アンダーカバー / Undercover
第三章 因縁38 ボウェス国
中型飛行船での移動は快適な分、今までよりも時間がかかる。ノワの背に乗り、ひと足お先に、とはいかなかった。
今思えば、それまでの私の世界は大海に浮かぶ洗面器くらい狭かった。
最寄り駅沿線から外れることは滅多になく、日本からも出たことはない。小学校の修学旅行は日光だった。中学では京都と奈良、高校は北海道のはずだった。家族旅行はいつも箱根か下田。
私の世界は主に自宅と学校周辺、ときどき温泉、一度きりの日光、京都、奈良で終わっている。
ここに来て世界が広がった。
Ω型大陸の内側の海は内海、外側は外海と呼ばれている。内海は比較的穏やかだ。それに比べ、外海は荒れがち。地形的にも大陸の内側は比較的平野、外側は山脈が連なっており、大陸全体が盆地のような形状だ。
メキナからファルボナまで、直線距離では山脈を越え外海を渡る方が近い。が、山脈も外海も天候が荒れやすく危険が伴う。次に内海を直線で横断するのが早いものの、内海のど真ん中にはノワの住処があり、その辺りは妖域と呼ばれ、海空ともに航路から大きく外される。無謀なチャレンジャーは誰一人として帰らないままだ。
結局、大陸沿いにぐるっと迂回することになる。
「途中、ボウェスに立ち寄り、そこから一気にファルボナに飛ぶ」
ボウェスは連合国最南端の国だ。そこの海軍基地でもう一機中型の飛行船が用意される。これにはファルボナ滞在に必要なテントや物資が積み込まれるらしい。
族長会議はファルボナの中心に存在する霊地で行われる。いわゆる聖地のような場所で、かつて霊獣が降り立った場所なのだとか。
「ノワのことだよね」
「私のことみたいね」
ノワの声と態度は、まさに黒歴史を掘り起こすなと言わんばかりで、おそらく過去にやらかした名残なのだろう。図星だったのか、膝の上できゅっと丸まっていたノワが久しぶりに、しゃーっ、と牙を剥いた。
ファルボナは霊獣信仰だ。ゆえにノワが霊獣であることはトップシークレットである。とはいえ、ファルネラさんたちは薄々勘付いているような気がする。
「気付いてないわよ」
「そうなの? でもだったらどうやってゾル族のオアシスからダファ族のオアシスまで移動したと思ってるんだろう」
「聖女は空も飛べるのか! って思ってたわね」
嫌な誤解だ。聖女は空を飛べない。精霊も使役できない。ガバと会話もできない。
「がんばれば飛べるんじゃない?」
「それ、がんばっても飛べないってわかってて言ってるよね」
ノワが楽しそうだ。
このところのノワは何かをうだうだ考え込んでいた。あまりにうだうだしすぎたせいか、ついに一昨日の昼過ぎにいきなり遠吠えをかまし、波動となった力が連合本部を震撼させた。
「悪かったってば」
「一日違っていたらファルボナ行き延期だったって」
「悪かったわよ。ついね、あそこにいる気になって」
あそこ、とはノワの住処のことだろう。あの、ノワしか受け入れない隠れ処みたいな場所。
この飛行船は中型なのに大型飛行船と同じくらいコックピットが広い。内装は段違いにゴージャスだ。
前方は左右に二列ずつ座席が並び、真ん中には小さいながらも会議ができるようなテーブルと椅子が設置され、後方にはソファーがU字型に並んでいる。おまけに狭いながらもシャワーブースとトイレまである。
いわゆるリムジン飛行船だ。
夜明けとともにメキナから飛び立ち、日暮れにボウェスに到着した。
茜色の空に椰子の木に似たシルエットが浮かぶ。ちょうど幹の真ん中あたりで先が三つ叉に分かれているのが面白い木だ。
到着の挨拶もそこそこに案内されたのは、王城の一画にある離れのような建物だ。ポルクス隊長の居住区に似ている。
どうやら私の頭には「豪華な建物」=「ポルクス隊長の居住区」とインプットされているらしい。建物の造りはまるで違うのにそこに漂う雰囲気はよく似ていて、セレブ空間は総じて「ポルクス隊長の居住区」というざっくりした感想になってしまう。つまり、庶民が気後れする空間だ。
シリウスの同伴者として来ているはずなのに、私の扱いはどこまでも「聖女」だった。
王様との面会を望まれ、シリウスと一緒に夕食に招かれた。
正直そのためだけにいちいちドレスに着替えるのが面倒くさい。エニフさんに手伝ってもらい、わざわざ持ってきたドレスに着替える。ちなみに万が一を考えてドレスは五着も持ってきている。本当なら最低でもその三倍は持ち歩くのが貴婦人らしい。庶民なので遠慮した。
髪が結い上げられる。ドレスのチョイスも髪もメイクも、全てエニフさんにお任せだ。
