アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり
06 聖女の遺産


 お風呂と聞いて、湯船があるものだと当然のように思い込んでいた私は典型的な日本人です。どうも。

 シャワーブースしかないし。
 最前線のここでは暢気にお風呂に入っているわけにはいかないのかと思いきや、この世界に湯船はないらしい。ウソでしょ、アホじゃないの、と盛大に頭の中で毒突いた。
 あ、そういえば、外国ではそうだったかも。思い出した事実は胸の奥をずくんと沈ませた。

 しかもシャワーじゃなくて蛇口が上についているだけという……打たせ湯かと思ったし。
 道理でこの塔の中、ちょっと汗臭いというか男臭いというか、変な匂いがしていると思ったのだ。やっぱりね、湯船に浸からないと体臭は消えないのだよ、諸君。

 そんな私にとっては最悪なお風呂環境に引き替え、貸してもらった石鹸が超高品質でした。
 全身これひとつで洗うと聞いて、顔を引きつらせてしまったことを全力で謝りたい。髪はさっぱりしているのにしっとりさらさら、肌も同様、顔がつっぱることもない。肩に掛かるほどの長さの髪をCMのようにさらっと風になびかせたり、腕をすうっとなぞってうっとりしたり、そんなアホなことをしてみたくなるほどの感動品質。

 あまりに感動したので、シリウスに脳内で思いっきり思いの丈を語っておいた。
 ちなみにこの石鹸、高級品ではなく汎用品らしい。私に石鹸を渡してくれた女性軍人さんがそのことをいたく気にしていたとか。
 謝りたいと思っても言葉が通じない。
 代わりにシリウスに思いの丈ごと伝えてもらったら、すぐさま部屋に石鹸がごっそり届けられて困惑中。シリウスが脳内で爆笑中。

 降り立つ場所をこの国の首都ではなくわざわざ大帝国の首都から一番近いこの国境の砦に決めたのは、聖女の降臨を大帝国にも知らせるためだ。当然むこう側もこちら側を監視している。
 わざとらしいほどゆっくり旋回しながら降り立つ純白の翼を持つ霊獣は、雲ひとつない青い空にさぞや映えたことだろう。
 それでも、聖女の降臨を大帝国が認めるかどうかはわからない。シリウス曰く、それでいいらしい。人の目につくことが重要なのだとか。

 案内された部屋は確かに質素だった。けれど、飾り気のないシンプルな家具の至る所に花が飾られている。この無骨な砦には花瓶すらなかったのか、大きな瓶や小さな瓶、何かの器に、野に咲くような可憐な花が零れんばかりに活けられ、部屋中が爽やかに甘い花の香りで満たされていた。

 ブルグレがふらふら飛び回り、ひとつひとつ花の香りを吸い込んでは嬉しそうにきゅいきゅい鳴いている。
 ノワは興味がないのか、ベッドの上に飛び乗って、すぐに顔をしかめた。
「なにこの硬さ」
「そんなに?」
 ベッドに腰掛けてみれば確かに硬めのマットだ。とはいえ、床で寝るよりはずっとマシ。ふかふかのキルトみたいな肌掛けだってある。
 ぺらっとシーツをめくってみれば、マットのようなものが三枚も重ねてあった。わざわざ三枚も重ねてくれたのだろう。

 それまでの待遇と違いすぎて、用意された何もかもが嬉しくて仕方がない。

 部屋に届けられた食事も見慣れないものばかりとはいえ豪華に思えた。ただ、残念なことに口に合わない。
 なんというか、以前カレーを食べに本格インド料理のお店に行ったら、それまで食べていたカレーと違いすぎてなんだかよくわからなくなってしまった感じに似ている。
 まずくはない。ただ、口に合わない。国どころか世界が違うのだから当然といえば当然かもしれない。



 翌朝、お礼代わりに怪我をしている人を治癒することにした。羽コンビは部屋でまったりしている。相談したら特に反対されなかったのでいいのだろう。
 シリウスはしきりに「そんなことしなくてもいい」と反対した。それは心配からくるもののようで、貰ってばかりは性に合わない、聖女といえども一文無しなのに部屋や食事を用意してくれる、心地よく過ごせるよう最大限のことをしてもらっている、重傷者はいないからそこまで苦しむこともないはずだ、と精一杯説得した。

 食堂のような場所に案内されると、負傷者たちが集められていた。
 左手に埋まるホラーな血の珠を見て、これでいけるかも、と試しに石鹸を渡してくれた女性を見付け、腕にあった傷に血の珠を押しつけてみれば、たちどころに治った。
 どこまで治せるかと、軽傷者から次々血の珠を押しつけていけば、並んだ全員の怪我があっさり治ってしまった。
 びっくりだ。まじまじと血の珠を見ても、神々しさの欠片もなくどこまでもホラーだとしか思えない。

