アンダーカバー / Undercover
第五章 存続
73 生滅流転


 気付けば砦は夏を迎えていた。
 この辺りは冬がとにかく長く、それ以外がうんと短い。そのせいか、春が一気に大地を覆い尽くすと、それ以降は怒濤の勢いで季節が変わっていく。季節といっても、春夏秋冬の大雑把なものじゃなく、初春とか仲春とか晩春とか初夏とか、そんなもう少しだけ細かな移ろいのことだ。まるで背景が切り替わっていくかのようにはっきりと変わっていくのだ。
 風が季節の匂いを運んでくることをことさら強く感じるのもこの砦ならではだ。

 あれから、何か変わったかといえば、何も変わらない。
 ただ、これでもう二度と戻れないという覚悟はできた。今までは他力本願的に戻れなかった。今はもう、自分の意思がここにあることを知ってしまった。
 戻れない、ではなく、戻ってきた。
 まだその意味をはっきりと自覚しているわけじゃない。それでも、今ここにいるということはそういうことなのだと納得はしている。
 たとえ血の繋がりがなかったとしても、むしろないからこそ、家族を思えばどうしたって淋しくなる。それはこれまでと同じで、この先もきっと変わることはない。

 洗濯物を干し終わったところで、なぜか洗い立てのシーツに翼を広げ、大の字になってへばりつくようにぶら下がっている黒猫に声をかける。
「ねえノワ、アトラスの跡地が見たいんだけど……ねえ、さっきから何してんの? 日光浴? 虫干し? ぱっと見マヌケだよ?」
「失礼ね。ちょっと遊んでただけじゃない。ほら、行くわよ」
 くるんと宙返りしながらノワが着地した。お見事。
 シリウスに頭の中で許可を求めたら、俺も行く、と返ってきた。砦にいるときのシリウスは本部にいるときよりも余裕がある。
 ブルグレを呼べば、口の周りを真っ赤にしてふらふら飛んできた。スプラッターだ。
「また勝手に木の実食べて。そのうち怒られるよ」
「今日のは野生じゃ。おかげでちょいエグい」
 羽リスたちは思い思いの木の実を見付けては、一粒二粒分けてもらっている。ブルグレは本当に意地汚いので、一枝丸々食べ尽くす。さすがに人様の庭木や明らかに手入れされている木はやめろと注意したら、野生を探すようになった。一度分けてもらったら、あまりに酸味とえぐみが強くて、思わず吐き出した。
 ブルグレはしきりに前足で口の周りを拭っては、前足に付いた赤を舐め取っている。
「わしマヌカに行きたい」
「行きたいねー」
 そう言っている間にシリウスが駆けてきた。
 羽ヒョウの背に跨がり、一気に上空まで駆け上がる。

 上空から見下ろす国境周辺は、夏の今、一面の草原だ。そこかしこでジェームが群生し、白い花を風に揺らしている。
 十数年以上経ってようやく草花が生えるようになった、全てが消滅した場所。
 ノワがぐうんと上昇すると、アトラスの全景が見えてくる。飛行船ではここまで上昇できない。
 アトラスはしずく型の国だ。半分ほど開いた扇形といってもいい。外海側には険しい山脈。山並みからの緩い傾斜が内海まで続く。なだらかな平野には幾筋かの川が山際から始まり、ゆったりとうねりながら合流し、最終的にはひとつの大きな流れとなり、内海へと流れ込んでいる。

「ノワは何か感じる?」
「なんにも」
「シリウスは?」
「何も感じない」
「わしも何も感じん」
 かくいう私も何も感じない。かつて栄華を極めたアトラスの痕跡にはその欠片も残っていない。見事なまでの大草原だ。
「ここってこの先もずっと取り残されたままなのかな」
「どうだろうな。そのうちじわじわ両国が浸食してきて、いつの間にかなくなるんじゃないか?」
「でも十五年近く経ってもそのままなのよ、もうしばらくはそのままじゃない?」
 私の考えは伝わっているのだろう。
「どう思う?」
「いいんじゃないか」
「いいと思うわ」
「わしもいいと思う」

 丁度真ん中になおざりに引かれた国境線が見えた。暫定的ではあるものの、この土地は未だシリウスのものとされている。アトラスの王族が残っている以上、勝手にどうにかできると思うほど、まだこの世界の主たる支配者たちはアトラスの脅威を忘れてはいない。

