シロクマのたなごころ
第三章 §1「エルちゃんっ!お邪魔しますっ」
エルちゃんの家の玄関ドアを開け、大急ぎでリビングに向かう。
このビルはエルちゃん曰く、強固な結界なるものが施されており、世界で一番安全らしい。だからなのか、誰も鍵をかけない。そういう我が家も鍵をかけていない。
エルちゃんちのリビングのドアを開けたら、目の前が真っ白だった。勢いのままもふっと突っ込むと、それは柔らかで少しだけひやっとした。
毛皮だ。真っ白な大きな毛皮。その毛皮がもぞっと動いた。
見上げると、真っ黒な瞳に見下ろされた。
「……もしやシロクマ?」
こくんとシロクマが頷いた。頷いた? 頷いた! ……またエルちゃんの呪い?
「こんにちは。お邪魔してます。エルちゃんは?」
「寝てる」
シロクマの目線をたどれば、ソファーの上で思いっきり船をこいでいるエルちゃんがいた。ぐらんぐらんと前後左右にゆっくり大きく揺れる頭に、よく目が覚めないなぁとか、よく倒れ込まないなぁとか思いながら、じっくり観察してしまう。
「面白いだろう?」
「うん。よく起きないね」
「そろそろ頭をぶつけて起きる」
そうシロクマが言ってるそばから、ぼふんと肘掛けに頭をぶつけてエルちゃんが目を覚ました。ちなみに私もシロクマも最後まで観察していた。面白かった。
「エルちゃん、起きた?」
「んーん。まだ寝てるー」
「起きてるね。あのね、さっき気付いたんだけど、料理長の犬、あれもしかしてニホンオオカミじゃない?」
「んー。そうなの?」
エルちゃんがうーんと伸びをして、ごしごしと目を擦り、ほわぁと大きな口を開けてあくびをした。喉の奥まで丸見えだよ。相変わらずエルちゃんは美人の自覚がない。
「この間ラウルと博物館に行ったときに見た、ニホンオオカミの剥製とそっくりなんだけど。あの犬、お城から連れてきたんだよね。だったら違うのかなぁ」
「うーん。でも呪いをかけたときはいなかったよ」
「そうなの? ならその後お城に迷い込んだのかな?」
「それはない。さーちゃんと同じように別の場所から迷い込んだんだと思う。それにあれ、人狼だし」
「へ? 人狼って、狼男ってこと?」
「そうだよ。化け狼」
「みんな知ってるの?」
「さあ?」
「さあって……」
ふいっと見上げると、シロクマと目が合った。しかもシロクマ、「粗茶ですが」って言いながら、いつの間にかお茶と練り切りを用意してくれた。
犬や猫とも違う肉球が激しく気になる。ギャルソンエプロンを腰に巻いて、ぽてぽてと後ろ足で立って歩いている。……真っ黒なエプロンが妙に似合ってる謎。
「ところでエルちゃん、このシロクマどちら様?」
「私の宿魂でポーラ」
「しゅくこん?」
「うーん、契約している力魂で、宿魂って言うの。力魂は力の塊が具現化? 実体化? したものかな」
「使い魔的な?」
「使い魔かぁ……うーん似ているようで違うかな。私とポーラは対等だし?」
小首を傾げるエルちゃんがちょっと可愛い。
「ふーん。ポーラさんは女性?」
「男だよ」
「でもポーラって女の人の名前じゃないの? もしかして、シロクマでポーラベアだからポーラ?」
「本当はシロクマだからシロかくま太郎って付けたかったんだけど、みんなに反対されたの」
「うん、なんとなくこのシロクマには合わないと思う」
シロっていうよりはクロって感じがするのは、妙に似合っているエプロンのせい?
「母様だけが賛成してくれたんだけど……。母様も昔飼っていた犬にブチってつけたら、母様の父様にものすごくがっかりされたって言ってた。母様の宿魂は銀色の狼だったからギンってつけようとしたけど、それを思い出して踏みとどまったんだって」
「うん、何となく踏みとどまってよかった気がする。そういえばエルちゃんの家族の話って初めて聞いたかも」
はえ? と呟きながら、再び小首を傾げた。エルちゃん、ちゃんと起きてる?