 しかもだ、軽傷だからなのか、今まではなんだったのかと思うほど一切苦しくない。
 箱檻にいた頃に一度でも手当てをしてもらっていれば、あれほど苦しまずに済んだのかもしれないと思えば、ちりちりした怒りが火の粉のように舞い上がる。

 ふと見れば、足を引きずっている男の人がいた。
 その人の手には小さな瓶と花の束。私に与えられた部屋は三階だ。目につく場所に花を活け、片足を引きづりながらそのまま食堂を出て行こうとした。

『あの人は? どうして並ばなかったの?』
──古傷だからだろう。何年も前に痛めたと聞いている。

 治せるだろうか。
 できなかったらごめん、と先にシリウスに伝えてもらい、その男性と向かい合って腰をおろす。聖女と同じように腰掛けることを頑なに固辞されたものの、立ったままは危険な気がして、不本意ながらシリウスのアドバイスで命令という形をとった。
 ズボンをまくり上げてもらい、膝の少し上のひきつれた皮膚に触れてみる。

 これは苦しかった。できるだけシリウスに伝わらないよう、苦しみから気を逸らす。それなのに、目の前の厳つい顔の男の人の方が遠慮してか足を引こうとした。シリウスにしきりに何かを訴えている。
「大丈夫。このくらいなら耐えられるから」
 言ったところで伝わらないだろう。それでも、あえて言葉にした。
 逃がさないぞ、とばかりに、やんわりとむき出しの太ももを掴むと、目の前の男の人の方が今にも泣き出しそうな顔でシリウスに何かを叫んでいる。
「もしかして痛い? ごめんね、きっとあと少しだから」
 苦しさから喘いでしまう。シリウスが何度も左手を離そうとするのを右手で制止する。
 呻き声が抑えられない。そのたびに目の前の男の人の方が苦しそうな顔をするから、なんとか笑った。きっと不細工。それでもいい。

 ふと、終わったことがわかった。そっと手を離すと、そこには傷痕すら残っていない。
 苦しみはすぐには消えず、しばらく続く。
 荒い呼吸をなんとか抑え込む。できるだけ顔に出さないよう、シリウスに歩いてみるよう伝える。
 厳つい顔の男の人が少しぎこちなくも立ち上がり、足の具合を確かめながらもしっかりとした足取りで歩き回り、何かを堪えるよう歯を食いしばりながら目の前に跪いた。そんなことしなくてもいいのに。

──彼は、跪くこともできなかったんだ。
『そっか、ならよかった』
──大丈夫か?
『大丈夫。慣れてるから』

 何気なく言ったその一言にシリウスの顔が歪んだ。ふと見れば、周りの人たちも心配そうな顔をしていた。
 それが泣きたいくらい嬉しかった。大帝国ではそんな顔をしてくれた人は一人もいなかった。

『ここの人たちはいい人ばっかりだね』
──ここには気の合わないものはいない。いざというときに和を乱すものはたとえ実力があってもここにはいられない。

 それほど重要な場所なのだろう。そして、シリウスが一番信用できる人たちなのだろう。
 だから、最初に降り立ったのがここだった。それほど重要な場所なら、本来部外者なんて立ち入れないはずなのに、それでも連れてきてくれた。

『ここに連れてきてくれてありがとう』

 心配そうな顔に誇らしげな笑みが浮かぶ。
 ちなみにここには十日ほど滞在することになっている。その後首都に向かい、砦のあるこの辺り一帯を治めている王様とご対面だ。

 翌朝から足を引きずっていた男の人も早朝訓練に参加し始めたらしい。元々実力のある人だったらしく、そのうち完全復帰できるだろうとシリウスが教えてくれた。

──治癒されている間中、聖女様は大丈夫なのか? そんなに苦しいなら治さなくてもいい、と言い続けていたんだ。
『優しい人なんだね』
──ああ、だから退役せず砦に留まっている。いざというときは見捨てていいと、みんなを支えている。

 誰一人として見捨てないだろう。そんな結束のようなものを彼らから強く感じる。

『治すときって治される方も痛いの?』
──痛みというよりも、言いようのない気持ち悪さというか、傷口が蠢くような感覚がある。

 考えてみればそうかもしれない。何も感じない方が嘘くさい。

『話しかけて気が散らない?』
──いや。まったく。

 シリウスは訓練中だ。今は砦の周囲を警備を兼ねて走っている。
 私といえば、ノワの背に乗って上空からこの辺り一帯をゆっくり眺めている。無理を言って歩く速度で空を移動してもらっているにもかかわらず、それなりに揺れて怖い。ついさっき、体勢を崩しそうになって思わず翼の付け根を掴んだら、ものすごく低い声で怒られた。

