アンダーカバー / Undercover
第二章 縁25 ファルボナ
アトラスが大帝国と連合国の間に存在していた頃、そこまで両国の関係は悪くなかった。小さな争いは絶えずとも決定的な争いにならなかったのは、両国間の間にアトラスが存在していたからだと云われている。
緩衝材が消え、両国の関係が急速に悪化し、祝福の乙女が現れるまで争いはどんどんエスカレートしていった。
どんな理由があれ、祝福の乙女が停戦させたのは喜ばしいことだと思うのは、私が戦争を知らないからかもしれない。
砂岩地帯はファルボナ地域と呼ばれ、主に浅黒い肌と黄色の髪と瞳を持つ人たちが暮らしている。
私たちはまず、砂岩地帯の入り口にある街のように大きなバザールに降り立った。
そこは、私が知るどんな夏よりも暑く乾涸らびていた。
ファルボナ地域に入るには、テントや寝袋などの野営の準備が必要で、水や食料なども用意しなければならない。
上空からは、赤茶けた大地に所々オアシスのような木立が見え、白っぽいテントのようなものがいくつもの群れを作っているのが見えた。
ファルボナで生まれた男たちは、そのほとんどが一度は傭兵となって家族を支える。女たちはそのほとんどが家を守っている。
戦争がなくなった今、傭兵は稼ぎようがない。ファルボナの際にあるバザールの外れには、薄汚れた売春テントがいくつもいくつも立ち並んでいた。
「サヤ、絶対に離れるな」
停戦協定が結ばれてひと月以上が経ち、この辺りの治安は日増しに悪化の一途をたどっている。
ほんの少し脇に目を向けるだけで、薄着でしつこく客引きをしている不健康そうな女たち、照りつける灼熱の太陽が作り出す路地の濃すぎる影、饐えた匂いに荒んだ目、色華やかに見えるバザールの活気とは真逆の陰鬱さに背筋が冷えた。
言われなくても人混みをすり抜けながら歩くシリウスの手を離す気はない。
私もシリウスもブルグレも、ノワの真名を知っている。それはノワの加護を持つことと同義だ。
私は簡単には死なない。それはシリウスも同じだろう。けれど、即死の場合はたぶん死ぬ。即死の人を治癒できないのと同じだと思う。
人に紛れるよう服には呪文がかかかっているいうのに、足を繰り出すごとに粘つく視線がべったりと纏わり付く。彼らが見ているのは服などではなく、私そのものだ。そんな、女という性そのものを値踏みするようなあからさますぎる視線が至る所から絡みついてくる。
全身が総毛立つ。あまりにも視線が気持ち悪くて吐きそうだ。
周りにいる女性たちは気にならないのだろうか。それとも、ここではこれが当たり前すぎてもはや気にならなくなってしまったのか。
恐怖のあまり全く関係のないことを考えたくなる。繋がる手がなければ足が竦んでしまいそうだった。
『ねえ、私って高く売れそうなの?』
──まあまあだな。健康そうってだけでも価値がある。
『まあまあ……マイナス要素はやっぱりスタイル?』
──あー……この辺りでは肉感的な女性が好まれる。
肉感的。エロい言葉だ。そして私には縁のない言葉だ。
そういえば、兄弟喧嘩の末、脇の甘い晴が隠し見ていたどエロい画像コレクションやエロゲーが晃によって晒されたのを見たとき、肉感的な業がこれでもかと繰り出されていて仰天したことがある。思わず、気持ち悪! と叫ぶと、晴の目が死に、晃が思いっきりざまあ顔をしていたのを覚えている。
「あんたねぇ、白昼堂々頭ん中でエロ妄想繰り広げてんじゃないわよ」
「あー、ごめん」
思考ダダ漏れではきわどい妄想も伝わってしまう。現実逃避の妄想にケチを付けられる私の不憫さったらない。でもまあ、私もあのとき、こんなもん見せるな! と晃を非難したっけ。
「ホントよ。不憫なのは垂れ流されたこっちよ」
「だよね、ごめん」
足元を歩く黒猫ノワは、この人混みの中、よくも踏み潰されずに歩けるものだ。今もひらりと躱している。