通っていた高校はメイクNGだったので、眉を整えてまつげをカールさせ、フェイスパウダーとリップが精一杯だった。このところすっかりノーメイクだったせいか、きっちりしっかりメイクされた自分の顔に違和感がある。自分であって自分ではない、仮面を付けたかのような気持ちになる。
ちなみに、メイク道具は似たようなもので、ファンデーションは下地いらずのクリームタイプ、アイシャドウや口紅、チークもクリーム状で、全体的にマットな仕上がりだ。マスカラやグロスはない。テカったら終わり、とばかりに柔らかな薄手の布で頻繁にテカリを抑えられる。
ひそやかに耳に咲き続けていたジェームが久しぶりに光を受けた。
用意されていた部屋に迎えに来てくれたシリウスが、耳の縁を指先でなぞり、青の石を弾くように揺らした。
「ずっと付けてるな」
「当たり前。知ってるでしょ」
軍服をかっちり着込んだシリウスが嬉しそうに笑う。それを見て私も嬉しくなった。
あまりに耳に馴染みすぎてその存在を忘れがちだ。それでも、変わらず私の耳にはジェームの花が咲いている。
「サヤはいつも触ってる」
「そうなの?」
ふとした瞬間、それを確かめるように指先が耳にいくらしい。無意識の行動だからなのか、私の記憶には残らず、それを目にしたシリウスの記憶には残る。
きっとシリウスの中には私も知らない私が存在している。私の中にも、彼も知らないシリウスが存在しているのかもしれない。
居並ぶボウェスの人たちを目にした瞬間、激しく動揺した。その姿に狂おしいほどの懐かしさを覚える。鳩尾の辺りがきゅうっとどこかに吸い込まれていくようで、縮こまろうとする背を必死に伸ばした。
強いて言うなら、シリウスやデネボラさんは北欧系、コルアやメキナはスラヴ系、ファルボナはアラブ系、大帝国はラテン系、そして、ボウェスはアジア系だ。どちらかといえば東南アジア寄りで日本人より少し濃いめの顔立ちだけれど、体格や雰囲気は見慣れたものに近い。
紹介されたボウェスの王子たちをつい凝視してしまう。着ているものもなんとなくオリエンタルなデザインで、仕草もどことなく同年代ゆえの親近感がある。
目に馴染む顔立ち、目に馴染む体つき、目に馴染む雰囲気。彼らの持つエメラルドグリーンを翡翠色と言いたくなるくらい、その存在は見慣れたものに酷似していた。
耳の奥に教室のざわめきが蘇る。
朝の気怠さ、昼の賑わい、午後の微睡み、放課後の静けさ。
おざなりに取り繕われた毎日がただひたすら繰り返されるだけだと信じていた空間。
──サヤ。
反射的に、大丈夫、と小さく返した。
口角をぎゅっと引き上げ、このところずっと練習していた聖女らしい笑みを作る。
──彼らと話してみるか?
『いい。彼ら個人に興味があるわけじゃないから』
そう、彼ら個人に興味はない。そこを間違えそうになる。大切なものを、間違えそうになる。
──部屋に戻るか?
『大丈夫。最後までがんばる』
すぐ隣にいるのに、シリウスが遠い。
晩餐会での席は一人一人余裕をもって席が用意されるせいか、私一人が手を伸ばしたところでシリウスには届かない。
不意に衣擦れが聞こえた。と思ったら、すぐそばにシリウスが跪いていた。食事中に席を立つのはここでもマナー違反だ。わかっているのに手を伸ばす。触れた指先が絡め取られ、それだけで波立った心が凪いでいく。
大切なものを間違えたくない。
忘れられないものと忘れたくないものは違う。
「よかったのかな」
よくないことはわかっている。結局、途中で退席してしまった。
シリウスに手を引かれ、エニフさんを従え、どことなく東洋的な木造建築のお城の長廊下をポルクス隊に囲まれ連なり歩く。私の退席と同時に宴は終わった。あとでみんなには夜食が届けられるらしい。二度手間で申し訳ない。
「出席したことを喜んでいたから大丈夫だろう。通常高貴な女性は移動から最低でも丸一日は休息する。長ければ三日は部屋から出てこない。それなのに聖女はその日のうちに会ってくれたと、えらく感動していた」
よかったのかよくなかったのか難しいところだ。「聖女はこうだったのに」を免罪符にされたくない。
「抜かりない。明朝には出立だから、今回は特別だと伝えてある。むしろサヤはよくそれに気付くな」
「んー、なんかね、そういう経験があるっていうか……」
あの自称祝福の乙女は何かと気が利く子で、何が切っ掛けだったか、とある男子が別の女子に「彼女ならこうしてくれるのに」と同じことを強要しようとする場面に遭遇したことがある。
