アンダーカバー / Undercover
第五章 存続
75 ゆるし


 本日はお日柄もたぶん(、、、)よろしく、祝福の乙女と大帝国次期皇帝の結婚式でございます。

「なんか蒸し暑くない?」
「夏だもの」
 大帝国の夏は日本の夏に似て湿気がすごい。息苦しいほどの暑気が体力をじわじわ奪っていく。湿度の高いメキナでもここまでじゃない。懐かしさよりも不快感が強い。
 涼しい顔で答えるノワは暑さなんて感じていないようだ。あ、そっか。「涼しくなーあーれー」と唱えると、ちょっと涼しすぎて鳥肌が立った。
「快適な温度って何度だろう? 二十八度は暑いんだよね」
「さあ。二十五度くらい? 二十三度くらいかも。それより湿度下げれば?」
 私がいた世界を体験したノワとはこういう微妙な感覚も共有できるようになった。
 温度設定なんて今の私にはできないだろうから、砦の気温と湿度を想像してみた。すーっと冷たすぎない空気が身体を覆う。なかなか快適だ。エニフさんからいい笑顔を頂戴した。女はね、暑さと湿気に弱いよね。主にメイクが。

 リムジン飛行船が到着したのは、前回同様、王城前広場だ。大帝国民からの歓声を受けながら、城に向かって歩き出す。
 脇に真っ黒な飛行船が駐まっている。メキナの神殿長は先に着いたようだ。
 かの神殿長が二人の結婚式を執り行うらしい。ちなみに、この世界に神殿で挙式する風習はない。乙女の意向なのだろう。神殿は教会じゃないのに。神殿に誓うということは、ノワに誓うということになるとわかっているのだろうか。
「指輪の交換もするらしいわよ」
 姿を隠したノワがシリウスの前を歩く。私たちの周りをがっちり固めているポルクス隊の肩には精霊たちが乗っている。シリウスの肩にはブルグレがふんぞり返っている。
「指輪って、作ったの?」
「作ったみたいね」
 ここのアクセサリーにネックレスやブレスレットはあっても指輪はない。指に着けるのは、私の耳にあるジェームの花のような吸着型のチャームだ。それも指の付け根ではなく爪の付け根に飾るのが今の主流だ。
「流行らせたいのかな?」
「さあ。そうかもね。でも流行らないと思うわよ」
「なんで?」
「くっつく方が楽でしょ。指に輪っか嵌めるのなんて邪魔で仕方ないわよ。なにかするたびに別の場所にくっつけられる今の形の方が合理的よ。おまけに人によってサイズが違うんだもの、作る方だって面倒よ」
 言われてみれば確かに。邪魔なときは耳や髪にくっつけたりできる今のチャームの方が便利といえば便利だ。ここでは眼鏡すら吸着型だ。

「ただの輪っかなんてする意味もないわ。きれいな飾りだからこそ、なのよ」
 結婚指輪全否定。シリウスを見れば頷かれた。
「たぶん、誓いの意味もあるから結婚指輪はシンプルなんだよ。あと既婚者ってわかりやすいし」
「ここでの浮気は重罪よ。既婚者かどうかなんて指輪で確認するより前に自分から触れ回るわよ」
 シリウスを見ればやっぱり頷かれた。
「もし私が指輪してって言ったら?」
「サヤの前でだけ着けるかもな。ノワの言う通り、指に輪っかは何をするにも邪魔だ」
 ものすっごい本音だ。

 確かに普段からポルクス隊の誰も手にアクセサリー類は着けていない。ポルクスレディやマダムたちも、おめかししたとしても普段から着けている耳のチャームとシンプルなネックレスくらいだ。ブレスレットすら滅多に見ることはなく、どこの国だったか、面会の時に女王様がアラベスク模様のバングルを手首に巻き付けているのを見たくらいだ。それも会食の席では外していたのを覚えている。

「そもそも婚姻の証を男が着けることはない」
「そうなの?」
「男は贈る立場で身に付ける立場にない」
「女の人が贈るのはナシなの?」
「ナシだな」
 過去にどんな経緯があってそうなったのか。ほんの少し興味が湧いた。
「ってことは、アクセサリーショップに女の人はいないってこと?」
「男性の同伴ではいるが、単独ではいないな。いても使いの者だ」
 なんて不自由な。自分の好きなアクセサリーを自分で選んで、自分のお金で買って、自分の好きなところに着けることもできないのか。
「それなのに、よく結婚指輪なんて了承したねぇ」

