アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失69 喪失
しばらくは不意に落ち込むことが多かった。自分でも気が付かないうちに得体の知れない不安にのみ込まれ、指先からじわじわと身体が冷えていく。
そのたびにノワが「ウザいわ!」と猫パンチでカツを入れてくるおかげで、深みに嵌まらずに済んでいる。痛みに体温も戻ってくる。
ありがと、と思うたびにノワが毎回律儀に、ふん、と鼻を鳴らすことにまでほっとする始末だ。若干病んでいる。
兄弟がらみで友達と距離を置いたときでもここまで落ち込まなかった。
両親や祖父母のいいところだけを受け継いだうちの兄弟は、端から見るとイケメンらしい。ちなみに私はあまり兄弟とは似ていないので顔面ヒエラルキーの上位には入れなかった。本当に残念だ。
その顔面ヒエラルキー上位兄弟のせいで、兄弟目当てで私と友達になろうと画策する女子が多い中、それとは関係なく仲良くなってくれた子たちがイジメにも似た嫌がらせをされるようになり、自分から離れることを決めた。自分で決めたとはいえ、あの時は本当にキツかった。
以降、広く浅くほどよい距離を保つことで、面倒事から逃れてきた。何かされたら兄弟にチクることも忘れない。うちは兄弟仲がいい。おまけに三人ともそこそこ腹黒い。兄と弟は顔のつくりがいいというだけで面倒事に巻き込まれるらしく、影でこっそり仕返しするときの参謀は、ナチュラルないじめっ子の幼馴染みだった。
ノワは離れていかないのに、あの時よりも落ち込む。それほどノワの存在は私にとって大きいということだ。いつの間にかこんなにも大きくなっていた。
それなのに! 何もわかっていなかったのだ、私というアホは。自己嫌悪どころの話じゃない。
「別に、あなたはあなたの考えで、私は私の考えでやっていけばいいだけでしょ。ときにはお互いの考えに寄り添うこともあるだろうし、寄り添った結果落ち込むのは寄り添った方の勝手でしょ」
「ノワも落ち込むの?」
「当たり前でしょ、私のことなんだと思ってるの」
そっか。だから妖獣と呼ばれた黒歴史があるのか。
ノワの猫パンチが炸裂した。痛い。
「あなたはまだ聖女歴が浅いのよ。目一杯考えて行動したところで失敗することもあるの」
つまり、黒歴史はそうやって作られたのか。
一気に羽ヒョウサイズに膨らんだノワの前足が頭の上にごすんと落ちた。痛いし重い。
「バカにしてる?」
「ごめんって思ってるのは本当」
「それにしては思考がおかしいわね」
頭の中の九割九分九厘は猛烈に反省してるのに、その隅っこでほぼ反射的に考えてしまうことまで怒られるとは。
「本当に反省している人は頭の中十割で反省するわよ」
「そうかなぁ。完全にひとつのことだけを考え続けられる人なんてそうはいないんじゃないかなぁ」
一時的にものすごく集中することはあっても、それが何日も続いたらどこかが壊れてしまいそうだ。
「十割の隅っこでどうでもいいこと考えてると思うなぁ。猛省してるけど説教長くてそろそろ辛いわーとか、軽くお腹空いたなーとか、トイレ行きたいかもーとか、なんか今日暑いなーとか、うわぁノワの黒歴史だーとか」
目を細めたノワの前足が頭の上でぼすぼす動く。ぐわんぐわん痛い。首が肩にごすごすめり込む。
「二人とも遊んでないでそろそろ行くぞ」
シリウスには遊んでいるように見えるのか。披露宴に向かう直前、ドレス姿で正座させられ、頭の上にノワの前足が乗っている妻を見て、助けようとは思わないのか。
「サヤは反省中なんだろう?」
呆れ顔に呆れ声で呆れた仕草をしないでほしい。トリプルコンボだ。
シリウスにぐうの音を喉の奥に押し込まれた私を見下ろすノワは、得意気に鼻をふんと鳴らした。前足退けてください。せっかくエニフさんがセットしてくれた髪が乱れます。
「そこは上手くやってるから大丈夫」
そこは上手くやらなくていいから頭上でたしたしするのをそろそろやめてください。その大きさでのたしたしは暴力です。
「バスケってこんな感じ?」
「ドリブルは生首でやらないから」
