大地の記憶
01 Tertius 緒—Beginning──そろそろ夜が明ける。
天使のような目映い存在に目を覚ますよう促された。
「冗談じゃない」
歯を磨き終わったあと、タオルを口元に当てながら顔を上げる。タオル越しのくぐもった声が洗面所に響いた。
目の前の鏡に映るのは、病的に青白い顔、似合わない黒髪、不自然な黒い瞳。
「出会ってたまるかっての」
同じように睨み返してくるそれから目を逸らし、手にしたタオルをすぐそこにある洗濯カゴに放り込む。
小さくため息をつきながら、胸まである髪を後ろでひとつにまとめた。
「なあに? また現れたの?」
背後から聞こえてきた暢気な声に、思わずむっとして振り返る。
「お母さんは私が出会ってもいいって思ってるの?」
「そんなわけないでしょ。わかってるくせに。でも、きっと出逢ってしまうものだと思うわ。ほら、急がないと」
洗濯物をより分けながら洗濯機に放り込んでいる母はふわふわと柔らかに軽やかに笑う。一見何も考えていないような顔。けれど、あの天使のような煌々とした存在に選ばれた類い稀なる人だ。
「ねぇお母さん、このまま学校に通ってて平気かな?」
「大丈夫よ。きっとあの御方が見守っていてくださるから」
まるでどこかの宗教信者のようにも聞こえる言葉は苛つくほどの事実だ。
天使のような存在によって、私の存在は隠されている。
胸元で肌にぎりぎり触れない位置で留まるお守りのような真っ赤な結晶。これが私の存在を世界規模の組織から隠している。
この家に住む女子高生としての存在は隠していない。けれど、私という特異な存在は隠されている。
私は、この世界の生きものではない。
腹立たしい真実。今日も眠りの中でしつこく念を押された。
どこからどう見てもこの世界の人間という生きものと姿も形も同じだというのに、この世界の人間じゃないという馬鹿馬鹿しい事実は、物心がつく頃には当たり前のように刷り込まれていた。
そして、半身に出会うと私は元の世界に戻される。知りもしない、こことは違う別の世界に。
腹が立つほど理不尽極まりない。
「ほらほら、急いで。お父さんがそろそろ苛々し始めてるわよ」
慌ててもう一度鏡を確認し、色のない唇にほんのりと色付くリップを塗って、急いで玄関へと向かう。
玄関に用意しておいた鞄を掴み、急ぎローファーに足を入れ、爪先をとんとんと三和土に突いて踵を押し込んだ。
「もう、靴がダメになっちゃうでしょ。ちゃんと靴べら使いなさい」
「ん。ごめん、気を付ける。いってきます」
玄関に見送りに来てくれた母がほんの少し不安を紛らわすように笑った。
いつこのやりとりが失われるかはわからない。
私が十七歳になったとされるその日から、綱渡りのような毎日が続いていた。
彼らの実の娘が別の世界に迷い込んだのは十七歳の時。リミットは確実に近付いている。
すでにカーポートに駐まっている車のエンジンがかかっていることに気付き、慌てて助手席に乗り込む。
「遅くなってごめん」
仕方ないな、と笑いながらひとつ頷く父は、私の高校入学を前に定年を迎えた。
ゆっくりと慎重に車が動き始める。
「今日の予定は?」
「ん、特に何もなかったはず。いつもと一緒。六限で終了。帰りはいつも通りの時間で大丈夫」
「気を抜かないようにな」
「わかってる」
真っ直ぐ前を見ながらそう忠告する父も、天使のような存在に選ばれた人だ。
彼らの一人娘をなくした翌年に、孤児の私を引き取ったことになっている。
端から見れば過保護な両親だろう。学校の送り迎えは父が、出掛ける時は母が、常に私に付き添っている。
二人には、ある組織の護衛がひそかにつけられている。私を引き取るずっと前から。義理の姉が別の世界に迷い込んだその時から。
灯台もと暗し。
彼らの護衛対象は両親であって私ではない。その護衛の背後にある世界規模の組織に見付からないよう、私の真実はその組織の頂点にいるはずの天使のような存在の一存で隠されている。
ふわっと香った甘い匂い。少しだけ開いていた車窓をもう少し開ける。
「これ、なんの匂いだっけ? 毎年香ってるよね」
「ん? ああ、キンモクセイだな。オレンジの小さな花だよ。どういうわけかここのお宅のキンモクセイはほかよりも早く咲くんだ」
