。でも私の死は千年も先だ。おまけに霊獣と繋がる命に死が近付くことはない。
「そういうことじゃない。治癒は自分の生と他人の死を引き替えにしているということだ」
「それはわかってる」
「本当にわかってるのか? サヤは自分の生をあれに与え、あれの死を引き受けるつもりだったのか?」
そう言われるとわからなくなる。あの時はそれもひとつの手段だと思っていた。もっと単純に考えていた。
どっちにしても、それはもう諦めた話だ。今更蒸し返されたところでどうするつもりもない。
「あれは、軟禁されてはいるが今まで通りそれなりに優遇されてもいる。元々あれは自分が出向くより呼びつけてきたんだ。軟禁されているという自覚もないだろう」
シリウスの落ち着いた声に黙り込んだ。きっとこの声じゃなければ聞けなかった。それもわかった上でシリウスは現実を突き付けてくる。
「ただ、暗殺の道具にはされている」
それもわかっている。赤の男にとって不穏分子となる者たちの命力を彼女に奪わせている。
どっちがマシなのだろう。酷い目に遭わされるのと、酷い目に遭わせるのと。きっと私と彼女では答えが違う。
性格や考え方ひとつで、今彼女が置かれている待遇の意味がまるで違ってくる。
私なら自分が痛めつけられる以上にダメージを食らう。優遇されていることが一層のダメージになる。
彼女は、おそらくダメージなんて感じない。それまでと変わらない優遇を当たり前のように享受しているだろう。
「彼女はなんとも思ってないんじゃない? だったら別にいいんじゃないの?」
「俺もそう思う」
「じゃあなんでわざわざ聞かせるの!」
ずっと逸らし続けていた顔を上げ、目の前にあるシリウスの静かな目を睨む。なぜか、優しげに細められた。そんな目で見るから、鼻の奥がつんとするじゃないか。
「サヤが一番気になっていたのは、自分と同じように扱われていないかだろう?」
思考が読まれるって本当に容赦ない。彼女の現状を聞いた瞬間、ほっとしたことまで伝わってしまう。
「サヤの場合、思考を読むまでもない」
そこは思考を読んだことにしてほしい。なけなしのプライドまでへし折られた。シリウスが本気で容赦ない。
本当はわかっている。放っておいてほしかった。だから、放っておいてくれた。この期に及んでいつまでもぐだぐだ考えている私が悪い。
「泣いてもいいぞ」
「泣かない!」
からかうような声音にムキになって反論する。本当はちょっと涙目だ。
逃げないよう肘掛けを掴んだまま目の前にしゃがみ込んだシリウスの首に顔を見られないよう抱きつく。小さく笑っているのが震動となって伝わってきた。いっそ笑い飛ばしてくれればいいのに、そんな薄っぺらい慰めすらシリウスは与えてくれない。
「誰一人サヤのせいだなんて思ってない」
「誰一人というのは嘘でしょ」
「そうだな、ただ一人を除いて、だな」
こんなに嫌いなのに、どうでもいいと思っているのは本当なのに、自分のせいで誰かが酷い扱いを受けるのは嫌なのだ。そこに自分が関わっていることが嫌で堪らない。
シリウスはいつだってはぐらかさない。誤魔化さない。だから、安心して寄りかかることができる。
うーっ、と声にならない叫びをシリウスの首元に吐き出す。慰めるように背中に大きな手が添えられた。
こんなことならいっそあの瞬間に消えてくれた方がよかった。こうやって猶予があるのがキツい。考える時間ができてしまうのがキツい。だから、考えないようにしていたのに。ぎりぎりまで逃げていたかったのに。
なんてことはない、私が赤の男に告げ口したせいであの女が酷い目に遭っているんじゃないかと思うと気が気じゃなかったのだ。どれだけ小心者なのかと自分でも呆れる。小学生か。
「私ってばどんだけ自分がかわいいんだか」
私がうだうだ悩んでいたのは、彼女に対する罪悪感じゃない、自分に対する罪悪感だ。我ながらあまりに情けなくて誰にも知られたくなかった。
「そういうもんだ。俺も同じように考える」
「嘘だぁ」
「俺だってサヤの前では清廉潔白でいたいさ」
それでもきっと、シリウスは逃げたりしない。
首に抱きついたまま椅子から持ち上げられる。シリウスの腕にしっかり支えられ、椅子から持ち上げられたときのかすかな浮遊感に、どうしてか泣きたくなるほどの多幸感が紛れていた。
「気になることはちゃんと聞け。知らないということは自分の足を掬うことになる」
「でも知りたくない」
「そうだな。だが、知らないことで不安になるくらいなら始めから聞いておけ。知らないから不安になるんだ」
私を片手で抱き上げたままシリウスがベッドに潜り込んだ。シリウスはいつだって力強い。揺るぎない安定感はいつも私をほっとさせてくれる。
「あのな、サヤ」
ん、と小さく応える。
シリウスの胸に耳を着ける。その奥で命を刻むまろやかな音が力強い震動を伴って鼓膜を揺らす。
「あれが消えることは最初からノワに言われていたことだろう?」
「うん」
「サヤがいようがいなかろうが、何をしようがしなかろうが、あれは消えるんだよ」
