アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり16 停戦協定
大帝国との停戦協定が正式に結ばれることになった。
連合国では、「なぜ今になって急に?」と首を傾げているらしい。
私にはなんとなくわかる。きっとあのドヤ顔のおかげだ。私と同じ環境で生きてきたあのドヤ顔も、戦争は悪いものだと刷り込まれているはずだ。
「アタリ。そうらしいわ」
ブルグレ偵察隊が仕入れてきた情報では、あのドヤ顔は大帝国の王様の息子、つまり王子といい感じらしい。着々と自分の居場所を築いているようで何よりだ。
「王じゃなくて皇帝ね」
「そこわりとどうでもいい」
彼女がどうしてこの世界に呼ばれたのかを考えたところでわかるわけもない。元の世界で自分を殺そうとするよりはここで幸せになれるならそれでいいのだろう。
戦争がひとつの手段になっているこの世界で、それを止めさせたことは正直すごいことだと思う。
が、私を巻き込んだことは一生許さない。
「停戦協定は彼女の功績だって大帝国では大人気らしいわよ」
常に人に囲まれているのが好きそうだった彼女にとっては、それもいいことなのだろう。私には面倒そうだとしか思えなくとも。人に常に注目され続けるなんて本気で嫌だ。そもそもこの世界に積極的に関わるつもりは毛頭ない。
「でもちょっと羨ましいんでしょ?」
何もしない私と戦争を止めた彼女。
この世界に影響を与えようとしない私と影響を与えようとする彼女。
「んー……そうかな。ちょっと羨ましい気もするけど……うーん、やっぱ面倒そう。誰にでも笑顔振りまくとか私には無理だし」
「まあ、あなたはそうね。面倒だって思ってることも顔に出るだろうし」
私だってやればできる子だよ。
「すぐにボロが出るけどね」
感じ悪い。その通りなので反論できない。
私と彼女、どちらが正しいのかもわからない。そもそも正解があるのかすらわからない。
イレギュラーな私は、影響を与えるべきではない、と思っているけれど、そもそも存在していること自体が影響を与えているともいえる。すでに大帝国では治癒しまくって影響を与えまくった。人の寿命に関与してしまったのは間違いない。ただ、その分私の寿命が縮まっているなら差し引きゼロになるのかもしれない。
私の存在そのものがイレギュラーならば、鶏が先か卵が先かのジレンマ状態だ。
「まあ、あなたは関わりたくないみたいだけど、むこうはあなたのこと意識しまくってるから気を付けなさいよ」
「なんで?」
「噂になっているみたいよ。厄災の乙女が実は聖女だったって」
「でも、大帝国では聖女と乙女って同じなんでしょ?」
「祝福の乙女が大帝国にいる以上、あなたのことは連合国の聖女ってことにしたみたいよ。自分たちの祝福の乙女とは別物ってことね」
なにその都合のいい解釈。
「まあ、棲み分け? できてよかったんじゃないの?」
ノワの言い方が雑だ。
「だってどうでもいいんでしょ?」
「まあね。自分に関わってこなきゃどうでもいいかな」
「ただねぇ……」
そう呟いたノワがお風呂に向かった。最後まで言ってから行ってほしい。気になるじゃないか。
今はシリアスがお風呂を借りに来ている。一度ポルクス隊長も借りに来た。ものすごくほくほくした顔で帰っていったから、たぶん気に入ったのだと思う。シリウスなんて三日にあげず借りに来る。
「聞いとるのか! 小娘!」
「はいはい、聞いてます聞いてます」
ブルグレが言うには、ここでは未婚の男女が不必要に親しくしてはいけないらしい。親しくする場合は結婚前提だとか。だから、未婚の男が未婚の女の部屋にお風呂を借りに来るなど言語道断らしい。ブルグレが偵察に出ている間にすでに何度も借りに来ていたと知って「わしの居ぬ間に」とさっきからお怒りだ。
この建物には私とシリウスだけが住んでいる。それこそが異常事態らしい。マンションやアパートの一室感覚でいた私は「危機感が足らん!」と、ブルグレのお怒りに油を注いだ。たとえ部屋が違えど、未婚の男女がひとつ屋根の下、二人っきりで夜をともにするなど破廉恥極まりない、とこれまた大激怒だ。
だとしたら、ワンルームマンションがそこかしこに建ち並ぶ日本はよろしくないことだらけだ。ブルグレ曰く、日本は破廉恥大国らしい。失礼な。
「そんなことよりさ、何が『ただねぇ』なの?」
