アンダーカバー / Undercover
第三章 因縁
40 壊す


 ファルボナ到着!

 夜明け前にボウェスを発った飛行船は、昼を迎え、夕を越えてもなお飛行し続け、翌日の朝日とともにようやくファルボナに到着した。

 照りつける鬱陶しいほどの日射し。見渡す限り土塊しか見えない荒野。渇き腐った風に舞う土埃。そして、相変わらずの糞尿と獣臭。臭い。鼻がもげる。

 それでもここが、この野生が、生々しさが──。
「ファルボナだー!」
 思いっきり腕を伸ばし、これでもかと深呼吸して……むせた。匂いにむせるってどうなの。くっさー。

 族長会議に参加している族長たちのテント群の傍らには、小さな小山がそこかしこにできていた。是非にでも視界から排除したい。できれば匂いこそ排除したい。

「鼻がマヒるまでの数時間が苦痛」
「今回サヤは飛行船での宿泊になるから、鼻は麻痺しないかもな」
 シャワー、トイレ完備の飛行船での宿泊。嬉しいけれど、ここで鼻がマヒらないのはかなりキツイ。いつもはポーカーフェイスのエニフさんまでもがどことなく嫌そうな顔をしている。
 颯爽と飛行船から降り立ったものの、あまりの臭さにすごすご舞い戻ってしまった。鼻がマヒるまでしばしここで待とう。
「俺だけ臭くなるなぁ」
「シリウスが臭くなるなら私も臭くなるよ」
 なんの宣言だ。鼻がマヒる前に頭がマヒったか。

 ファルボナはあらゆるものがむき出しだからか、自分の中にある無自覚の領域までもがむき出されていくようだ。それを不安に感じてもおかしくないはずなのに、ここではむしろ爽快にも思えるのだから、ファルボナは不思議な場所だと思う。

「毎日シャワー浴びるの我慢するから、その分シリウスも一緒のタイミングでシャワー浴びようよ」
「あなたね、一応今回は聖女として来てるんだから、聖女が臭いってのはどうなのよ。そのための飛行船でしょうが」
 ノワめ。みんながみんな臭いなら、聖女だけが清々しくしているのもおかしいだろう。みんなで臭くなれば聖女が臭いかなんてわからないのだよ。わはは。
「聖女が臭いのはダメだな」
 シリウスまで……。胸張って頭の中で高笑った私の立場は……。無駄に上がっていた気分が一気に打ち落とされた。

 遠巻きに飛行船を眺めている人々の中にファルネラさんを見付けた。
 思わず窓越しに小さく手を振ったら、きょとんとした後、思いっきり驚いた顔に変わった。そうか、前に会ったときとは色が違うことをすっかり忘れていた。

 わかりやすく話したそうな顔をしているファルネラさんをこっそりデネボラさんが連れてきてくれた。
 ついでにデネボラさんはエニフさんと一緒に休憩だ。

 飛行船の前の座席で二人並んで座っているのを見ると、なるほど恋人同士だなという雰囲気が──まるでない。仕事中だからか、二人ともポーカーフェイスのままだ。プロってすごい。少しくらいイチャついてもいいのに。
 まさか、あれがここでの恋人同士の正しいあり方なのか。通路挟んで座るって……。
「そのまさかね」
 キスをしろとも、抱きつけとも、手を繋げとも言わないから、せめてもう少し寄り添ってはいかがなものか。
「だから破廉恥って言われるのよ、あんたは」
 呆れたノワの声など気にせず、もう少し近付いてはどうだろう、お二人さん。

 恋人たちに余計な雑念を必死に送る私の傍らでは、シリウスがファルネラさんに見た目の違いを説明している。飛行船内を興味深げに眺めながら、目の前に座るファルネラさんが腑に落ちた顔になった。
 へらっと笑いかけたら、にこっと笑い返してくれる。このファルネラさんの距離感にほっとする。聖女という立場で目の前にいても、今までと変わらず接してくれる。

「今回ボナルウさんは?」
「連れて来なかったそうだ。ザァナ族も来るんだ、落ち着くまでは顔を合わさない方がいいだろう」
「帰りにファルネラさんの宿に寄ることできるかな」
「そうだな、ネラ、一泊してもいいか?」
 ファルネラさんが快諾してくれた。このひと月の間にシリウスがファルネラさんの宿に色んなものをサンプルとして送り付けていたらしく、ファルネラさんが楽しそうに使い心地などを報告している。
 ボナルウさん一家も元気らしい。一緒にザァナ族から離れたみんなも、なんとか暮らしている。