──数年、とわかっているからだろう。

 嫌なことを聞いた。なんか最低。呪いの指輪のように一生外れなくなればいいのに。
「そう呪文でも唱えれば?」
「唱えたくなるかも」
「いいんじゃないか? サヤの好きにすればいい」
 ノワの意地悪な提案も、私の意地悪な呟きも、シリウスは笑いながら肯定する。

 案内された控え室は前回と同じ部屋だった。
 今回は宿泊せずに帰る。お昼過ぎに結婚式が行われ、私たち同様パレードが行われた後で披露宴が開催される。私たちは結婚式の参列と披露宴の参加だ。

 その結婚式が行われる大聖堂への入場の際、シリウスの名が呼ばれた瞬間、ポルクス隊に見えない動揺が走った。
「なに?」
「シリウスをアトラス国王って肩書きで呼んだのよ」
 忌々しそうなノワに説明されても、意味がわからなかった。実際アトラスはシリウスの領地なのだから、アトラス国王でも間違いではない。
「あんたバカなの? 聖女の伴侶でもなく、准聖人でもなく、連合国総長でもなく、アトラス国王って呼ばれたのよ」
 なるほど、シリウスの地位が故意に下げられたのか。つまり、大帝国の皇帝と同列に扱える……違う、大帝国側にしてみれば、連合国総長と皇帝が同等の立場なのか。あのおっさん、前回着席を勧めなかったことをそんなに根に持っていたのか。アトラス領地について沈黙していたのはこのためだったのか。せこー。
 ひとつひとつ疑問が解けていき、その結果、皇帝には「器の小さい男」というレッテルを勝手に貼り付けておいた。
「帰る?」
「それもいいな」
「私が姿を現すわよ」
 その瞬間、ノワが羽ヒョウサイズでシリウスの隣に姿を現した。わざとらしく純白の翼を広げるあたり、ノワもなかなか意地が悪い。

 おまけに、案内されたのは大帝国の領主たちの末席だ。私が知る教会に似せて用意されている席の最後列と言い換えてもいい。つまり、入り口のすぐ手前だ。

 霊獣を伴って末席に着いた。案内する人がかわいそうなくらい蒼白になって震えている。恨むなら自国のトップを恨め。
 私たちが腰をおろすより先に、すでに着席していた全ての大帝国の領主たちが慌てたように席を立ち、私たちより後方に移動した。入り口付近に人集りができ、慌てたように駆けていく足音が遠離っていく。
「なんか、面倒なことになりそうな予感」
「どうするのかしらね、皇帝は」
「ってことは、赤の男と乙女は知らないの?」
「知らないでしょうね、知ってたら絶対に止めてるわよ。宣戦布告よ、これ」
 ノワばかりか、シリウスまでもが他人事みたいに面白そうな顔を隠そうともしない。

 大聖堂は円形のドゥオーモみたいな建物だ。その中央には霊獣が降り立つ場所として祭壇が設けられている。
 その周りに豪華な肘掛け椅子がいくつも並び、正面にもうひとつある低めの祭壇で二人は愛を誓うのだろう。どこまでもキリスト教の結婚式に似せてある。彼女はクリスチャンなのか。そのわりに十字架はどこにもない。

 ぼんやり辺りを観察している間に、大聖堂は私たちだけになった。
 静まり返る大空間は厳かな雰囲気すら漂わせ始めた。ぐるりと円を描く高窓から光が落ちてくる。
 善くも悪くも、ここが私の始まりの場所だ。

 そこにメキナの神殿長が祭壇そばの入り口からふらりと現れた。末席に座る私たちに糸目を見開き、慌てて駆け寄ってきてシリウスに話しかけた。
「いえ、アトラス国王としてこの席に案内されたものですから」
 いつもなら土下座しようとする神殿長が挨拶すら忘れていきり立っている。そうか、准聖人の称号を授けたのは神殿だ。それすら蔑ろにされたのだ。皇帝のくせにいじましい。

 そこに事態を聞きつけたのか、真っ白なタキシード姿の赤の男と純白のウェディングドレス姿の乙女も駆け込んできた。乙女の顔が般若だ。
「なんのつもりなの! なんであんたはいつも私の邪魔ばっかりするの!」
「別に邪魔するつもりはないよ。ここに案内されたから座ってるだけで」
「考えなくてもわかるでしょ! 空気読んで最前列に座ればいいでしょ!」
「それはそれでどうなの? 案内されてもいないのに最前列って」
 そこまで図々しくはなれない。
「あんたなんか呼ばなきゃよかった!」

