アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり
17 不在


 不覚にもノワの猫パンチでノックアウトされた翌朝は、秋雨が淋しげな音を立てていた。

 そう、淋しいのだ。
 不覚ついでによく眠れて頭がはっきりすれば、不安の根っこは言葉が通じない以前の問題で、ただ無性に淋しくて、それに気付いた途端どうしようもなく泣きそうになった。
 常に寄り添ってくれていたシリウスがいない。これまでも二三日いなくなることはあれど、七日以上、正確には今日で九日も顔を見なかったことはない。
 たった一人の不在にここまで不安に駆られたことなど今までなかった。

「それを言ったら、あの赤を持つ男もあなたのそばに欠かさずいたことになるわね。半年以上も。どう? 離れて淋しい?」
「は? あれは敵でしょ? なんで淋しがらなきゃなんないの? 清々したわ」
「敵味方で区別するのやめなさいよ。あの赤の男だってあなたのこと気にかけてたでしょ?」
 そりゃあ、逃げられないよう気にかけていただろう。
 顔を洗っている足元で黒猫ノワが何か言いたげに小首を傾げたのがちらりと目の端に映った。
「あなたが箱檻って言ってるあの中にいれば、飲み食いは必要ないのよ」
「そうだったかも。お風呂に入らなくても平気だったし、トイレに行かなくても平気だった」
 今考えると異常だ。身体が清潔に保たれるのはまあいいとして、トイレに行かずに済んでいたなんて、私の身体はどうなっていたのか。便秘どころの話じゃない。
 顔を拭き、ついでに用を足そうとノワを洗面所から追い出す。
「あのねぇ。赤の男の話をしていて、飲み食い必要ないって言われて、思考がそっちにいく?」
「何が言いたいの?」
 ドアの向こうから叫んでいるノワはたまに面倒くさい。はっきり言え、はっきり。
「食べ物与えられていたんでしょ? しかも高価な携帯食を」
 ドアを開けると呆れた目が見上げてきた。呆れたいのはこっちだ。
「あのさ、一応私も女の子だから。トイレ入ってるときにドアの前に張り付かれてるのはちょっとどうなのって思うんだけど」
「それでも平気な顔で済ませたじゃない!」
「まあ、兄弟で慣れてるし、ノワだし」

 うちはマンション住まいだったので家にトイレはひとつだった。朝は当然争奪戦になる。たまに我慢しきれず、近所に住む祖父母の家に駆け込んだこともある。コンビニより近かった。

 そもそもノワに性別はない。盗み見た股間はぬいぐるみ仕様だ。ブルグレも同様。それなのに二人とも声が低い。謎だ。

「あんた、どこ見てんのよ」
「大事なことじゃん」
 大事なことなので何度も盗み見しましたが。何かご不満でも?
「あなたがそうやって変に男慣れしているから……」
「しているから?」
 ふてくされたようにつんとそっぽを向いたノワは、ととと、と玄関ドアの前に移動し、そっぽを向いたまま待機している。

 雨に濡れるのが嫌なノワは、私のレインポンチョの中で私の腕に抱かれて私に運ばれないと砦の食堂に行けない。ひいては私がいないとご飯にありつけない。

「しつこく『私』を強調しないでくれる?」
「事実じゃん」
 レインポンチョを着込んだ私の足元から中に潜り込み、ひょいと腕に飛び乗ってくる。
「そもそもノワってご飯食べる必要あるの?」
「果物好きで何が悪い」
 人に運ばせておきながら、ドスの利いた声で威嚇してくるのはどういうことか。



 ご飯を食べながら考える。
 ノワが言いたいのは赤の男とシリウスの違いについてだろう。明確だ。好意があるかないか。

「あのね、シリウスは思考が読めるからそれに添った対応ができるわけよ」
「まあそうだろうね」
「あの赤の男はそれができない上に女の扱いにも慣れていない唐変木だったわけよ」
 横に座るノワの顔をじっと見る。
「何が言いたいの? ノワはあの男の味方なの?」
「違うから。そうじゃなくて、あの男もあの男なりにあなたのことを気にかけてたってこと」
 それが事実だとしてだからなんだというのか。気にかけていたら人の嫌がることをしてもいいことにはならない。
「もうなんなの? あの男を許せって言いたいの?」
「だから違うって言ってるでしょ! シリウスの対応を男の標準にしちゃダメってことよ」
 何が言いたいのか全くわからない。

