アンダーカバー / Undercover
第三章 因縁
35 メキナ国


 にっこにっこにっこにっこ……。
 久しぶりの執務室。大きなテーブルの向こうには、ポルクス隊長のいい笑顔。もとい、胡散臭い笑顔。
 ポルクス隊長の笑顔が以前にも増して胡散臭い。少し前まではここまで胡散臭いとは思わなかったのに。
 元々たいして純粋でもなかったくせに、残り僅かな純粋までもが乾涸らびてしまったようで、そんな風にしか思えなくなった自分に少し落ち込む。

 砦に帰ってきた途端、灼熱のファルボナと極寒の砦との気温差に熱を出し、ノワに思いっきりバカにされ、シリウスにちょっぴり甘やかされた。
 で、復活した直後にこの胡散臭い笑み。精神がごりごり削られる。

 こういった得体の知れなさを目の前にすると、自分を守ろうと身構えてしまう。身体の周りに薄い膜のような見えない殻を作って、相手と距離を取りたくなる。怖いから、信用できないから、一歩か二歩後ろに下がって、相手の全身を視界に入れて警戒したくなる。
 そんな感覚を初めてはっきり自覚して、逆にファルボナではそうじゃなかったのか、と気付いたりもする。パーソナルスペースが広めな自覚はあったけれど、ここまではっきり認識したのは初めてだ。

『今すぐ無人島で暮らしたい』
──俺もだ。

 笑顔のポルクス隊長に隠すことなく嫌悪を向ける。当然のごとく、これっぽっちも動じやしない。私に駆け引きは無理だと知らしめるかのようなポルクス隊長の笑みには悔しいほどの余裕が見える。

 連合本部で私たちの結婚式、名付けて「聖婚祭」という全世界的見世物が開催されることになったと、事前にシリウスから聞かされてはいた。

『そもそもなんでそんな一大イベントになったわけ?』
──聖女と連合国総長の結婚だから。うちの主導でやりたいらしい。
『聖女やめたい』
──俺もやめたい。

 ちらっと隣を見上げれば、久しぶりの無表情と軍服。そして、彼そのものでもある濃紺。ああ、軍人のシリウスだな、と小さなときめきに心が浮き立つ。
 シリウスの目がほんの少しだけ柔らかくなった。対して、ポルクス隊長の笑みが嫌な感じに深まった。それが目に入った途端、ときめきがげんなりに塗り変わる。

「連合本部前の大通りを低空飛行艇でのパレード、キメナ王城での各国関係者を招いての披露宴、中空飛行船での主要国巡りと披露宴、大きなものはその三つ」
 事務的なシリウスの声が執務室に低く響く。
「細かいことは?」
「数え切れないほど。準備に丸一年、消化にほぼ三年を要す」
「お断りします」
 きっぱりはっきりポルクス隊長の目を睨み付けながら宣言する。
 シリウスが私の言葉を伝えると、笑顔のポルクス隊長が何かを答えた。シリウスが心底嫌そうな顔で通訳してくれる。
「これをやらないならファルボナの独立話にポルクス隊は一切協力しない、だそうだ」
「最低! なんて汚い大人なんだ!」
 思わず立ち上がって叫んだ。

 ファルボナの独立は水面下で進められる。それにはポルクス隊の協力が不可欠だ。特に諜報部隊。羽リスたちと一緒になって動いてもらうことになっている。
 総長のシリウスが命令すればそうは言っていても動かざるを得なくなる。ただ、ポルクス隊長の腹の内でポルクス隊の動きが変わってくる。
 ファルボナの独立は、連合国にとって大した利にはならない。むしろリスクを背負い込むことになりかねない。

「だがな、披露宴に呼ぶことでファルボナの独立が周知されるという一面もあるんだ。聖女と懇意だということも知れ渡れば、それだけ彼らの利にもなる」
「仲良しなのはファルネラさんとボナルウさんたちだけだよ。そもそもリスクだってあるでしょ」
「それはそうだが、それを上手く回避させるのが俺たちの仕事になるわけだ」
 くそぅ。したり顔のポルクス隊長の芝生みたいな青緑の毛を根っこから毟りたい。荒野にしてやりたい。



 年が明けると同時に、私たちは連合本部のあるメキナ国に居を移した。
 メキナはΩ型大陸の三時の位置にある、コルアよりもずっと華やかな国だ。王都は芸術都市と云われているらしく、そこかしこに美術館や劇場がある。メキナの女性にはミディアムやショートヘアがそれなりにいて、ここが流行の最先端らしい。フランスやイタリアに似ているのかもしれない。そこかしこにカフェがあるのもそれっぽい。