「じゃあさ、宣言しちゃっていいと思う?」
「いいんじゃないか」
「いいと思うわ」
「わしもいいと思う」
 みんなどうでもよさそうだな。

 では。
「聖女の名の下に宣言する。アトラスの地はシリウス・サーヤ・アトラスのものとする」

 ちらっと振り向けば、シリウスが目を瞠っていた。ちょっと得意気に笑う。
「サヤじゃなくて俺なのか?」
「シリウスだよ。だって元々シリウスのものだもん」
「いや、それは便宜上……」
 すでに宣言は成された。諦めたように肩の力を抜いたシリウスは、改めて上空から今し方完全に自分のものとなった領土を見下ろした。
「また、人が住めるようになるといいな」
「とりあえず聖女の館は引っ越しだね」
「家渡りだけかと思っていたんだがなぁ」
 なんとも言えない顔でシリウスが呟いた。ノワが「私はなんとなくわかってたわ」と得意気だ。ノワは四六時中一緒にいるからどうしても伝わってしまうのだろう。
「なるべく考えないようにしてたんだよねー」
 私だって多少はレベルアップしているはずだ。隠し事じゃない、サプライズだ。後ろから抱きかかえるようにしてノワの背に乗るシリウスが、こつんと頭をぶつけてきた。

 ここで何があったのだろう。
 国があったことは間違いないのに、国があったという痕跡がどこにもない。

 ふと思い出したのは、ただ闇雲に暗記した物語の冒頭。

   祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
   おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
   たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 意味もわからないまま完璧に覚えるまで何度も諳んじた。案外忘れないものだ。君が代と同じでいつまでも覚えているだろう。こういう否応なく憶えさせられたものが、私の根底にはしっかりと根付いている。

「なにそれ」
「授業で暗記させられた平家物語っていう大昔の軍記かな。物事の全てには必ず終わりがあるって意味だったはず」
 へーえ、というノワの声を聞きながら、ふと思う。
 私たちの終わりはどこにあるのだろう。
「私に終わりなんてあるのかしら」
 ノワの何気ない声に、大丈夫、と小さく思う。

 大丈夫。いつか私たちも子供を授かる。私たちがいなくなっても、私たちの子供がノワと一緒にいる。
 ここに家を構える。いつしかここが私たちの故郷になる。いずれ私とシリウスの霊樹がここで花を咲かせ、散っていく。
 振り返ると背後のシリウスが笑っていた。好きな笑顔だ。後ろから包み込まれている、何ものにも代え難かった体温と匂いと安心感。

「少し楽しみね」
 ノワがホラーな振り返り方をした。
「ずーっと先の話だけどね」
「とりあえずは、乙女の結婚式ね」
「嫌なこと思い出させないでよ。そういえば、転送装置壊したことバレてない?」
「まだ露見していないようだ。そもそも、使い方自体よくわかっていないんだよ、彼らも」
「そうなの?」
 驚きながら背後に訊く。
「そうらしい。背面にある突起に触れると、なんとなくうっすら光り始めるんだ。そのまま大聖堂に安置するとゆっくり光が強くなっていき、今回はひと月ほどで乙女が現れたらしい。文献によると数年後に現れたこともあるようだ」
「なんか、微妙に時間がかかるんだね。呼んだって言うから召喚系の呪文でも唱えていきなり呼んだのかと思ってた」
「そういうことにしておいた方が劇的だろう?」
 呆れた。別にじっくりじわじわでもいいじゃないか。

「あれ? じゃあ私は? 乙女が呼んでそれこそすぐ現れたんじゃないの?」
「実際のところはどうなんだろうな。本人はそう思い込んでいるし、周りもそう思い込まされているが……いくつかの思考をまとめると、サヤの場合は本当にいきなり光りが溢れて、いきなり現れたようだ。それこそ劇的に」
 人によってタイムラグがあるってことなのか、それとも単にランダムなのか。あ、私がイレギュラーということなら、バグってこと? ってことは、すでに壊れかけていたとか?
 そもそもだ、あの装置は本当に転送装置なのか。仮に転送装置だったとして、外界から人間という生きものを選んで呼び寄せることなどできるものなのか。たとえば未来や別の界の単なる宅配装置のような物だったとして、そこに別の力が加わった何かだったのではないか。それとも、本当にテレポーテーションやタイムマシンのような代物だったのか。
 湧き上がる疑問に答えてくれるものはない。

 あれ? ……となると、もしかして私の乙女に対する怒りは八つ当たりってこと?

「そんなことないんじゃない? 再度スイッチを押したのは間違いなくあの女だし、スイッチ押すとき間違いなくあなたを身代わりにするつもりだったし、いきなり現れたあなたに周りが驚いているのをいいことに『私の力よおほほほほ』をやらかしたのもあの女だし、現れたあなたを厄災の乙女認定したのも間違いなくあの寄生虫だからね」
 その言い方。おほほほほ、を特にアホっぽく再現したノワが思い出し怒りに白い翼を震わせている。ブルグレまで一緒になって怒っている。背後から私を支えている大きな手に触れ、そっと指を絡ませた。
 確かにそう言われると八つ当たりくらいしてもよさそうだ。あのときのドヤ顔は忘れたくても忘れられない。