「なんだかこの匂いといい、それって強烈な自己主張だよね」
ふと何かを思い出したかのように一瞬遠い目をした父がハンドルを切った。
「そういえば、美羽は好きな匂いだって言ってたな。懐かしく感じるって」
「お姉ちゃんが?」
「いなくなる前に、そう言ってたんだ」
その目に愛おしさを宿し、淋しさを滲ませた声にやるせなさを感じる。
彼らの実の娘もまた、別の世界に行ってしまった。娘にしてもらった私も、いずれ別の世界に行ってしまう。
今日も空が青く遠い。
透明な空に散らばった白い絹糸のような雲。白と青のストライプ。
思わず目を閉じた。瞼の裏に広がるのは、ストライプのずっと先にあるはずの透明で遙かな色。
さっきまであった強い花の香りはいつの間にか消えていた。
「ごめんね」
心ともなく零れた言葉に、父のふっと息を吐くように笑う音が左の耳を優しく撫でた。
「二人の娘を持てたことは私たちの誇りだよ。きっと優羽もどこかで美羽に会えるだろう。その時は、たまには帰ってこいと伝えといてくれ。お前もいつでも帰ってきていいんだからな。優羽も美羽も私たちの娘だ」
決して叶わない約束。それでも私は閉じていた目をしっかりと開け、笑いながら頷く。きっと父もわかっている。
戻されることが決まっているのであれば、私はぎりぎりまでそれに抗う。
できることならどこにも行きたくない。優しい両親のそばで普通の女の子として一生を終えたい。
定期的に夢のように現れる、あの無駄に光っている天使のような存在を力一杯殴りつけたい。
「今日から新しい先生が来るんだって」
「え? なんで?」
「ほら、現文の佐藤ちゃんの代わり。産休に入るって先週言ってたじゃん」
言われた途端、そういえば先週そんな挨拶していたような……と記憶の端を掴んだ。すっかり忘れていた。どうしよう。
「女? まさか男?」
「相変わらずだねぇ。男だって。なかなかイケメンだって噂」
呆れたようなクラスメイトの声が遠くに聞こえた。今日あの無駄に光る存在がコンタクトしてきたのはこれのせいだったのか。いつもの定期連絡かと思っていた。
「ごめん、早退する」
慌てて鞄に机の中身を詰める。何か言っているクラスメイトの声に耳を傾けている暇はない。この差し迫った時期に新たに出会う男なんて、きっと碌なものじゃない。
自分の迂闊さに苛立ちながら、ポケットから携帯電話を取り出す。ほんの少し待つだけですぐに繋がった。
「あ、お父さん? 早退する」
その一言で何かを悟った父が、『保健室にいなさい。すぐ行く』と返してきた。
慌てて飛び出した教室から、下を向き足早に保健室に向かう。すでに予鈴が鳴り終わった廊下に人はまばらだ。職員室から教師たちが各教室に向かうだろう廊下を避けて、大回りして保健室に到着した。
早足で歩いただけなのに無駄に息が上がっている。息を整えようと深く吸い込み、自分の体力のなさを思うと呼気にため息も混じる。
保健室の扉をノックし、中から聞こえた柔らかな声に安堵しながらスライドドアを開けた。
「穂住ちゃん、迎えが来るまで休ませて」
何もかもが白っぽい部屋で、戸棚の中の何かをチェックしているのは、白衣を着た養護教諭の穂住先生。現文の佐藤先生同様、生徒の誰もがちゃん付けで親しげに呼ぶ彼女は、訳知り顔で頷いてくれた。
「で、今日の言い訳は?」
「えっと、腹痛?」
「はいはい」
笑いながら手にしていたペンで中央にある白く大きなテーブルを指す。示された通りテーブルを囲む六つの椅子のうちのひとつに座ると、「お茶飲む?」と声を掛けられた。
「たぶんすぐ来ると思うから」
「今日はね、来ると思ってたんだ。ってか、欠席するかと思ってた」
「うっかり忘れてたの。おまけに男って聞いて慌てて逃げてきた」
養護教諭の穂住ちゃんは私の男嫌いを知っている。両親からも学校にくれぐれもと念を押してもらっている。極度の男性恐怖症ということになっている私は、当然女子校に通っている。半身の可能性がある男という存在そのものをできる限り避けて生きてきた。
「ここのところ倒れることもなく平穏無事だったのにねぇ」
「本当だよ。佐藤ちゃんが女性限定で代理指名してくれればいいのに。女子校なんだから教師も女の先生にしてほしい」
「そりゃ無理だよ」