 それは、この結婚式にか。
 それとも、この世界にか。

 一瞬にして全てが遠退いた。現実味が一気に薄れた。周りが薄い膜に覆われたみたいに、何もかもが曖昧になった。まるで身体から精神だけがふらっと抜け出たみたいだった。

 私は一人だった。私という存在は、ひとつしかなかった。
 ずきん、ずきん、と左手が幻痛を刻む。

 結局、切っ掛けは彼女なのだ。幼い私と今の私がリンクしたとしても、最初の切っ掛けがなければ私はここに存在していない。

「もらわれっ子のくせに!」

 耳をつんざく金切り声に意識が引き戻される。日本語がゆっくりと頭の中に入ってきた。どうしてそれを彼女が知っているのか。当事者の私ですら本当の家族だと信じて疑わなかったのに。

 久しぶりのドヤ顔を瞬きも忘れてまじまじと見上げた。
 見下ろしてくる彼女はこんなにも醜かっただろうか。純白のドレスが美しすぎて一層醜悪さが際立った。

「知ってるんだから! あんたがもらわれっ子だってこと! うちの情報部に調べさせたんだから!」

 そういえば、彼女はどこかの企業の社長令嬢だと聞いていことがあったかもしれない。

「田中兄弟に大事にされるのも、あんたがもらわれっ子だからでしょ!」

 普通に兄弟仲がよかっただけだ。たとえ私が養子だとしても。

由貴(よしき)先輩にまで優しくされて!」

 あの天性のいじめっ子は外面がいいだけだ。イケメン無罪とは由貴のためにある言葉だ。あれの陰険さは、幼馴染みのみぞ知る。

香澄(かすみ)先輩にまで可愛がられて!」

 兄の彼女で幼馴染みの一人だ。確かに仲はよかった。

 そうだ。あの日、この女が囁いたのだ。とびきりの笑顔で、もらわれっ子、と。
 思い出した。

「ねえ、なんで私をここに呼んだの?」
「はあ? 嫌いだからに決まってるでしょ」
「嫌いってだけで家族と引き離して、あんな仕打ちをしたの?」
 鼻で笑われた。その顔を、醜い、と思った。
「家族じゃないでしょ。寄生虫みたいなあんたを排除してあげたのよ。あんたの本当の親、HIVだったのよ。偽善で海外ボランティアに参加して、その挙げ句感染させられて、ばっかじゃないの。運良くあんたは感染しなかったみたいだけど、そのせいであんたのこと誰も引き取らなかったんじゃない。仕方なく田中兄弟のご両親があんたのこと引き取ってくれたのよ。それなのに図々しくも晃先輩と晴くんを自分のものみたいに扱って!」

 海外ボランティアに参加することは偽善で、私を引き取ることは偽善じゃないのか。その境界線はどこにあるのだろう。
 晃も晴も兄弟だ。家族だ。仕方なく引き取ったんじゃない。私は、私が知る家族を信じる。

 写真でしか見たことのない父がHIVのキャリアだったのは本当だ。ボランティアは関係ない。子供の頃に交通事故に遭い、そのとき受けた輸血での感染だ。母は全てを知った上で父と結婚し、私を産んだ。母は全く関係ない病気で亡くなっている。
 幼くとも私は母から全てを聞かされていた。私がどんな経緯で、どれほどの人の手を借りて、どれほど望まれて生まれてきたのか。繰り返し繰り返し、頭の中に刻み込むように。父のことを思い出しながら話す母は、いつも幸せそうにほほ笑んでいた。
 これまで封印されていた分、記憶はすり減ることも色褪せることもなく鮮明に浮かぶ。

 親や家族をバカにされて黙っていられるほど私は出来た人間じゃない。
 こんな醜い生きものに私の親も家族も穢されたくない。

「もしかして、晃か晴か、由貴が好きだった? 香澄ちゃんに憧れてでもいた? でも、みんな相手にしなかったでしょ? 当たり前だよ、あの四人はものすごく勘がいいから、中田さんの性根を見抜いたんだよ」