「そうだっけ? 両親と兄が二人いるよ。日本は母様の故郷なの」
「ええっ! エルちゃんってハーフなの? 金髪碧眼のハーフって滅多にいないよね」
「うーん。金髪はお祖母様、青い目は父様の遺伝かなぁ。見た目だけはお祖母様そっくりって言われてた。母様は日本人だけど、肉体的には違うから、そういう意味では日本人とのハーフではないかも。魔女って存在そのものが人とは別の存在だから、全く違うとも言えるかも?」
「うーん。なんか難しいね」
なんとなくエルちゃんがせつなそうに見えた。私にとってエルちゃんはエルちゃんでしかない。でもきっと魔女のエルちゃんには色々あるんだろうな。どこからどう見ても人と同じに見えるのに、人とは別の存在かぁ……。
考えながらふとシロクマのポーラさんを見ると、訳知り顔で頷いていた。あのお城での経験があるからか、動物顔から感情がなんとなく読み取れるという謎のスキルが身についた。今気付いたけど、動物関係の仕事の面接に行けばもしかして受かったかも?
「そうだ。人狼だった。それでね、料理長の犬が喋ったんだよ! なんか、うっかりって感じの顔をしてたから、隠してたのかもしれないけど。知ってた?」
「化け狼なら人型にもなれるはずだよ」
「うそん! マジで? ちょっと聞いてくる!」
急いでお茶と練り切りを口に入れる。それにしてもこの練り切り、すごく細工が凝っている。まるでひとつの芸術品みたいで、食べるのがもったいない。でも食べる。
「んんー! なにこの練り切り、すごくおいしい。細工もすごく綺麗だし」
「お隣のビルの和菓子屋の練り切りだよ。あそこも面白いよね」
エルちゃんがシロクマのポーラさんとお隣の和菓子屋さんについて話している。鬼とか化け狸とか聞こえるけど、なんだろう?
「お隣のビルの和菓子屋さんって面白いの?」
「あそこ人外御用達なんだよ。ちゃんとのれんにも書いてあるの」
「へーえ。面白いねぇ。ところでさ、ポーラさんも人型になれるの?」
「なれるよ。ほら」
振り向けばそこに超絶美形がいた。
ゆったりとしたニットにデニムパンツという、ごく普通のいでたちなのに、どこぞのモデルかってなくらい格好いい。おまけにその纏う雰囲気は気高く、王子様要素満載だ。手足長っ! 顔小さっ!
「なにこの美形。最近私の周りって美形率高くない?」
「そうかなぁ。力魂ってみんなイケメンなんだよ。母様の宿魂なんて、恐れ多いほどの超絶美形だよ。そもそも美形率って言うけど、さーちゃんの旦那様は美形だけど、お城のみんなはそれなりだよ。白人フィルターかかってるからそう思うんだよ」
「いや。白人ってだけで美形要素満載だと思います」
「それ間違ってるからね、さーちゃん。いつか騙されるよ……ってか、すでに騙されたか」
「騙されてないから」
失礼な。確かにラウルの美形にはくらくらするけど、ラウル以外にはそんなことないもん。ラウルだってライオンのままでも好きだったもん。美形じゃなくても好きだったもん。ラウルだから好きなんだもん。
「さーちゃん、もんもん言ってないで、その化け狼のとこ行くよ」
「あれ? そういえばエルちゃん今日受付は?」
「今日はもうお客さん来ないからいいの」
「いいんだ……受付嬢って本当に座ってるだけなんだね」
「楽でしょ。いい仕事だよ」
「エルちゃん、いつか全国の受付嬢さんたちに怒られると思うよ」
にたぁと笑うエルちゃんは、本当に美人としてどうなのかと思う。さっきの大あくびとか、練り切り一口で食べちゃうところとか。まあ、それがエルちゃんらしいけど。
エルちゃんとポーラさんと一緒に食堂にいるシオンに尋問だ。なんか刑事ドラマみたいでわくわくする。
料理長の犬のシオンはいつも食堂でうだうだしている。
ちなみに散歩は勝手に行って勝手に帰ってくると聞いて、それはよろしくないと注意して以来、私の仕事になった。今暇なのは私だけなので引き受けたけど、どう見てもエルちゃんも暇そうだ。
晴れた日に目の前の公園を適当に歩き回って戻ってくる。シオンは首輪を嫌がるので、お散歩のときにだけ首輪をしている。雨の日はシオンが頑なに散歩を嫌がるので、これ幸いと私もおサボりしている。
散歩中はいつも私が一方的にシオンに話しかけていて、今日の出来事とか、目にしたものの感想とか、他愛もないことをつらつらだらだら一方的に垂れ流している。
今日は前方からめちゃめちゃ可愛い犬を連れた、これまためちゃめちゃ可愛い女の子が歩いてきたので、すれ違った後に「可愛かったねぇ」と呟いたら「そうでもなくね」とリードの先から若い男の子の声が返ってきた。きょろきょろって周りを見たけど近くには誰もいない。