おかげで余所見していた私がぶつかった。相手の方が軽い衝撃以上の痛みに驚きの声を上げ、思いっきり睨まれた。私の不注意で申し訳ない。びびりすぎてうっかり静電気びりびりを放ってしまった。
「サヤ、よそ見するな。はぐれるぞ」
シリウスを絡め取ろうとしてするっと躱されたスタイルのいいお姉さんを見て、これが肉感的かとつい凝視してしまう。
中東っぽいイメージでいたせいか、女の人は肌見せNGなのかと思いきや、そんなことはなかった。カラフルな布を全身に纏って日焼けしないようにするのは同じだけれど、その布は透け感たっぷりでエロい。薄布の下はシンプルな足首までのタンクワンピ。シンプルなデザインだけに身体のラインが出て非常にエロい。おまけに、脇の手入れはしないのか、腕を動かす度にカラフルな体毛がちらちら見え隠れする。それがまた妙にセクシーなのだ。
「シリウスもやっぱり肉感的がいい?」
兄はどっちかといえばスレンダー美女が好きだった。兄の彼女でもある幼馴染みがまさにそんな感じで、髪がさらっと長く、背もすらっと高い、モデル体型だった。
カラフルなテント越しの光が、色彩感覚を狂わせる。
色と刺繍、ビーズのような飾りが華やかに人を彩る。
見たこともない屋台の果物がどれもおいしそうに見える。残念ながら日持ちしないそうで、替わりにドライフルーツを買った。
「シリウスもやっぱり髪は長い方がいい?」
うちは兄弟で好みが真逆だった。弟はショートヘアで小柄な女の子が好きだった。彼女はまだいなかった。
その二人に挟まれた私はごく普通だ。中肉中背、成績も中。全部「中」が付く並レベル。
シリウスは身長も高いし、腹筋は割れているし、肩はがっちりしているし、逆三角体系で胸板は厚いし、顔は小さくて彫りは深いし、髪は少しクセがあるもののさらっとしているし、汗臭くても嫌な感じはしないし、眉間に皺がなければ鼻筋の通った男らしい顔付きだし、手は大きくて優しいし、前に見た無精ヒゲもワイルドでかっこよかった。
……あれ? もしかしてハイスペック?
「もしかして、並の私と一緒にいるの恥ずかしい?」
「サヤが考えているのとは別の意味で色々恥ずかしい」
は? 見上げたシリウスの顔がなんとなく赤く見えるのは、色彩感覚が狂っているからか。
「低レベルなあんたは本気で恥ずかしいわ」
あれ、私って並じゃなくて低だった? やだ、思い上がり? 並じゃないのか。低なのか。地味にショックだ。
ノワは間違いなくハイスペックだ。あ、これぞ正しく神レベルってやつか。あれ? だったら聖女らしき私もハイ……じゃないよなぁ。どう考えても良くて並だ。
「ホントどうでもいいわ。怖いからって必死にアホなこと考えるのやめて。ほら、最後の店よ」
保存食をしこたま買い、身体に巻き付ける布や服も買い、最後にファルボナの入り口に近い場所にある水の店に到着した。
ノワがいるのだから毎日快適な宿から行ったり来たりをすればいいのに、それだと信用されないらしい。野営する様子をしっかり観察されるのだとか。たとえ一時の滞在者であっても、同じように暮らさないと信用はされず、話しかける隙すら与えられないとか。郷に入っては郷に従え的なアレだろう。
「ここから先は水と食料が金の代わりになる」
わざわざこの店で水を買うのには訳がある。ここで渡される水袋が信用の証になるらしい。白っぽい水袋は一度でも開封したり穴が空いたりすると、赤茶けた色に変わり、毒物の混入やわからない程度にズルして水を抜いてもはっきりわかるようになっている。
「おそらくこの店には力持ちがいるのね」
能力持ちと言ってほしい。水の重さと相まって、意味を取り違えそうだ。
とりあえず今日使う分を購入し、明日受け取る分は予約しておく。
受け取った水袋にこっそり「軽くなーあーれー」と唱えておいた。
偵察に行っていたブルグレの案内で、今夜はひとまずバザールに比較的近い場所にテントを広げる。明日の朝からはさっき買った布を使って現地人に紛れる。
「明日の朝にはビュンビュン丸も到着する予定じゃ」