 いつの間にか用意されていたシリウス名義の家は、コルアにあるポルクス隊長の居住区並み、いや、それ以上に豪華なお屋敷だった。
「これってまさか宮殿?」
「どうやら由緒ある建物らしい。管理費がかかりすぎてメキナが持て余していたのを本部が買い取った。今大急ぎで改装工事に入っている。ああ、風呂を用意するよう要請しておいた」
「要請って……なんとなくあらゆることが勝手に進んでいる気がするのは気のせい?」
「隊長が張り切っててなぁ……」
「ノワの大きなベッドは?」
「それも頼んである」

 まだ工事中で中は見られませんが、と案内された新居が宮殿。その宮殿を取り囲む広大な庭はどこからどう見ても休日お散歩する人がいそうな西洋風の絵画に描かれるような庭園だ。立派な噴水があり、小川も流れている。開いた口が塞がらない。

「砦のあの部屋二つ繋げてくれるだけで十分だったのに」
 砦の離れは、私の部屋とシリウスの部屋の間の壁の一部が取り壊され、二部屋がひとつに繋がった。
 最終的に、あの二階は私たちの好きにしていいとポルクス隊長に言わしめたので、ノワの部屋を作ったり、お風呂をもっと大きくしたり、専用の洗濯機を買ったり、とまあ、色々妄想していた。
 何より、あそこにいる限りご飯は食堂で食べられる。言うことナシだ。

「ここはまあ、観光地にしよう」
「そうだよね、入場料とか取って」
「実際は砦か仮眠室に住めばいい」
 こんなところに住める人の気が知れない。ベルサイユ宮殿かと思ったし。

 少しだけ中が見られますよ、と案内の人に言われ、見せてもらった玄関ホールは舞踏会でも開催されるのかと思うほどの豪華さだった。気後れするなんてレベルじゃない。
 そんなところが「家」だなんて嫌すぎる。こぢんまりとした小さな家でいい。気持ちよく暮らせるほどほどの大きさで十分だ。

 メキナの首都、その中心部にある外壁が金属みたいなものでできた五階建ての近代的な建物が連合本部だ。
 日が暮れると外壁がぼんやり光るという、ライトアップに失敗したようなビルは、メキナの観光名所のひとつだ。
 一階はロビーや打ち合わせ用の小部屋の他に、色んなテナントが集まったフードコートみたいな大きな食堂や売店がある。日中は外部の人も利用可能な二十四時間体制で、職員は各国の様様な料理が食べ放題なのが魅力だ。

 その最上階にある総長のプライベートエリアを今は仮住まいとしている。
 広々としたリビングに簡易キッチン、ゆったりした主寝室に広めのシャワーブース、ゲストルームがひとつある、豪華なホテルかマンションのような造りだ。これが「仮眠室」だというのだから笑ってしまう。ゲストルームの家具は全て撤去し、そこにノワが気に入ったふっかふかの敷物と、特注で作ってもらったどでかいベッドが置かれている。
 ノワはとにかく喜んで、日がな一日そこでまったり寛いでいる。いつでも入ってきて、と開け放たれているドアの奥に、牙の生えた凶悪な妖獣が至福そうな顔で微睡んでいるのは、なんともほっこりする光景だ。
 一方、ブルグレは多忙だ。このあたりのブルグレネットワークを構築中で、毎日朝早く出掛けては、日が暮れた頃に戻ってくる。先日、あまりにお疲れなのを見かねて血の珠を差し出したら、またもや思う存分補給された。



 連合本部にいると、私は聖女なのだ、ということをことあるごとに思い知らされる。
 毎日毎日傅かれる。機嫌を損ねないよう張り付いた笑顔しか向けられない。一歩プライベートエリアから出ると、一秒たりとも一人になれない。常に誰かが付き従う。

 シリウスやポルクス隊のみんなは今、ファルボナの独立に向けての準備に忙しい。
 邪魔をしたくなくて、できるだけ大人しくしているつもりなのに、言葉が通じないハンデがここにきて重くのしかかってきた。付き従っている人たちとのコミュニケーションが取れなくてくじけそうだ。徐々に苦痛どころかストレスで胃が痛くなり始めている。
 シリウスがいないと何もできないということを嫌というほど思い知らされる。