 既に族長会議は始まっている。ファルネラさんのお父さんが見当たらないのはそのせいらしい。
 族長と次期族長が揃って霊地に集まる今、ファルボナでは部族間の不可侵が約束されている。けれど、ファルボナの民以外にそれが通用するはずもなく、バザールにはポルクス隊とブルグレたちが潜伏し、不穏の芽を片っ端から潰しているらしい。

「ファルボナの民に力を持つものはいるか?」
 突然切り出したシリウスの言葉は、ファルネラさんから笑顔を奪った。どう答えたのかがわからないくらいその表情は硬く、それがとても重要なことだと気付いた。
「アトラスがもらい受けたのは聖女だけじゃないわね」
「どういうこと?」
「故意か偶然か、ファルボナから力を奪ったのよ」
 ノワの声には、怒りが込められていた。それは誰かに対するものではなく、おそらく自分に対して。
 ノワが知っていれば阻止できたのだろうか。そもそも、阻止すべきことだったのか。
 わかっているのは、推測と事実。ノワの言葉は推測。シリウスの質問に答えたファルネラさんの言葉が事実。

「ねえノワ、聖女の力ってどんだけのもんなの?」
「さあ。私も自分の力の限界なんて知らないから」
 未だ手探りで力を使っている私は、聖女の力がどんなものなのかも、どれほどのものなのかも知らない。
「前の聖女ってさ、現れてから六十年後に姿を消して、それから二百年くらい経ってるんだよね」
「そう聞いてるけど」
 六十年、と聞いて思い浮かべるのは何か。ぞっとしてしまうのは考えすぎか。私なら──。

「サヤ!」



 あれ、いま私、何を考えて──。



 どうしてシリウスにしがみついているのか、どうして震えているのか、どうしてこんなにも苦しいのか──。
「大丈夫だ。サヤ、大丈夫」
 背中に触れる手のひら、抱きしめられる腕の中、満たされる安らかな香り、包み込まれる体温。



 私も──取り戻そうとするかもしれない。



 そう思い浮かんだ瞬間、ノワの猫パンチが後頭部に炸裂した。
「壊すわよ」
 ドスの利いたノワの声なんて初めて聞いた。たったひと声で全身全霊が畏れて凍えた。
「サヤ、あなたにそんなことさせないわ」
 そんなこと? 意味がわからず、ついジェスチャーのごとく首を傾げたら、剣呑だったノワの目がまん丸に変わった。
「なにあんた、今自分で考えてたこと覚えてないの?」
「考えてたこと? あれ、何考えてたっけ? ノワの猫パンチで吹っ飛んだじゃん!」

 何かすごく大切なことを考えていたような気がする。大切? 重大? なんだろう、すごく重い、なにか。

「サヤ、無理に思い出さなくていい」
「なんで?」
「あなたの思考でひとつの仮説が生まれたのよ」
 意味不明。説明してくれる気は……なさそうだ。心配そうなシリウスと既に思考に沈みかけているノワ、わけがわからないながらも静観しているファルネラさん。
 どうしてか一人できちんと座っていなければならないような気がして、シリウスからそっと離れる。

 入り口に座るデネボラさんとエニフさんは、人払いのためにそこで待機していたと、今更ながら気付いた。

「すまんゾルネラ、巻き込んだ」
 真っ直ぐにファルネラさんを見つめるシリウスに、ファルネラさんが真顔で何かを答えた。
 意味がわからないのは私だけだ。ブルグレ解説員の不在が悔やまれる。さっき伝わってきたシリウスからの「あとで説明する」を待つしかない。ノワは自分の思考にとっぷり沈んでいるのか目を瞑ったままだ。

 自分のことなのに、間違いなく今起こった事象の中心に自分がいるはずなのに、きれいさっぱり蚊帳の外だ。
 すうっと目眩のように自分だけがこの場から遠退いていく。迷子みたいな疎外感に心細くなる。

 するっと絡みついてきた指先に縮こまった心が解れていった。
 こうやって不安を感じさせてくれないシリウスは、さすがだと思う反面、悔しくもある。



「さて、ここで問題です。『あとで』とは、一体どのくらいの時間のことをいうのでしょーか」
 族長会議が寝ずに行われるなんて聞いてないし。
 族長のみで行われていた会議に、次期族長が加わると同時に、連合国総長としてシリウスも加わった。
 待てど暮らせど会議が行われているテントから戻ってこない。
「おかげで私も眠れなーい」
 自分があの時何を考えたのか。それがとても重要なことだったのはわかっているのに、どれほど考えても思い出せない。
 ノワが「壊す」とまで言った。そこまでのことを私は考えた。そして、それを覚えていない。気になるどころの話じゃない。

 飛行船の後部、組み替えられたソファーがベッドに、会議用の机が衝立に早変わりして空間を仕切っている。前方にはエニフさんたちが控え、寝ずの番で私を守っている。守られる価値のないことを考えてしまったかもしれない私のことを。