巨大ノワは小一時間でΩ型大陸の十一時の位置から八時の位置まで移動した。
ノワは、久々に楽な姿になったとご機嫌だったうえ、巨大ノワの背はほとんど揺れず、無風の呪文を唱えたおかげで乗り心地も一番快適だった。
ただし、顔が凶悪に怖い。目付きは極悪だし、牙は口からはみ出るほど長いし、妖獣と恐れられてしまうのも納得の貫禄だった。
ブルグレが直接偵察に行った中で、一番温厚そうな部族からまずは聞き取り調査を開始する予定だ。そこから他の部族に渡りを付けてもらおうという算段だ。
現在このファルボナ地域は緊張状態にある。オアシスの奪い合いや部族間の小競り合いなどが頻発している。戦争が善くも悪くもこの地域を支えていた。
「ここはね、国から見捨てられた土地なのよ。それでも、ここで生まれここで育ったものたちはこの土地を愛しているの」
「ノワならなんとかできるんじゃないの?」
「一時しのぎにしかならないわ。ここにはここの生き方がある。今までとは別の方法で稼ぐ手立てを自分たちで見付けなきゃいけないわね」
テントというよりはゲルのような簡易式住居を組み立てる。キャンプで使うテントとは違い、それなりに広い。直径だと五六メートルくらいありそうだ。
丈夫な布でできているとはいえ、はっきり言ってものすごく心許ない。この乾燥地帯では火を付けられたらあっという間に燃え尽きそうだ。なにより防犯要素が何一つない。治安の悪いこんな場所で眠れる気がしない。
できるかなーと思いながら、テントに加護を与える。ついでに半径十メートル以内立ち入り禁止とも唱えておいた。外にはシリウスが雇った護衛が二人いるにはいる。それでも怖いものは怖い。
──あの二人は大丈夫だ。
『そうかもしれないけどさ、やっぱり怖いよ』
今日会ったばかりの他人を信用するのは怖い。シリウスが思考を読んだ上で雇った二人だから、彼らが何かするとは思わないけれど、こんな厚手とはいえ布でしか隔てられていないなんて……。
見上げると傘みたいに開いた天井と、見渡すとその端から垂れ下がる壁代わりの布。真ん中に立つ支柱の足元にはこれまた心許ない寝袋がふたつと荷物の入った鞄がふたつ。私の不安など素知らぬ顔で、丸まった寝袋の上でまったり寛いでいる黒猫のノワとブルグレ。すぐ傍らで心配そうに見下ろしているシリウス。
守らなければならないのはそれだけだ。
「ステンレス並みになーあーれー」
白っぽい布に触れながらそう唱えた瞬間、支柱がめりっと数センチ土に沈んだ。薄くて丈夫なもの、と考えて思い付くのがステンレスしかなかったことが地味にせつない。たぶんもっと頑丈なものがあるはずだ。
不意にノワが、ふふ、と笑った。
「なに?」
「霊獣と一緒にいるのに、あなたはそれに頼り切りにならないのね」
「あ、ごめん。ノワを信用していないわけじゃないから」
「わかってるわよ。そういうとこ、わりと好きよ、私」
確かにノワの言う通りだ。ノワがいるのだから人がどうこうできるわけがない。それでもやっぱり怖くて、自分でもできる限りのことをしてしまう。
あのバザールの雑踏は渋谷の雑踏とは違う。ただ歩くだけで神経がすり減った。全方向に神経を尖らせながら歩くことに、ひどく疲れた。
ほんの一時間か二時間にも満たない間に、私たちの周りで痛みの声を聞いたのはおそらく百は超えた。シリウスからの合図に静電気攻撃をお見舞いするたびに、少しずつ恐怖が厚みを増していくようだった。
「問題は、お風呂とトイレだよね」
「それは仕方ないだろう」
嫌すぎる。シリウスの仕方なさそうな顔を見ても嫌なものは嫌だ。このなんの仕切りもない狭い空間の中で用を足すなんて人権問題だ。
「人権って……使ってみたい言葉並べればいいってもんじゃないでしょ」
「人権だよ! ノワはいいよ! 私は絶対に嫌だよ! お風呂に入れないのだって嫌なのにーぃ」
本気でトイレを持ち歩きたい。
しかもだ。汚物は穴掘って埋めるという、もういつの時代なのかと思うほどの不潔さ。この先しばらくこれが続くなら今のうちに対策を練る必要がある。