この世界にもスポーツはある。実戦的な剣術や体術、陸上競技系は軍で訓練を兼ねて行われる。遊技系は、サッカーみたいに足でボールを蹴る系とラグビーみたいに足では蹴らない系、たぶんほかにも色々あるはずだ。興味が無いから上っ面しか知らない。オリンピックのような世界規模の競技会はないらしい。学校同士で競うことはあるとか。
今日はボウェス国での披露宴だ。
過去に訪れたことのあるボウェスとコルアは最後にされたらしい。次回コルアの披露宴でようやく結婚にまつわるあれこれが終了する。
本当に三年かかった。長かったはずなのに、あっという間だった。
ボウェスでの噴火による被害は飛散してきた火山灰のみで、量も作物に大きな影響を与えるほどではなかった。
晩餐会終了後、特別に設けられた歓談の場でお見舞いの言葉をかけると、翡翠色を持つボウェスの王様たちが一様に顔を曇らせた。
「ボウェス軍の飛行艇の一部が灰を被ったんだ」
ボウェス国はコルア同様、大帝国から攻められる国だ。コルアが陸戦なら、ボウェスは海戦だ。だから、飛行船ではなく飛行艇が配備されている。飛行艇はコックピットの下部がボートの底のような型で、水上にも着陸できる。
灰を被ったのは偵察に出ていた飛行艇と航空母艦だ。火山灰を通常の木や紙を燃やしたときの灰と同じように考えていたらしい。
「あ、違うんだよ。火山灰は確かガラス質なんだよ」
「通常の灰とは違うらしいな。学者たちも同じことを言っていた」
飛散した灰を放置したことで風船部分に塗られている薬剤と化学反応っぽいことがおき、気付いたら腐蝕していたらしい。それはボウェスが保有する飛行艇の半数にも及ぶらしい。
ファルボアに飛んだ連合軍の飛行船は全て事前に私が加護を与えている。連合軍が所有する全ての飛行船が、入れ替わり立ち替わり本部に来ては、加護を受けて帰っていく。時々各基地に慰問したりもした。そんなことを二年も三年も続けていれば、ほぼ全ての飛行船や飛行艇、軍艦に加護を与える結果となる。私だって一応それなりに働いているのだ。
「でも事前にそう言ったよね? 目に入ったら眼球が傷付くから絶対に擦らないでとか、吸い込んだら危険だとか」
「確かに聖女の言葉として、通常の灰とは違うことをボウェスにも事前に注意勧告してある」
あ、もしかしてさっきからわざと声にしている? シリウスの言葉にボウェス王が目に見えてしゅんと小さくなった。
ちゃんと理解できていなかったのか。
噴火や地震が世界規模で滅多に起きないなら、それについての研究は進まないだろうし、どれだけ注意しろと言ったところでピンとこないかもしれない。
私もニュースで聞きかじったり授業でざっと説明されただけだから、火山灰がガラス質ということしか知らない。それがこの世界でも当てはまるのか、それがどんな結果を招くのか、細かいところまではわからない。
だからこそ、不測の事態を想定するよう、事前に注意したはずなのに。
「連合軍ではそれに従って、船体を傷付けないよう注意して手入れしている」
いやいや、加護がかかっているから多少手荒く扱っても傷はつかないはずだ。
あ、ピンときた。
『もしかして、聖女に助けて欲しいって言ってたりする?』
──する。
『もしかして、シリウス怒ってる?』
ボウェス王を見据えていた視線が外れ、シリウスが私にゆっくり顔を向けた。無表情の目の奥に怒りがあった。
『連合軍の飛行船とかの加護はいいけど、各国軍の加護はダメ?』
──連合軍は加盟国同士の紛争の仲裁もする。
つまり、各国の軍より上にいないといけないということか。ノワなら「勝手な言い分ね」とか言いそうだ。姿を隠して私の膝の上で微睡んでいたノワの耳がひくっと動いた。タヌキ寝入りか。
──勝手な言い分だ。
お、開き直った。まあでも、シリウスの言うことも一理あるような気がする。大帝国との戦闘でも最前線に立つのは連合軍だ。攻められる国の軍ではない。一番守らなければならないのは連合軍だと思う。
「自業自得だね」
あえて言葉にする。シリウスの肩に乗るブルグレが同意するように何度も頷いている。