「シリウス以外の男と関わらないんだから別にいいんじゃないの?」
「あなた自覚してる?」
「何を? もうノワめんどくさいよ」
 何かを気付かせたいのはわかるけれど、わからないから気付かないわけで、気付かせたいならはっきり言ってほしい。
「明日、シリウス帰ってくるわよ」
「本当?」
 やっとだ。もう待ちくたびれた。ほっと息を吐けば、肩の力が抜けた。そうか、ずっと身体に力が入ったままだったから、眠れなかったのか。
「なんでわかったの?」
「無線傍受した」
 羽リスの姿が見当たらないからブルグレネットワークじゃないとは思ったけれど、ノワはそんなこともできるのか。
「サヤ、あなた調印式までにはっきりさせた方がいいわよ」
「何を?」
 珍しく名前を呼んだかと思えば、不安を煽るような捨て台詞を残し、椅子の上から飛び降りたノワはどこかに行ってしまった。
 何を? 心の中で繰り返したところで今は誰も答えてくれない。

 砦のみんなにもシリウスが帰ってくることが伝わっているのか、「シリウス」という単語とともに笑顔を向けられる。シリウスの名前を聞くたびに、妙にテンションが上がった。

 糸のような雨がしとしと降り続ける中、巡回に出るみんなの迷彩を発動したり、低空飛行船に装備されている機関銃みたいなものの命中率を上げるよう一機ずつ呪文を唱えたりしているうちにお昼になり、どこかに行っていたノワと一緒に昼食を済ませ、ノワと一緒に部屋に戻り、ノワがオットマンで丸くなっている間に洗濯して掃除して、特に念入りにお風呂の掃除をしているうちに夕食の時間になり、いつの間にか雨雲が去り、夕焼けが見えていたにもかかわらず、地面が濡れているからと再びノワを抱えて砦に移動し、晩ご飯を食べて部屋に戻り、お風呂に入って寝る準備をする。

 いつもと変わらない一日をシリウス抜きで終える。シリウスが軍人である以上、この淋しさにも慣れる必要がある。

「で、今日一日考えて何かわかった?」
「何を考えればいいのかわからなかったから、何も考えてないし何もわかってない」
 なにその蔑みの視線。ベッドに横たわった私の傍らにお座りしたノワに上から見下ろされる。まさに上から目線だ。
 ノワは、はあーっ、とわざとらしいほど大きなため息を吐いた。ふわっと鼻先にシトラスが香る。またあの酸っぱい実を食べたのか。

「あなたは大帝国と連合国、国としてどっちが正しいと思ってる?」
「連合国」
「どうして?」
 どうして?
 どうしてと訊かれても、戦争は悪いもので、私の扱いも悪くて、私がこんな事態になった諸悪の根源を呼び出した国だから?
「それはあなたの主観よね。じゃあ、客観的には?」
「客観的にも連合国」
 そ、と素っ気ない声で答えたノワにじっと見下ろされた。たじろぐ。
「ノワは? ノワはどう思ってるの?」
 たじろいだのを誤魔化すように少し早口で訊く。
「どっちもどっち」
 あ、それはそうかもしれない。拉致監禁を思い出した。
「あなたの場合、ポルクス隊があなた寄りってだけで、連合国自体が味方なわけじゃないでしょ」
 そうだった。だからこそ聖女逃亡中なのだ。
「そのポルクス隊は連合国に属しているってこと、ちゃんと理解している?」
「もしかして、私って利用されてる?」
「どうかな。それも見方によるわよね。あなたの気持ちややり方が違うだけで、やっていることは大帝国にいた頃と大差ないでしょ」
 言われてみればそうかもしれない。それでも、頭の中に「でも」と浮かぶのは感情論なのか。

「あなたが最初に治癒したの、どんな人たちだった?」
「軍人っていうか、兵士っていうか……」
「それって、誰にやられたと思う?」
 ノワに言われるより先に答えにたどり着いた。
「知ってる? 大帝国と連合加盟国の人口はほぼ同じ。でもね、大帝国の国土の半分は作物の栽培に適さない荒野よ。それに対して連合国はどこも肥沃。それは人がどうにかできることじゃない」
「そんなこと……」
「聞いていない? それとも、聞かされていない?」
 ノワの声が低く潜められた。どっちもどっち。認めたくはないけれど、その通りかもしれない。
「私ってやっぱりここにいない方がいいのかな?」
「関わりたくないなら、ここにはいない方がいいわね」
「シリウスも……」
「あなたも少しは彼の苦悩を知りなさい」

 なんとなく生きていければよかった。もうそれが無理なことはわかってはいるけれど、これからだってなんとなく生きていけたらいいと、心のどこかでは思っていた。

 大きなものには関わりたくない。だからといって小さな関わりまで絶つのは辛い。一人で生きていけたとして、誰とも関わらずに生きていくことは生きていることになるのだろうか。