「そんなことでない!」
「はいはい。で?」
「お前さんが治癒した者たちに惑わしの力が効かなくなっておる」
「そうなの?」
「今のところ表立った動きはないが……」
「気になる?」
「何かあれば知らせが来る」
ブルグレの仲間たちが大帝国の偵察をしてくれているおかげで、諜報部隊が危険を冒してまで大帝国に潜入しなくてよくなった。
ポルクス隊はそのほとんどが力持ちだ。……力持ちじゃなく能力持ちと呼ぼう。つい力こぶが頭に浮かんでしまう。
ここでは衛生部隊の三人だけが力を持たない。治癒の力を持つ人は、軍人よりもその地位も稼ぎもいい。軍にいるのは、普通の医者ばかりだ。
私の力は彼らの存在を脅かすのでは、と心配したものの、むしろ喜ばれた。重傷の場合、後方の陸軍基地に搬送されることになる。そのせいで手遅れになることもあったらしい。
ノワ曰く、力は己の解放らしい。ようは使い方さえわかれば誰でも使えるようになるらしく、それを聞いた衛生部隊の三人は暇さえあれば力の発現努力をし始めた真面目な人たちだ。発現努力とはすなわち瞑想らしい。若干カルト臭いので影ながら応援している。
お風呂上がりのシリウスから聞いたのは、なんとポルクス隊に聖女捜索の任務が与えられたということだった。
ひと月後に予定されている停戦協定の調印式に聖女の同席が条件となったからだ。連合国側は反発したらしいけれど、停戦の条件の筆頭にそれが上げられているらしい。
「でも聖女って大帝国側に逃げたことになってるんだよね?」
「まあな。サヤはどうしたい?」
私の部屋にはひとり掛けのソファーがふたつある。小振りなソファーに私が座り、シリウスはいつも大きい方のソファーに座る。それとお揃いの大きめのオットマンはノワ専用だ。
本当は私が座っている小振りなソファーが猫サイズのノワ用だったりするのだけれど、なぜかノワはオットマンが気に入ったらしい。そこにブランケットみたいな柔らかい布をくしゃくしゃと丸めて巣を作っている。その巣の一部にブルグレも潜り込んでいる。
「私次第なの?」
それに頷きを返したシリウスの髪から雫がひとつ落ちた。まったく、と小さくため息を吐いてその背後に回り肩に掛かったタオルのような柔らかく毛羽立った布で濃紺の髪を拭く。
シリウスは自分を大切にしない。だから代わりに私が大切にすることに決めている。
「大切にしてないか?」
「してないでしょ」
この離れのような建物に戻ってくるとシリウスは少しリラックスする。いつもは頭にだけ響く声もちゃんと口に出して話す。普段は後ろに流されている前髪が思っていたよりも長かったことも、前髪を下ろすと若く見えることも、ここで暮らすようになって知った。
「で? 私次第なの?」
「そうなる。サヤが同席したくなければ見付からなかったことにする」
「どうすればいいと思う?」
「さっきノワとも話したんだがなぁ、大帝国がどんな思惑でサヤの同席を求めているのかがわからない」
厄災の乙女だったことをバラして、私をまたあの箱檻に閉じ込めるつもりなのか。二度とあの箱檻には戻らない。
「だから、それを探りに大帝国に潜ってくる」
「やだ。羽リスたちに任せればいいじゃん」
嫌だ。どうしてかはわからないけれど、どうしても嫌だった。
「精霊たちは思考まで読めない。七日もあれば戻ってくる」
「やだ、一緒に行く」
「サヤ、遊びじゃないんだ」
宥めと咎めの混じる声。わかっている。わかっているけれど、説明しようのない不安がこみ上げて、握り込んだ手のひらに爪を食い込ませる。
「心配するな。すぐに帰ってくる」
子供にするように私の頭にぽんと手のひらを置いたシリウスは、自分の部屋に戻っていった。
七日経ってもシリウスが帰ってこない。
誰に訊いても、大丈夫、そう言いたげな顔で私を安堵させようと笑みを浮かべる。本当に誰も心配はしていないようだから、きっとよくあることなのだろう。
繋がっているからなのか、彼が無事であることはなんとなくわかっている。無事だという感覚もある。ブルグレも一緒に行ったので、いざというときにはブルグレネットワークで連絡が来るはずだ。
それでも不安がぬぐえない。
何が不安なのかを考えて考えて考えて、不意に気付いてしまった。その不安はシリウスに向けたものではなく、自分に対するものだと。