どういうわけか、言葉は通じなくとも何かしら通じるものはあるようで、シリウスが通訳する前にボウェス王はさらに小さく縮こまった。
シリウスの通訳に、ボウェスの第一王子が何か反論している。険しい顔と強い声から、批判的なことを言っているだろうことが伝わってくる。
「ファルボナは支援しているくせにーと、なんとまあ、女々しいことをもっともらしい言葉で誤魔化すのが上手いことか。わし、あーゆー輩、嫌いじゃ」
ブルグレ解説員が、ふん、と豪快に鼻を鳴らした。思わず笑いそうになる。
「そのファルボナの人は、支援なんていらん、自分たちでできるだけのことはするって言うのにね」
「ドヌ族は誇り高い民じゃ」
珍しくブルグレが褒めている。
一番の被災地であるドヌ族は、最低限の支援だけでいいと言う。どうしても手に入らないものだけは分けてくれ、とかき集めたお金を手に族長自らが頭を下げるのだ。だから余計になんとかしたくなる。
『まあ、こういう考えが出てくるだろうとは思ったけど、わりとあからさまだね』
──第一王子が視察に来ていたんだ。サヤがポルクス隊に指図されているのを見て勘違いしたようだ。
あんな最中に視察って……さすがにちょっとどうかと思う。状況を考えろ。聖女だってプロに従うのは当然だ。
まさか、あの場で聖女に面会を求めたりしていないだろうな。
──した。当たり前だが却下した。
うわぁ。何様? あ、王子様か。権力って碌なもんじゃないな。
──自分も同じだと考えているのだろう。いや、それ以上か。
『なにが?』
──存在価値が。
は? それはポルクス隊と比べてということでしょうか。
『いやいやいやいや、私の中では天と地ほどの差がありますが』
──マヌカでのことも理由のひとつになっているようだ。
『あれはお礼でしょ。それともなに、何もしてないのに聖女の力を搾取しようとしてるわけ?』
ノワが代償を必要とする理由がわかった。これは間違いなく一度やらかしたら取り返しがつかなくなる案件だ。シリウスが怒るのも無理はない。
「そういうこと」
膝の上で片目を開けたノワが、くわわ、と小さな牙を剥きながらあくびをひとつして、また目を閉じた。タヌキ寝入りだ。
シリウスを見れば、好きにしろ、とでも言いたげにゆっくり瞬かれた。
シリウスから視線を正面に移し、やっぱり着席を勧めたのは間違いだったか、と自嘲から薄ら笑う。体中が静かな怒りでぴりぴりする。
拉致監禁搾取は私の三大地雷だ。
「あなたたちは何を引き替えにするの?」
力を込めた私の言葉に、シリウスが通訳するまでもなく、ボウェス陣営の顔色が変わった。
できれば親しくなりたかった。そのくらい、彼らの姿は今も私の中に疼く郷愁を強く掻き乱す。うまくいかないものだ。小さく吐き出した憂いをノワが鼻息で吹き飛ばした。
後日、「ボウェス国が聖女を怒らせた!」という噂がまことしやかに囁かれることになる。誰だ、チクったのは。
いつか私も悪女とか魔女とか、そんな風に呼ばれる黒歴史を作ってしまうかもしれない。別にいいやと思う。力を貸すか貸さないかは私が決める。それでいい。そう思えるようになった。
ボウェスから帰ってきた翌日のことだった。
その瞬間、ふと何かを失くした気がした。それなのに、ふわっとあたたかい何かが心に広がった。
よくわからない感覚に戸惑っていると、少ししてファルボナからダファ族長夫人の訃報が伝えらた。
慌てて駆けつけたにもかかわらず、すでに埋葬された後だった。
夜が迎えに来たのだ、と彼らは言った。
眠りの中で逝ったのか、朝目覚めないことを不審に思ったダファ族長がその最後を確認したそうだ。穏やかな顔だった、と聞いた瞬間、ぐっと胸がつまった。
ファルボナでは遺体があっという間に腐敗してしまう。
自然死の場合、族長が死を確認し、その日は家族だけで悼み、翌日の早朝、夜が明けきる前に族長立ち会いのもと埋葬され、訃報はその後に発せられる。
ブルグレネットワークでいち早く知ったにもかかわらず、私たちが駆けつけたのは埋葬直後だった。
ファルボナでは霊樹の枝を口に咥えることはない。単純に霊樹の枝が手に入らないからだ。