けらけら笑う穂住ちゃんは自分の分だけお茶を煎れて、ずずっと音を立てて啜った。
「でもまあ、悪い人じゃないと思うよ」
「善いとか悪いとか関係ないし。もしかして穂住ちゃんの知ってる人?」
「大学の後輩?」
なぜか語尾を上げて返された。思わず首を傾げそうになる。
「そうなんだ? 大丈夫そうな人ならいいんだけどなぁ」
思わずこっちまで語尾が上がった。
穂住ちゃんに向けた目が、その背後の窓ガラス越しの青い空を映した。空が遠い。ここ最近雨が降っていないなと、頭の隅が勝手に思考している。
「まあ、なんかちょっと変わった感じの人だよ」
嫌な予感がする。
「変わった感じって?」
「なんだろう、掴み所がないっていうか、浮き世離れしてるっていうか、あんまり周りに興味がなさそうな感じ?」
そこで、扉をノックする音が聞こえた。扉の向こうに在る気配に思わず立ち上がる。
「あ、父だ。ありがと、穂住ちゃん」
にこりと笑ってひとつ頷いた後、穂住ちゃんは扉に向かって「どうぞ」と声をかけた。
ゆっくりと開いた扉の先に父の姿を認めた瞬間、安堵のあまり肩の力が抜ける。
「お父さん、ありがと」
「穂住先生、ご迷惑をおかけしまして……いつもありがとうございます」
「かまいませんよ」
にこにこと柔らかく笑っている養護教諭は、私が本当は男性恐怖症ではないことも、何かを隠していることも、きっと知っていてる。知っていて黙認している。両親が承知しているなら、というところだろう。
不意に、なんの前触れもなく、戸口に立つ父の背後から背の高い男の人がひょいと顔を覗かせた。父が驚きに顔を強張らせている。
直前まで足音どころか、まるで気配がなかった。
身体が即座に警戒で強張る。
その人は、私のすぐ後ろにいる穂住ちゃんを見てほんの一瞬僅かに目を見開いたかと思ったら、次の瞬間には何事もなかったかのように表情を隠した。見間違えたかと思うような、瞬く間のかすかな動き。
穂住ちゃんがさりげなく私の前に立ち、その人からの視線を遮ってくれる。
「なんか用?」
穂住ちゃんの言葉が砕けていることに首を傾げる。生徒以外に砕けた口調で接しているのを聞いたことがない。
「一限目は授業がないので、ご挨拶をと思いまして」
落ち着いた、と言えば聞こえはいいけれど、どちらかといえば感情のない平坦な声。
きっとこの人が佐藤ちゃんの代理教師だ。
「今取り込み中。悪いけど挨拶なら後にしてくれる?」
「わかりました」
まるで自動音声のようだ。低い声自体はすごくいいのに、なんだか勿体ない。
素直に立ち去るその人を、父が強張った顔のまま目で追っている。
「立花さん、扉閉めてください。ついでに鍵も」
早口でそう言った穂住ちゃんの言葉に従い、父が彼女の口調同様急いで扉を閉め、鍵を回す音が聞こえた。
その間穂住ちゃんはほんの少し換気のために開いていた窓を閉め、カーテンを引き、保健室を閉ざされた空間へと変える。
「彼、気付きましたよ」
振り返った穂住ちゃんの低く抑えられた声に、父の目が見開かれた。わけがわからず、首を傾げる。
「どういうこと?」
思わず上げた声に驚いたように目を見開いた穂住ちゃんは、ぱっと視線を父に移した。
「本人は?」
「気付いていません。穂住先生は……」
「私は、見えないものが見てしまうんです。他言はしていません」
妙に真剣な穂住ちゃんの声に、父が一瞬、宙を仰いで深く息を吐いた後、同じく真剣な面持ちでお礼を言っている。
「ねえ、なんの話?」
「優羽、お前の背中には──」
背中? そう思った瞬間に聞こえてきたのは、信じ難い言葉だった。
思わず父を凝視し、ゆっくりと視線を養護教諭に移すと、静かにひとつ頷かれる。
さっきの人がほんの一瞬驚いたように見えたのは、背後にいた穂住ちゃんにではなく、私の背中に存在するものにだった──。
「どうして私には見えないの?」
「結界のようなものが張られている」
いつもよりずっと低い穂住ちゃんの声に、胸に留まる小さな赤い粒が思い浮かぶ。私の髪や瞳の色を変えている、私の存在を隠しているあれが、私の背中も隠していた、ということなのか。本人にすら?
そんなわけないだろうともう一度穂住ちゃんに目を向ければ、念を押すようにゆっくりと深く頷かれた。
私の背中には、人には見えない羽があるらしい。