 それでも、私がノワの手を取ったことで、ここにいる私と過去の幼い私がリンクしたのは間違いないだろう。で、あの日絶望を感じて飛ばされてきた。諸悪の根源は私でもあるってことだ。完全にループしている。乙女が切っ掛けなのは間違いなくても、起点がどこにあるのかわからなくなっている。

 私の存在が矛盾している。

 今回のことで私が肉体を持つ理由の一端はわかったような気もする。けれど、それは私がすでにこの世界にいることが前提だ。この世界にいる今の私と元の世界にいる過去の私が繋がり、この世界にいる今の私に肉体があるから、元の世界にいる過去の私も肉体を持ってこの世界に呼ばれた、と考えるとなんとなく辻褄は合いそうだ。

 だとしても、やっぱり始まりがどこにあるのかがわからなくなっている。
「ノワ、知ってた?」
「知るわけないでしょ。最悪私だって消滅してたかもしれないんだから」
「あ、呼びに来てくれてありがとう」
「いまさら?」
「ごめん、ありがとって言うの忘れてたから」
 あの時、ノワが呼びに来てくれなかったらどうなっていただろう。一生三人を想って生きたような気がする。黒猫を飼ったり、リスを飼ったり、北欧辺りを訪ねたりして。
「一生結婚できなかっただろうなぁ」
「残された俺はどうなっただろうな」
 シリウスの顎が頭の上に乗った。ちょっと嬉しい。
「ってか、シリウスが一番最悪だね。千年の寿命押し付けられて、准聖人にまでされて、その挙げ句、妻はアンデット化」
「あなたね、せっかくそれっぽい童話があるんだから眠り姫くらい言いなさいよ」
 姫はない。すでに人妻だ。眠り人妻。情緒もへったくれもない。せめて眠り夫人とか……これも微妙だ。ん? もしかして眠り姫はアンデットだったりして。王子はネクロフィリアとか。嫌な童話だ。

「そういえば、あなたのいた世界、本当に破廉恥なのね」
「どういうこと?」
「ちょっと色々見てきちゃった」
 あの姿でか。よく通報されなかったな。ん? ということは、あの疲労は自分のせいじゃ……。
「そんなことないわよ。界を超えたのよ、疲れるでしょ。あなたを捜すついでにちょっと寄り道しただけよ」
 ノワが思いっきり早口だ。ノワさん、同じく界を超えた私は全く疲れていませんでしたが。
「あなたは小さいとはいえ肉体があったからよ。別の界で存在保つの大変だったんだから」
 嘘くさい。本当は何した? ん?
「ちょっとゲーセンに……」
「わしも行きたい!」
 アホですか。わざわざ界を超えてゲームセンターに行くってどんなアホですか。
「だって、私もアンデットの殺戮やってみたかったんだもん」
「お金どうしたの?」
「ちょっと力使って……。あなたの静電気びりびりが参考になったわ。いくつか壊しちゃったけど」
 さっきからシリウスが気配を消している。

「シリウスごめんね。ほんのちょっとだけ遊んじゃったから帰ってくるのがほんのちょっとだけ遅れちゃったの」
 ノワさん、最低ですね。ほんのちょっとを二回も言うあたり、ほんのちょっとじゃなかったってことですね。
「貸しひとつな」
 シリウスの声が低い。ちなみに私がシリウスの立場なら、毛を毟っている。
「じゃあ俺もあとで毛取りでおでこを擦ってやる」
「ごめんってば。これでも我慢したんだから」
「ノワって本当妖獣思考だよね」
 失礼ね、と言いながらも本当に悪いと思っているのか、しっぽの先から霊果をひとつシリウスの手に押し付けた。シリウスは黙って受け取り、ばり、ぱかん、と指先で簡単に霊果を剥いて、私の口に押し付けてきた。
 できればもう少し早く欲しかった。ダウンしたのはすでに五日も前だ。
 半分囓って、半分をシリウスの口に押し込む。どっちが食べてもそれぞれ同じだけ命が延びるなら、分け合って一緒に食べたい。
 シリウスのご機嫌がそこそこ回復した。ノワめ。霊果三つはストックだからね。ノワが軽く首をすくめ、白い翼を優雅にはためかせた。
「ねえノワ、この世界と私がいた世界の位置関係ってわかった?」
「わからなかったわ。今も考えているけど、わからない。私がいた界への繋がりもわからなかった」
 前を向いたまま、淡々と紡がれたノワの声に、返す言葉を見付けられない。
「でも、私もわかったからいいの」
「そっか」
「そう。もし私に同じことが起こったら、私は戻ってこないわ」
 そうだろうと思った。それでいいと思う。ノワだけがここにいる限り同じ存在を得られない。
「その時までは一緒にいて」
「あなたが生きている間にその時は来ないわよ。万が一の話」
 一緒にいられることを喜ぼう。

 心の奥底に結び付いて離れない、すでに根付いてしまった三つの存在。