 で、ついに今日、ノワを巻き込んでメキナ上空に逃げてしまった。
「こればっかりは仕方ないわね」

 ノワやブルグレに通訳してもらうという手もある。ただ、それをしてしまうと今まで言葉が通じないことを理由に逃げていた事柄から逃げられなくなる。
 顔に出やすい私は、知らないことは知らないままの方がいいとシリウスにも言われている。私に関してはシリウスとノワが話し合って情報の制限をあえて設けているらしい。

 かつての聖女たちはどうしていたのだろう。大帝国にいた頃の私と同じように、わけもわからないまま生きることを諦めていったのだろうか。

 聖女──そう言われるごとに逃げ出したくなる。
 自ら立候補して聖女になったのならともかく、いつの間にかそうなっていた私にとって、それを押しつけられるたびにその経緯を思い出すことになり、それが結構キツイ。
「聖女」のひと言に、無意識なのだろうけれど彼らの理想が込められていて、それを感じるたびに吐きそうになる。

 本来私個人に向けられる固有名詞ではないはずの聖女を意味する言葉が、ここにいると意味を持って聞こえてくる。それが怖い。彼らにとって私は「聖女」という名前の生きものなのだ。
 砦では違った。私はサーヤと呼ばれる人間で、聖女という肩書きを持つだけの存在だった。

 本当に、こればっかりは性格だと思う。ただ笑っていればいいと言われたところで、ただ笑うことができない。誰もが望むような、心からの慈愛に満ちた笑顔というものを暗に要求されたとして、どれだけの人がそれに応えられるのだろう。心からの慈愛を見ず知らずの人たちに向けられるものだろうか。それこそ愛想笑いにしかならない。そう見えるような笑顔を作れたとしても、それはそれで何かが違うような気がしてしまう。

 自分も納得でき、なおかつ、聖女としても役にも立つ。そんな都合のいいことなんて、どこを探しても見付からない。笑ってるだけでいいと言われて、笑えない私ってなんだろう……。かといって、きっぱり断ることもできなくて……。
 きっと一番ダメなことをしているのだろうこともわかってはいるのだ、これでも。

 で、わかってはいてもどうにもできなくて、ノワを誘って軽く現実逃避中だったりする。

 あーあ、ぎらつく太陽が目にも肌にも痛い。もう少し優しく照ってほしい。
 姿を隠した巨大ノワの背に仰向けで寝転がっていると、雲の上に寝転がっているような気分を味わえる。なにせ背中はふっかふかのもっふもふだ。現実から逃げるときに心地いい感触と一緒だと、逃避も楽で心地いいものになると思う。どうせ逃げるなら心地いいものと一緒がいい。

「何が嫌ってさ、丸ごとシリウスに筒抜けだから、結局負担かけたくないのに心配させてしまうんだよね」
「別にいいじゃない。シリウスは負担だなんて思ってないわよ」
「そうかもしれないけどさ、いつか負担になりそうじゃん。面倒って思われたくないもん」
 無人島で暮らしたい。
 シリウスにまで「かわいそう」と思われたら……そう考えるだけで怖くなる。
「無人島は無理ね。あなた寂しがりでしょ」
「ノワも一緒にいてくれるでしょ」
「一緒にいてあげるけど、でもやっぱり人は人同士だと思うわよ」
「そうかなぁ。ノワは人じゃないけど親友だって思ってるからなぁ。人恋しくなるかなぁ」

 空がはてしなく青い。同じ空なのに、砦の空ともファルボナの空とも違う。
 海が近いからなのか、なんとなく潮の匂いがしているような、風が少し湿っているような、そんな気がする。

「シリウスがいて、ノワがいて、ブルグレがいて、羽リスたちがいれば、とりあえず私の世界は完結すると思うなぁ。それでさ、時々砦やファルボナに遊びに行くの」

 そうなんだよなぁ。
 ファルボナではあまり感じなかったことを砦に戻って感じてしまった。駆け引きみたいなものが鬱陶しくて仕方がない。それが大人の対応だと言われてしまえばそれまでだけれど、なんとなく卑怯というか、汚く感じてしまう。単に自分が子供っぽいだけだってことも、わかっているつもりだ。