「あのさ、ここで寝泊まりしていることにして、どこかの宿に泊まろうよ」
そうじゃなければ、砦にあった最新式トイレを買って持ち運びたい。軍資金はたっぷりある。多少の贅沢くらいしてもいい。その贅沢がトイレの持ち歩きだなんて泣けてくる。
「オアシスにはちゃんと宿がある。そこまでの我慢だ」
シリウスも嫌なのだろう。あれほどお風呂を気に入っていたのだから、今更不潔環境に適応はできまい。困ったような顔でハンモックを取り付けているシリウスを見て、旅は道連れ、という言葉を思い出した。
トイレの後で手も洗えない環境は辛すぎる。せめてウェットティッシュがほしい。除菌のヤツ。
今までと同じ生活がどれほど贅沢なことかはわかっている。わかってはいても衛生面に関しては本気で心が折れそうだ。せめてトイレは個室がいい。せめて打たせ湯でもいいからシャワーを浴びたい。
それでも、シリウスと離れてどこかで一人待つのは嫌だなのだから始末に負えない。
「自分のわがままさが嫌になる」
「仕方ないわよ。私だって嫌だもの」
「ノワも? なんで? ノワってトイレ行かないじゃん」
「臭いのよ、ここ」
まあね。地面に穴を掘って汚物を捨てているような場所だ。すでに私の鼻はマヒしている。
シリウスからこの辺りのトイレ事情を聞き、地面に寝袋はさすがに嫌でハンモックのようなものを急遽買った。折りたたみ式の簡易ベッドのようなものも売っていたけれど、さすがに持ち運べないので断念した。
日が落ちた途端、気温がぐっと下がってきた。
ハンモックの上に広げた寝袋の中に潜り込む。ちなみに上手く乗ることができずに何度もひっくり返りそうになって、シリウスにハンモックの上に乗せてもらうという屈辱に泣けた。
しかもだ、寝袋のくせにあまり保温性がなく、めちゃくちゃ寒い。落ちないと教えられてもちょっとでも身体を動かすとひっくり返りそうで怖い。バザールで気を張っていたせいでものすごく疲れているのに眠れる気がしない。手足の先がきんきんに冷えている。
「サヤ、一緒に寝るか?」
中央の支柱を頭に対称的にハンモックがふたつ張られている。ノワとブルグレはテントの中に匂いが籠もるのを嫌ってテントの上に逃げた。
新品のはずの寝袋からも、言いようのない独特の匂いがしている。つまりどこもかしこも臭い。砦もなんとなく臭かったけれど、ここはそれを何十倍も濃縮したような臭さだ。
お風呂に入っていないからきっと私も臭い。それでも、遠慮や恥ずかしさよりも恐怖が勝る。
しばらく考えた末、結局は「いい?」と甘えることにした。
ごそごそとかすかな物音がする。起き上がることもできず、目玉しか動かせないでいる私の寝袋にシリウスが入ってきた。揺れるハンモックから落とされそうで、ひーひー泣き言を言いながらシリウスにしがみつく。何度、大丈夫だ、と言われたところで怖いものは怖い。
「簡易ベッド買うか?」
私を片手で抱えながら、シリウスが寝袋に収まり、すっかすかだった寝袋がきっちきちになる。
寝袋はシリウスクラスの大男を想定して作られているのか、私一人では寝袋というよりも袋状の煎餅布団で余計に寒かった。
「買ってくれる? あ、でもハンモックより地面に近いベッドって微妙」
「まあな。足も短かったしな」
パイプ状の枠にハンモックのネットを取り付けたようなものだった。うっかりネットが切れたら悲惨なことこのうえない。
シリウスに抱え込まれた途端、多少の揺れも平気になる。しがみつく存在があるかないかで気持ちがまるで違う。シリウスの匂いに悪臭が消える。
できれば明日も一緒に寝てほしい。そのうち慣れる。と思う。
思考が伝わったのか、ふっ、と息を吐くように小さな笑いが返された。
「見張りの人平気?」
「ああ、彼らは信用できる。それに、ノワが上で見張っている」
「そうなの?」
「そのつもりだろう。その代わり日中は寝るつもりだ」
身体があたたまった途端、ころんと眠りに落ちていった。