 彼女が振り上げた手は、赤の男に阻まれた。
 同時に、怒りを纏うシリウスが凍てつくほど静かな声を上げた。

「お前は、自分が気に入らないという理由だけで、聖女を貶めたのか」
「そうよ! だいたい聖女になれたのだって私が呼んであげたからじゃない!」
「聖女がお前に何かしたのか」
「存在自体が邪魔なのよ! なんでこの女ばっかり!」

 シリウスの淡々とした声と、彼女の金切り声が大聖堂に木霊(こだま)する。

「ただ気にくわないというだけで、お前は聖女を殺そうとしたのか」
「だから何? 死んでないじゃない! 目障りなくらいぴんぴんしてるじゃない!」
「それまでの全てから一方的に切り離されることも、殺されることと同じだとは思わないのか」
「はあ? 何言ってんの? 意味わかんない。なんなのこの人」

 そういえば、木霊にも霊という字がつく。

「そうね、偶然だけど、ここでいう声霊(こだま)は精霊たちが運ぶ声のことよ」
「ねえノワ、言ってもいいと思う?」
「いいんじゃない?」

 いつの間にか結ばれているシリウスの大きな手。
 いつの間にか肩にいるブルグレ。
 いつの間にか膝にいるノワ。
 私は今、確かにここにいる。

 純白を纏う女を抑え付けている次期皇帝、彼の真赤な瞳を静かに見据えた。きっと私は今までで一番聖女らしく笑っている。完璧なアルカイックスマイル。

「あのね、皇帝の命力を奪っているの、この女だよ」

 声に力を込めた。
 シリウスが通訳するまでもなく、私の告発に赤の男の目が見開かれていった。



「ゆるし」は相手のためにすることじゃない。自分のためにすることだ。
 ゆるせないことがこんなにも苦しい。苦しくて苦しくて、心はずっと歪に引き攣れたままで、どこもかしこも千切れそうで、この苦しみから解放されたいがために自分を緩める。
「ゆるし」は決して慈悲でも容認でもない。疲れ果てた末の諦めだ。



 私は、彼女を諦める。

 一生自分の中にしこりとなって残るのが嫌で、そのしこりと傷を抱えたまま生きるのが嫌で、自分が引導を渡すのも、その罪悪感に苛まれ続けるのも、とにかく彼女に関わる全てが嫌で。
 それらを回避したくて足掻こうとしていた。

 心のどこかで思っていた。幼稚な願望を手放せなかった。

 もしかしたら、仲良くなれるんじゃないか。
 もしかしたら、少しくらい歩み寄れるんじゃないか。
 もしかしたら、人の一生分くらいの命力を彼女に与えてもいいんじゃないか。

 それが上から目線だとか、偉そうだとか、綺麗事だとか──何を言われたとしても、それでも、彼女しかいなかったから。それまでの私を知る人も、元の世界を知る人も。
 どんなに嫌いでも、どんなにゆるせなくても、彼女が望むなら同じ世界に|存在して《いて》ほしかった。

「私が知っているから大丈夫よ」
 私はずるい。ノワが知ってくれたから、彼女を諦められる。本当にずるい。



 結婚式は滞りなく行われたらしい。
 私たちはそのまま帰ってきた。私たちの飛行船の後に、黒い飛行船も続いた。

 そして、ひと月も経たないうちに皇帝ではなく、第二皇子の訃報が伝わってきた。
 皇帝は持ち直したらしい。そこにどんな策略があったのか、考えたくもない。

「他人の命を奪ってまで生きたいものかな」
「無理よ。私が五年って言ったのよ、それ以上は無理。みっともなく足掻けばいいわ。利用されるだけ利用されて」
 ノワの妖獣スマイルが怖い。

 あと一年足らず。それを知る大帝国の次期皇帝はどこまで彼女を利用するつもりだろう。
 あの日、真赤の目が見開かれていくと同時に、彼の中で何かが変わっていくのがはっきりとわかった。
 何がどう変わったのか。
 きっと次に会うときは皇帝としてだろう。

 乙女は結婚以降一切表に出ていない。
 どうなっているのか興味もない。だから、それを知るシリウスたちも私に何も言わない。

 彼女はきっと気付いていない。自分があの瞬間、何を失ったのか。
 あの瞬間、メキナの神殿長は彼女が祝福の乙女であることを否定した。
 あの瞬間、シリウスの声に力が込められていたことも、彼らの声が精霊たちによって世界中に運ばれたことも、彼女はきっと気付いていない。

 彼女が今「厄災の乙女」と呼ばれていることも、きっと知らない。
 彼女と結婚したのが第二皇子だということも──。