「ファルボナの人って純粋だったよね」
「生きることで精一杯だからね」

 携帯電話もインターネットもないここでは、離れてしまうとぷっつり繋がりが絶たれてしまう。気軽さが一切ない。

「なんかさ、どうせならファルボナで生きたいなぁ。あ、違うな、ファルネラさんやボナルウさんたちといるのが楽しかったんだ。それこそ純粋に。聖女としても」
 ノワが黙り込んだ。
「なに? どうしたの?」
「私ね、気付いちゃったのよ」
「なにを?」
「光り輝くものの正体」
 ノワのひそめた声にくるっと寝返り、急いで起き上がる。すかさず四つん這いでノワの頭に近付く。
「どういうこと? なんだったの?」
「たぶん、だけどね。光り輝くものって降臨するもののことよ」
 真っ直ぐ前を向いたままのノワの後頭部にしがみつく。
「なんでわかったの?」
「ほら、あなたがちょくちょく精霊たちに力を分けていたでしょ、そのときにね、子供たちが、光ってるー、きらきらしてるー、って騒いでいたことがあったのよ。それでなんとなく。今のあなたの話を聞いて、やっぱりそうかなって」

 だとしたら、アトラスの崩壊に聖女が関わっていたことになる。
 確かに、聖女だと考えると辻褄は合うような……。「もらい受けた何か」が聖女であれば、国に加護を与えていたのかもしれない。加護が「侵されがたい何か」なのかもしれない。

「先代の聖女はファルボナに降臨したようね」
「ノワって、本当に今まで人に関わってこなかったんだね」
 本当は、心のどこかでノワならアトラスが崩壊した理由を知っているんじゃないかと思っていた。
「ずっと昔にね、散々関わって嫌な思いをしたのよ。それ以降は引き籠もり」
「今は? 嫌な思いしてない?」
「してないわよ」

 できれば些細なことでも教えてほしい。私は人という肉体を持った生きもので、ノワは肉体を持たない霊獣で、ブルグレは精霊で、お互いを思いやりたくてもどこか理解できない部分があるはずだ。

「でもね、私に大きなベッドや家具を用意してくれた者はいても、同じ家の中に私の部屋を用意してくれたのはあなたたちが初めてよ。腕の中に招いてくれたのも。それを当たり前のことだと思ってくれているのも」

 私はノワを一人と数える。それは人と同じように扱うからじゃなく、自分と同じ存在だと思っているからだ。霊獣だろうが精霊だろうが聖女だろうが人だろうが、単純に同じ存在だと思っている。

「そういうのがね、やっぱり嬉しいのよ、私も、ブルグレも、精霊たちも」
「みんなそうじゃないの?」
「そういう人もいるでしょうね。なにもあなたが特別だとは思わないわ」
 ノワが、ふふ、と小さく笑った。何かステキなことを見付けたような、そんな軽やかな笑い声。
「でも、あなたに出会えたことは特別だって思うわ」
「私もそう思うかも。出会えたのは特別なことだよね」
 なんだか嬉しくなって、さっきのノワみたいに、ふふ、と笑った。ほっこりした気持ちが自然と笑いになった感じだ。

 くるっと向きを変えて、ノワの後頭部に背を預ける。ノワと背中合わせをしているようで、なんだか仲良しみたいで嬉しくなる。

 そよぐ風が気持ちいい。巨大ノワは翼を広げ、空にぷかりと浮くことができる。
 ここは砦よりずっと暖かい。初夏の気温に近い。
 灼熱のファルボナから極寒の砦に戻り、今度は湿度が高めなメキナだ。短期間のうちにコロコロ環境が変わるせいか、なんだかそこかしこが不安定だ。

 時差ボケもある。そう、この世界にも時差がある。
 ノワの超音速で戻ってきたら、ファルボナはお昼だったのに、砦は夜だった。あまりの速度に気絶していたこともあり、その直後に熱が出たせいか、はっきり時差を意識することもなかった。
 今回の砦からメキナへの移動は連合国が用意した大きな豪華飛行船だったことから、時差について簡単に説明され、呆然とした。
 説明を聞きながら、またもやここがどこだかわからなくなりそうになった。時差すら同じように存在する世界。

 大陸の形から地球ではないと思う。それなのに地球と似たような環境だ。聖女や乙女という存在が、たとえば、キリストやブッダに当たるとしたら、霊獣や精霊も似たようなものに置き換えられる。

 だとしたら、ここはどこなのだろう。この世界はなんだろう。

「ねえ、ノワ。ノワはこの世界で生まれたの?」
「違うわよ。別の世界から来たの」

 それは初めて知る事実だった。
 私だけじゃなく、この世界に生きるもの全てにとっても。