誰に言われるより、すっと心に入ってきた。シリウスの匂いを吸い込んで、思いの丈を吐き出す。
「それでも、恨まれながら逝かれるのはキツいよ。何も知らない人に一方的に非難されるのも辛い」
「そうだな。俺も大帝国では特にそれを感じる」
そうか。彼らにとってはシリウスは敵の総大将だ。
「なんで戦争ってするの?」
「なんでだろうな。手の中にあるものだけでは満足できないからじゃないか?」
欲、というものか。
「手の中にあるものだけで十分なのにな」
「そうなの?」
「それ以外は切り捨てればいい」
それはそれで容赦ない。
「サヤはあれと俺、どっちを望む?」
「そんなのわかりきってるでしょ」
「だったら、あれは切り捨てろ」
そう割り切れれば楽なのに。殺したいほど憎いのは間違いないのに。そこに死が絡むと途端に逃げ腰になる。本当にこれでいいのか、わからなくなる。
「自分に対する甘えだな」
「優しくしてくれるって言ったのに全然優しくない」
「俺以外への甘えは捨てろ。サヤには俺一人で十分だ」
思わず顔を上げたら、にやりと意地悪く笑われた。
「シリウスって時々俺様だね」
「俺はそう生きている。残念だがな、サヤが考えるような綺麗事はここにはない。おそらくサヤのいた場所にもなかったはずだ」
その通りなのだろう。きれいなものがないからこそ、きれいなものを求めて必死になる。
諦めた以上それは当然のことなのに、いざとなるとぐらぐら揺れる。無駄に猶予があるから色々考えすぎてしまう。
腹をくくれということか。
「サヤはここで、俺の隣で生きていくんだ。それだけを考えていればいい。あとは俺がなんとでもしてやる」
優しい笑顔ではっきりと甘やかされる。容赦ないのに最後は甘やかしてくれるから、だから、離れられなくなるのだ。
いつか私を殺すかもしれない人だとしても、寄りかかってしまうのだ。
「死を恐れるのもきれいであろうとするのもサヤが真っ当に育ってきた証拠だ」
「シリウスは真っ当じゃないの?」
「真っ当ではないな。王家に生まれたものが真っ当であるわけがない」
「そういうもの?」
「そういうものだ。サヤは破廉恥のくせに、人の死に関してはその逆だな」
悪口か。ついにシリウスまで悪口を言うようになったか。価値観の違いだ。決して私が根性なしだからじゃない。
細かな振動が伝わってくる。笑うならちゃんと笑え。どうせ根性なしだ。
「サヤ、あれがサヤを嫌う理由は本当にくだらないものだ。サヤ自身になにかあるわけじゃない」
一番知りたいと思いながら一番知りたくなかったことを、シリウスは前触れなくいとも簡単に口にした。
明確な理由を知りたい気持ちと、知ってしまえばそれに囚われるかもしれないという気持ちがせめぎ合う。
「はっきりした理由なんてない。あの場で言ったことが全てだ」
誰しも全ての行動に明確な理由があるわけじゃない、とシリウスは念を押すように言った。
彼女にとって、私が晃や晴の間にいたことや、由貴や香澄ちゃんと幼馴染みだったことすら気に入らなかったのだ、人を嫌うことに理由なんてないのかもしれない。存在自体が邪魔だとはっきり言われたくらいだ、その通りなのだろう。
だったら関わらなければいいのに。
私なら、わざわざ嫌いな人に関わったりはしない。嫌いだと思うより先にどうでもいいと思ってしまう。だから、嫌っている私にわざわざ関わろうとする彼女の気持ちがわからない。私は、嫌いな人に関わるくらいなら、その分好きな人たちと関わっていたい。彼女とも直接関わってこなかったのに、そこまで嫌われるのは、生理的嫌悪とでもいうのか、存在そのものが嫌いなのだと思うしかない。
きっとどっちが悪いわけでもなく、単に相性が悪い、そのひと言に尽きるのだろう。
「争いの理由なんて案外くだらないものだ」
そうなのかな。言われてみればうちの兄弟喧嘩はいつだってくだらない理由だった。くだらないことでいつも馬鹿馬鹿しいほど真剣に争っていた。
「その兄弟喧嘩が王座の奪い合いになったりするんだ」
確かに。王家に生まれた兄弟の喧嘩ならそうなるだろう。
「シリウスも兄弟喧嘩した?」
「俺は少し年が離れていたからなぁ。どちらかといえば可愛がられていたんじゃないか?」
家族の話は少しせつない。思い出が楽しければ楽しいほど、思い出した後が辛い。
「それでも、できるだけ思い出した方がいい。記憶はどんどん薄れていく。気付くと印象でしか思い出せなくなる」
私もシリウスも、家族の写真すら手元にない。己の記憶だけが頼りで、それ以外は何もない。
翌朝の爽快な目覚めに我ながら複雑な気持ちになった。
シリウスの言った通り、知ることですっきりしている自分がいた。しくしくと痛んでいた胃がけろっとしている。
「私って単純だなぁ」
「いじいじ悩んでいるあなたも面白かったけどね」
いつの間にか腕の中に入り込んでいたノワが意地悪く目を細めた。手の中でもぞもぞ動いていた毛玉が朝の奇声を上げた。シリウスが小さな声で「朝か」と呟いた。