「私ってこれからどうなるの?」
「どうもなんないわよ。好きにすればいいの、聖女なんだから」
 みんなの言う「聖女」という存在の意味がわからない。
「聖女は聖女よ。ほかに説明のしようがないわ。そうね、立場的に言えば一国の王よりも上ってとこかな」
「なにそれ、私最強?」
「その上に私がいるけど」
「なんだよ。がっかりだよ」
「そりゃそうでしょ、私の方がずっとずっとずーっと前からいるんだから。たまにしか降臨しない聖女より立場が下だったら、私の立場ないでしょうが」
「それもそっか。でもブルグレよりも上?」
「そうね、あれよりは上ね」
 先を飛んでいたブルグレがくるっと振り返ったかと思ったら、猛烈な勢いで戻って来た。
「存在に上下をつけるなんぞ、ゲスのやることじゃ!」
「なんか、口調がおっさんを通り越しておじーちゃんになってるけど」
「貫禄じゃ」
 どうしよう、余計なことを考えそうだ。アホの子じゃないよね、ブルグレって。
「アホとはなんじゃ! アホ言うもんがアホなんじゃ!」
「アホじじいね」
 ノワに「ひどいひどい」と文句を言っているアホなおじーちゃん。見た目だけはものすごくかわいいのが本気で勿体ない。かわいいの持ち腐れだ。

 砦から国境壁までは見渡す限りの草原だ。
 ひどいときにはここが血と死体で埋め尽くされると聞いて、平和の中で育った私は戦争なんてなくなればいいのに、と単純に思ってしまう。
 今は比較的平和らしい。
 大帝国に祝福の乙女が現れて以降、小競り合いがなくなっている。ちなみに乙女が現れたのは半年も前だそうで……私は半年もあれに耐えていたらしい。
 今になってみると、どうして大人しく厄災の乙女なんてものをやっていたのか、自分のことながら不思議で仕方がない。

「それだけショックだったのよ」
「なんで助けてくれたの?」
「最初はね、生きる気力のないものはそのまま死なせてあげた方がいいのかなって思ってたの。何も知らないまま、苦しんで死ぬのはどうかと思うけど、本人に生きる気力がないならどうしようもないでしょ?」

 冷たいと思う一方で、その通りだとも思う。
 きっとあんな経験をしなければ、一方的に見捨てるなんてひどいと罵っていたかもしれない。
 生きる気力がないものを生かすのは難しいと思う。あの何もかもが管理されているような箱檻の中にいてすら、徐々に痩せ、体力が失われていったのだから。

「でも、シリウスを助けてからというもの、少しずつ変化していったでしょ?」
「そうかも」
「で、助けるにはぎっくり腰治さないといけないでしょ?」
「そこ? そこに繋がるの?」
「当然。まさか二人も乗せるとは思わなかったから、治しといてよかったわ、ホント」
 羽ヒョウのしみじみとした声になんだか笑いたくなった。
「笑ってもいいわよ」
「助けてくれてありがと。あの箱檻の鍵、開けてくれたのもノワでしょ」
「バレた?」
「なんとなく」

 あの箱檻の周りには監視する人がいなかった。彼らには逃げられないという絶対の自信があったのだろう。そんな檻の鍵が簡単に開くとは思えない。

「でも、壊しちゃったけど」
「別にいいんじゃないの?」
 罪悪感が滲む声に、律儀だなと思ってしまう。私なら鍵どころかあの箱をぺしゃんこのけっちょんけっちょんにしてやりたい。
「過激ね」
「だってあれ、たぶんあんな事に使うためのものじゃないよね」
 急に振り向くから驚いてしまう。うっかり落ちそうになったじゃないか。
 ノワ曰く、ノワが落とそうと思わない限り絶対に落ちないらしい。それでも怖いものは怖い。
「よくわかったわね」
「んー、なんか、あの箱檻だけは未来の物っぽいから」
 ここに来るまでに見た景色は、元の世界でいう十九世紀末から二十世紀初頭くらいだと思う。
 一見自動車のようにも見える箱のような乗り物が移動していた。建物や洋服のデザインや材質は似たようなものもあれば、当然見慣れないものもある。
 全体的な雰囲気は、自分が知るものより少し古いような、日本でいうなら昭和より前、明治とか大正とか、そのくらいの時代に近いような気がする。
 その中で、あの箱檻の仕組みだけが異様な気がした。まるで魔法のようだ。
「あれは聖女の遺産ね。当時の聖女を守るためのものだったのよ」
 ノワの声に、今度は悲しみのようなものが滲んでいた。