「ねぇノワ。私さ、まだ十七年しか生きてないのね。その私に決めさせるっていうのはちょっと無理があると思わない?」
「でもここではあなた成人してるのよ」
「それだってさ、周りに大人がいてくれてこそでしょ? 一人で立ってるわけじゃない」
 そうねぇ、と小さく呟いたままノワはくたっとシーツの上に伏せた。
「だからね、たとえ利用されていたとしてもシリウスのこと信じてるっていうか、信じたいんだと思う」
 そうねぇ。同じ呟きを返したノワにじっと見つめられる。すぐそこにある顔は鼻息がかかりそうなほど近い。あ、かかった。お返しにふむーっと思いっきり鼻息をかけてやる。
「あなたって、兄弟とそんなことばっかりやってたの?」
「わりと」
 嫌そうに顔を背けなくても。ノワはもうちょっとテンションを上げた方がいい。
「そんなにシリウスが帰ってくるの嬉しい?」
「そりゃあね。ノワは嬉しくない?」
 そっぽ向いたまま、「どうかしら」と呟くノワだって嬉しいくせに。



 シリウスはお昼過ぎに帰ってきたらしい。いつも通りに自分の部屋の掃除を終え、ついでに鍵を預かっているシリウスの部屋の掃除を念入りにしていたせいで、うっかり出迎えができなかった。

 この建物の二階の管理を任されているのは私だ。当初はシリウスが任されていた。が、ある日なんの気なしに空き部屋を覗いたら埃まみれで、ポルクス隊長に直談判して一切の管理権を譲ってもらった。ついでにシリウスの部屋の掃除や下着以外の洗濯もしている。遠慮されたものの一切合切兄弟のもので見慣れているので抵抗はない。「パンツも洗うのに」と言ったら真っ赤な顔で乙女のように恥じらわれ、新鮮な反応に思わず目を瞠った。うちの兄弟なら「よろしく」と言いながら使用済みパンツを顔面に投げつけてくるのに。

 ちょうど、シリウスの部屋のシーツをかけ終わったところだった。
「サヤ」
 聞こえた声に振り向けば、開け放したままだった入り口に佇むシリウスがいた。
 涙が滲んできて慌てて瞬いた。淋しさの塊がこみ上げてきて身体の動きを封じてくる。
「やっと帰ってきたぁ」
 やっとの思いで出した声は恥ずかしいくらい震えていて、目の前に差し出された大きな手をぎゅっと掴む。
「遅くなった」
 ああ、箱檻から救い出してくれた手だ。心の底からほっとして、ほろっと涙が零れた。
「おかえりなさい」
 思わずぎゅっと両手でシリウスの手を握ったままもう少し近づこうとして、待ったがかかる。
「おそらく臭い」
 本当だ。そう思った瞬間、無精ヒゲに覆われたシリウスの顔が情けなく歪んだ。ああ、シリウスだ。どこもかしこもシリウスだ。
「報告終わってるなら、夕飯の前にお風呂入る?」
「いいのか?」
「いいよ。お湯溜めてくる」
 そう言いながらも手が離せない。
「臭くてもいいからもう少しこうしててもいい?」
 そう言った途端、くいっと繋がった手が引かれた。目の前にはくたびれてよれた軍シャツ。もう片方の指先がジェームの花を小さく揺らして後頭部に回され、おでこが軍シャツにくっついた。

 土埃と汗と潮の臭い。決して好んで嗅ぎたくはないけれど、その奥にあるシリウスの匂いにほっとして、ほっとして、ほっとした。手袋の指先が軍シャツを掴む。繋がる右手が指を絡め合う。

「おかえり」
「不安にさせた」
「シリウスのせいじゃないよ。自分のわがままな不安だから」
「力を使って直接サヤに伝えればよかったんだ」
 驚いて顔を上げた。こんなに近くにいると、まるで真上を見上げるほどに仰け反らなければならない。首がつるかも。一瞬の思考に、見下ろす青い目が笑った。
「そんなことできるの?」
「繋がっているならどれほど離れていようが伝わるだろう」
「でも命の力も使うんでしょ?」
「それでも、サヤを不安にさせるよりはいい」
 シリウスが普段思考を読める範囲は半径百メートルほどだ。だからこの建物も元々来客用ということもあり、砦から百メートル以上離れた位置に建っている。
 それ以上の離れた位置から思考を読むときは、命の力を使うらしい。

「私の命の力を分けられたらいいのに」
 それに答えることなく、首がつらないよう後頭部を支えてくれていた彼の手が頭の天辺にぽんと置かれた。