「あー、それは男が悪いな」
「そうなんだけどね……」
悪いのは、見て見ぬ振りをした私も同じだ。そういうところが嫌われたのだろう。
後になって男子に文句を言われた子がドヤ顔を悪く言っていることを知っても、何もしなかった。
誰もが腹に一物抱えながら、教室という、期間限定にもかかわらず永遠にも感じられる檻に閉じ込められていた。とにかく目立ちたくなかった。矢面に立ちたくなかった。当事者になりたくなかった。
女同士のいざこざに巻き込まれるのは二度とごめんだった。
「学校なんてどこも同じだろう」
「シリウスが行ってた学校も?」
「男ばかりだからな、かなり陰湿な嫌がらせもあった」
それはコルアの第一王子以上の意地悪だろうか。あの陰湿な目は嫌でも忘れられない。できれば忘れたい。
女の方が陰湿だと言う人もいるけれど、うちの兄弟の話を聞く限り、男もそれなりに陰湿らしい。
聖女ってなんだろう。聖なる女というくらいだ、清い心を持つ人がなればいいのに、実際ここにいるのは保身第一の嫌な女だ。聖女と厄災の乙女、私にはどっちがふさわしいかといえば、後者なんじゃないかと思ってしまう。
「聖女にふさわしいと思っている女もどうかと思うぞ」
確かに。それはあれだ、ドヤ顔に任そう。
「ねえ、どうしてみんな私が聖女ってわかるの?」
ごく普通のただ若いだけの女を見て、なぜ誰もが聖女だと崇め傅くのがわからない。偽物かもしれないのに。
「あー……」
シリウスの気まずそうな顔に嫌な予感。
「聖女の力がな、力あるものには光って見える」
「つまり……」
「サヤは常に薄らと光を纏っている」
聖女オーラ……。嫌すぎる。道理で誰も聖女だということを疑わないはずだ。あれか、精霊が光って見えるのと同じか。
「じゃあノワは?」
「ノワは力を抑えているだろう? サヤも色を誤魔化しているときは発光していなかった」
発光って……蛍か。
聖女として行動していないときは色を誤魔化そう。同じ黒でも焦げ茶とか。自分が光って見えるなんてどんな罰ゲームだ。
眠れない。
「シリウス呼べば?」
「なんか自分でもびっくりする」
久しぶりにシリウスと別々の部屋で寝ることになった。ものすごく疲れているのに、眠くて眠くて仕方がないのに、眠れないとはこれいかに。
「ノワさ、羽ヒョウサイズになって添い寝してよ」
「嫌よ。あなた抱きついてくるじゃない」
「いいじゃんちょっとくらい」
「あんたはよくても私は嫌よ」
けちだ。
「あなたが眠れないの、シリウスがそばにいないからだけじゃないでしょ」
「ノワが鋭くて嫌になる」
鋭いも何も、思考を読まれているのだからどうしようもない。
「誰に似てたの? 思い出したのどういう人?」
ノワの興味津々な声にため息が出る。
ボウェスの第一王子が、ちょっといいなと思っていたクラスの男子に似ていた。ちょっといいなと思っていただけで、だからどうしたという程度の感情だった。それでも、毎日がほんの少し楽しくなる要素にはなっていた。
「なるほどね、だからシリウスは来ないのね」
「え、なんで?」
「そりゃそうでしょ。ほかの男のこと考えている女なんて嫌でしょ。私でさえわかるわよ、それくらい」
ほかの男って……。シリウスに対する感情は「ちょっといいな」どころじゃない、別物だ。多少ほかより盛った好意である「ちょっといいな」とは質も量も重さもまるっきり違う。
「もし、元の世界でシリウスと出会っていたら惹かれた?」
どうだろう。単純に外国人だと思うだけかもしれない。年上というだけでも踏み込まなかったかもしれない。がたいがいいだけに怖がって遠巻きにしたかもしれない。
ああ、それでもきっと、あの手を差し出されたら掴んでしまう。
「ねえノワ、私のこれって刷り込みなのかな」
「さあ。感情が動く切っ掛けなんてわりと単純なんじゃないの?」
「ノワも好きな人いる?」
「いない。そういう感情が動いたこともないわね」
ノワの気持ちはそういうところを越えた場所にあるような気がする。男とか女とかじゃなく、存在そのものを大切に思っているような──……。私も大切にされている。
だから、ノワは霊獣なのか。
霊獣なんて人が勝手に決めたカテゴリなのに、ノワにはそれがよく似合う。崇められるのもわかる気がする。
「崇めてもいいわよ」
「遠慮しとく」
むひっと牙を剥き笑うノワ。崇めたりはしないけれど、尊敬はしている。ノワがいてくれてよかった。
と、眠れない理由がわかったところで、眠れるかというと眠れるわけもなく、おでこに猫パンチをお見舞いされた。もう少し優しくしてほしい。