彼がいなければ言葉が通じない。それを免罪符に彼に頼り切っていたことを思い知った。
「よく一人で生きていこうなんて思えたもんだ」
「なに? 今更自己嫌悪?」
ノワの容赦ない声に反論しようとして諦めた。その通りだ。シリウスがいなくなっただけで自分の存在が心許ない。気付くといつも耳に咲くジェームの花を触っている。
「よくこんなお荷物の相手してくれてたよね」
「まあ、任務だから仕方ないんじゃないの?」
任務かぁ。凹む。好意であってほしかった。
「任務だけなら真名なんか教えないでしょ」
だよね。そうだよね。
ベッドでふて寝していた身体をえいやと起こせば、ノワの「ま、成り行きかもしれないけどね」という素っ気ない言葉を頂戴した。追い打ちをかけるとは。
こういうとき、私も人の思考が読めれば、と思ってしまう。すごく都合のいい考えだ。さらなる自己嫌悪にずぶずぶ沈む。
はっきりと教えられてはいないけれど、真名というくらいだ、ここでは名前がすごく大切だってことはわかる。
「あ、そういえばさ、私のフルネームってあのドヤ顔も知ってるんだよね」
「でも、あなたの名前、ひらがなでしか知らないんでしょ?」
「そうだけどさ、でも戸籍上はひらがななんだよ?」
「戸籍関係ないから。あなたが真名だと感じた方が真名だから」
そういう意味ならやっぱり「明」だと思う。母も戸籍上はひらがなで、私と同じように漢字を持っていた。祖母もだ。特に大きな意味はない。「漢字を教えるのは本当に好きになった人だけよ、ロマンチックでしょ」という曾祖母の乙女チックな発想からきている。子供の頃からことあるごとに聞かされ続けてきた。
私の中にある本当の名前は「さやか」ではなく「明」だ。
「それに救われたわね」
「あ、やっぱり?」
「あなたが惑わされたのは、真名に近い名前が知られていたからでもあるだろうし」
ここでは家名が存在しない。名前の後に国名が付くのは王族だけ。領地名が付くのは領主の一族、町名が付けば町長の一族、それ以下の地区名が付くと、その地区に住んでいる人の意味でしかない。元の世界ではそれが家名になるのだろうけれど、ここではあくまでも同じ名前の人を区別するためのものでしかなく、「三丁目のさやか」とか「二丁目のさやか」とか「坂の上のさやか」くらいの識別記号のようなもので、真名には含まれない。
きっとうちの先祖は稲作農家だったのだろう。
「で、寝ないの?」
本当にノワは痛いところを突いてくる。
シリウスがそばにいなくなって、あからさまに睡眠時間が減りだした。自分でもびっくりだ。今はもう箱檻にいたとき同様、ほとんど眠れなくなっている。
「もしかして付き合わせてる?」
「そうでもない。私って基本寝なくても平気だから」
肉体を得ているわけではない、か。便利なのかそうじゃないのかわからない。
「便利かどうかで考えるあなたのその馬鹿っぽさ、嫌いじゃないわ」
「ごめんなさいね、おバカで」
眠くないから眠れないのかと思っていた。どれほど眠くても眠れない。それが結構辛い。
「ノワぁ……」
「はいはい。私は一緒にいてあげるから」
「本当?」
「ほんと。シリウスだってあなたが嫌で帰ってこないわけじゃないんだから。だから、安心していい加減寝なさいよ」
くそう。思考が筒抜けって恥すぎる。
「ねぇノワ。シリウスってさ……」
「思ってないから。あれはあれで抱えているものが大きすぎて複雑に考えている傾向にあるけど、あなたのことをお荷物だなんて思ってないわよ」
「本当?」
「本当。あのね、いくら相手に思考を読む力があったとしても、頭の中で考えただけで何もかも伝わった気になってないのよ」
「なんでノワやブルグレはシリウスの思考が読めるのに、私は読めないの? 繋がってれば読めるんでしょ?」
「は? あんたがおバカだからでしょ」
それ理由になってないから。あれ? 理由なのか?
「必要になれば読めるようになるんじゃないの?」
「必要にならなかったら?」
「読めないんじゃないの? 似たようなこと何度言わすの? バカなの?」
眠れなすぎて頭がぼーっとしていて思考回路が低迷しているだけじゃん。傷付くわ。
「あなたはね、必要に迫られないと力が使えないのよ。もしくはシリウスに誘導されないと使えない」
「なんで?」
「自分で考えなさい」
その直後、ノワの猫パンチがおでこに命中した。