「自分のことなのになー」
「あんたさっきからうるさいわよ。かまってちゃんもいい加減にして」
 ノワが構ってくれない。膨大な言葉の中から「かまってちゃん」を見付けるなんてすごいのか、すごくないのか。知識の源である私は「かまってちゃん」なんてどこで使った言葉かも、覚えたかも、もう忘れているのに。
「ノワってさ、アトラスが消えたときどこにいたの?」
「あそこ」
 ノワの住処か。確かにあそこにいたら、大地震が起きようが、大噴火が起きようが、気付かないかもしれない。あそこはきっとそんな場所だ。

 暗闇の中、足元で丸まりながら思考の海を漂っていたノワが、その重さを感じさせないまま肩口まで移動してきた。腕を少し広げると、そこに伏せて収まり、肩に顎を乗せてくる。

「全く気付かなかったのよね。興味もなかったし。あそこって、んー……なんて説明すればいいのかしら、少し特殊な空間なのよ」
「そんな感じだよね。時間が流れてないってのとも違うんだろうけど、なんだろう、蜂蜜みたいに時間がとろみがかってるっていうか」
「そうね、そんな感じ。時の流れが一定じゃないかもしれないわね。とろーんとしてたり、さらーっとしてたり」
「ノワもわからないの?」
「私が作ったわけじゃないから。あの場所もこの世界も」
 なんだかその言い方だと、時間も世界も誰かが創ったみたいだ。創造主は実在するのだろうか。
「さあ。霊獣がいるんだから、いるのかもね」
「聖女もいるしね。少なくとも世界は複数在るって知ってしまったし」
 一生知らなくてもいいことだ。シリウスだって、私と関わらなければ知らなかっただろう。巻き込んだのは、ファルネラさんより先にシリウスだ。
「シリウスはそんなこと考えてないわよ」
「知ってる。むしろ私を巻き込んだって思ってるんでしょ」
「よくわかったわね」
 シリウスはそういう人だ。
 どう考えたって、聖女として存在している私に巻き込まれているのはシリウスの方なのに、私を聖女として見ていないから、自分の事情に巻き込んだって考えている。
 だから、ずっとそばにいたい。
「私が考えたことって、そんなに物騒なことだった?」
「そうね、咄嗟に壊そうと思うくらいには物騒だったわ」
「ノワ」
 そう言っただけで、ノワはわかってくれたのか、頬におでこをすり寄せてきた。
「嫌なこと頼んでごめんね」
「でも私、いざとなったらどっち取るか、わからないわよ」
「どっちって? 何と何?」
「内緒」
「もし私とシリウスなら、シリウスを取ってほしい。あ、違う。二人とも取らなくていい。あ、でもそれだとノワも嫌か。いっそみんな取らなければいい」
 シリウスがいなくなっても嫌だし、シリウスもきっと私がいなくなったら嫌だと思ってくれると思う。どっちかが残るくらいなら、どっちも残らなくていい。それだとノワが残されることになるから、いっそのことノワも一緒にいなくなればいい。ブルグレも引き連れて。
 きっと私たちは、誰がいなくなっても、誰が残っても、ダメなんだと思う。

 残されるのだけは絶対に嫌だ。

「結局さ、いざって時は自分たち以外のことなんてどうでもよくなるよね」
「そうね。きっと私もそうすると思うわ」
 腕の中のノワが、もぞっと少しだけ身じろいだ。
「腕枕って、する方も安心するんだね」
 ノワが腕の中にいる。それだけでなんだかほっとする。私を抱えて眠るシリウスもこんな気持ちなのだろうか。
「される方も安心するわよ」
 うん。安心する。だから早くシリウスに戻ってきてほしい。
「甘えすぎてるかな?」
「甘えてあげなさいよ」
「ってかさ、いつまで話し合うんだろうね」
「最長は七日らしいわよ」
 バカじゃなかろうか。寝ずの七日間なんて、完全に後半は意識が朦朧としていて、いい結論が出るわけない。
「なんで揉めてるの?」
「オアシスを持たない部族が反対してるわね」
 前にボナルウさんが言っていたことを思い出した。公平が公平じゃないということ。
「難しいね」
「誰だっていざとなれば自分たちのことしか考えられないでしょ」
 そこに繋がるか。
「まあでも、独立自体は決まっているみたいね。今は連合国からの支援をどうするかで揉めているみたい」
 なんだ。独立はするのか。だったらあとはシリウス抜きでも話は進むはずだ。
 ほらね、聞こえないはずの足音が聞こえる。シリウスたち諜報員は普段から足音を立てずに歩く。それでも、私には聞こえる。当然ノワにも。
「愛ね」
「だよね」
 月明かりの中、ノワと一緒に、にひっ、と笑った。