ノワにファルボナでも霊樹は育つはずだと聞いていたから、霊樹の枝をメキナの神殿長から分けてもらってきた。
かつてはファルボナでも埋葬には霊樹を咥えさせていた。
荒野の所々に生えている木の中に霊樹もある。ただ、もう花をつけなくなってしまった老木ばかりで、枝をむやみに折ることもできないほど弱っているらしい。
霊樹の枝を見たダファの族長が目を見開いてそれを受け取り、長すぎるほどの時間、感謝の仕草をした。そして彼は、たった一人で掘り起こすと言い出した。
「自分の仕事だ、と言っている。誰の手も借りたくない、と。ここは任せよう」
シリウスに言われ、彼女の夫を残して全員その場から離れ、私たちは族長が豆粒ほど小さく見える場所まで移動した。
ダファ族の墓地はオアシスから少し離れた傾斜の緩い丘の上にある。
昔はファルボナも緑の大地だった。どの部族も数日かけて遺体を霊地に運び、手厚く埋葬していた。緑が失われていくにつれ気温が変化し、霊地まで遺体を運ぶことが困難となり、オアシスを持つ部族はその近くに埋葬するようになったそうだ。
オアシスを持たない遊牧の部族は今でも霊地に埋葬する。死者が出そうなときは、できるだけ霊地の近くでその時を待つのだと聞いて、何ともやりきれない思いがした。
「サヤ、それは違う。最後までみんなと一緒に居られることを喜ぶんだ。傷みは少ない方がいいだろう?」
それを聞いて、目の前の景色が反転するような気がした。
死に向かうために霊地の近くにいるわけじゃない。一刻も早く大地に還りたい、還したい、ただ純粋にそれだけなのか。
その純粋さが、ファルボナの民の誇り高さなのだろう。
自然との共存。この、どこよりも厳しい大地であっても、最終的にはそこに帰結する。
「当たり前のことのはずなのに、すごいことだと思う」
「おそらくどの国の人間より、ファルボナの民は命を大切にしている。だから、強いんだ」
ファルボナは部族内の結束が固い。
きっとファルボナの民には孤独死なんてない。
「それでも、散り散りになってしまうんだね」
「綻びはもうずいぶん前からあったらしい」
思い浮かんだのはザァナ族だ。それほど強い結束だからこそ、ほんの小さな綻びすら許されなかったのかもしれない。見方を変えればルウさん一家のやったことは裏切り行為なのだろう。
「だから、どの部族にも入れないんだ」
それでも、親の罪を子供にまで負わせないのはすごいと思う。親は親、子は子、それがはっきりしている。だから、ルウさんの子供たちはゾル族として暮らしていける。
「あ、ってことは、子供たちの名前も変わるの?」
「成人するときに変えるかどうか本人が決めるそうだ」
それもまたすごい。ザァナ族の名前を引き継ぎながらゾル族として生きることもできるのか。
柔軟でもあり、優しくもあり、そして厳しい。
「ファルボナって大きいね」
それにシリウスが空を見上げ目を眇めた。濃紺の髪が光を受け、内包する赤を透かしている。
姿を隠した巨大ノワがゆったりと旋回しているのが陽炎のようにぼんやり見えた。小さすぎて見えないけれど、きっと近くにはブルグレもいるのだろう。
「ファルボナで見る空は、どこで見る空より広く感じる」
シリウスの祈るような声が聞こえてきた。
この赤茶けた大地が緑に戻る日はくるのだろうか。きたらいいと思う一方で、このままでいいような気もした。
妻との再会を済ませたのか、豆粒ほどの族長が大きく腕を振っている。
霊樹に加護を与えよう──そう思った途端、シリウスが無言の否定を見せた。まさか、それすらも死者への冒涜になるのか。
大地に還す。それはあくまでも自然でなければならないのか。
ただ想うことしかできない。ただ想うことだけが最高の供養なのだ。ああ違う。供養という言葉もここでは意味をなさない。
来世への希望ではなく、死後の安寧でもなく、ただ故人を想い慕ぶ。
いずれファルボナの地にもあの美しい花びらが舞い散るだろう。
彼女から生まれる花はきっとたおやかに美しい。
私におやつを買ってくれた、私を同じ人として見てくれた、私に忠誠を授けてくれた、アニマさんを空に見る。
澄み渡る空があまりに青くて、目に沁みた。