思わず立ち止まって、じっーとシオンを見ていると、シオンはどうして私がじっと見ているのかわからなかったらしく、きょとんと首をかしげている。
つい面白くなって、エルちゃんみたいににやっと笑いながら「シオンって喋れるんだね」って何気なさを装って言ったら、思いっきりぎょっとしたあと、しまったって顔になった。
その後何食わぬ顔していつも通りどうでもいいことを話しながら帰ってきて、シオンの足を洗って、食堂にシオンを連れていった後、速攻エルちゃんちに駆け込んだ。
その間中、シオンはずーっと気まずそうで、ずーっと笑いを堪えてたからか、八階に向かうエレベーターの扉が閉まった途端、ぶふっと吹き出してしまった。
食堂に入れば、既にシオンは警戒した表情できっちりお座りして待っていた。待ち構えていたって感じは、やっぱりただの犬じゃない。あっ、犬じゃなくて狼か。
「シオンって、人狼? 狼男? 化け狼? なんかそんな感じなんだね」
いきなりそう聞けば、観念したように「そうです」って、被告人シオンが素直に供述した。
「ねえねえ、みんな知ってるの?」
「いえ、知らないと思います」
「ねえねえ、なんで敬語?」
「……後ろの魔女様と大いなる存在が怖いからです」
小さな声で答えるシオンのしっぽが、いつの間にか後ろ足の間にくるんとはさまっている。
「……エルちゃんもポーラさんも、威嚇しちゃダメだよ」
「ちっ」
「シオンが何かしましたか?」
エルちゃんの舌打ちが聞こえたのか、夕食の仕込みをしていた料理長の声が厨房から聞こえた。エルちゃん、舌打ちは美人じゃなくてもダメだから。
「ねえねえ、料理長。シオンが喋れるって知ってた?」
「はあ?」
料理長とその助手のアルノーさんが仕込みの手を止めてやって来た。
「しかも人型にもなれるんだって。シオン、犬じゃなくて狼なんだよ」
「それってジュストみたいなものですか?」
「ジュストさんは呪いで狼の姿になってただけだけど、シオンは最初から狼男なんじゃないかな。そうだよね、エルちゃん」
「シオン、どうやってあの城に来た?」
エルちゃんが珍しく険しい顔でシオンに問いかける。私の言葉はシカトだ……。ちょっと寂しい。
「わかりません。気が付いたらあの城の近くの森を彷徨っていました。クレマンさんに見つけていただいて、飼われることになりました」
「私と一緒だね。確か私も料理長に見つけてもらったんですよね」
「あの森には私くらいしか入らなかったからね。必然的に見つけるのも私になるんだと思うよ」
うーんと唸りながら、腕を組んだエルちゃんが難しい顔をしている。隣に立つポーラさんも難しい顔をしている。
料理長とアルノーさんが、ポーラさんを見て「この人誰?」な顔をしていたので、「エルちゃんのボディーガードのポーラさん」って答えておいた。たぶん間違ってないはず。間違ってないよね?
料理長とアルノーさんが「そう言えば前に紹介されましたね」って言ってる。そうなの? 前にポーラさんと会ったことあるの?
「少しよいか?」
厳しい顔のままエルちゃんがシオンの額に触れる。触ると何かわかるわけ? ビビビ的な?
「ただ迷い込んだだけか。運がよかったなシオン」
なんだかさっきからエルちゃんの雰囲気がいつもと違う。近寄りがたい、威厳のようなものを感じる。
話しかけちゃダメな雰囲気に、黙って見ていたら、我に返ったような顔したエルちゃんがぱっと私の方を見たので、エルちゃんの真似してにやって笑っておいた。
一瞬泣きそうな顔をしたエルちゃんが、そばに来てぎゅっと私の右手を両手で握った。まるでしがみついてるみたいな必死さに首を傾げる。
「どうしたの? エルちゃん? なんか怖いことあった?」
「ううん、なんでもない。ちょっと不安になっただけ」
「ん。大丈夫、大丈夫」
私の右手をぎゅって握っているエルちゃんの両手を、左手でぽんぽんって叩くように撫でると、えへへっていつものエルちゃんに戻って笑った。
「シオンは運がよかったの?」
「うん、すごくよかった」
「そっか。よかったね、シオン」
シオンがよくわからないって顔をしている。エルちゃんが運がいいって言うなら、きっとそういうことなんだと思う。エルちゃんは魔女だ。その魔女が運がいいって言うんだもん、それはきっとすごくいいってことだ。
「それでシオンは人になれるの? 化け狼なんだよね? シオン」
「それが……。あの城にいる間は話すことも化けることもできなかったので、化け方を忘れてしまったみたいで、上手く化けられなくなりました」
くるんと宙返りをしたシオンは、着地したときには人の姿になっていた。一見人の姿なのに、耳としっぽは狼のまま。つまり狼耳としっぽ装着状態。手は人の手だけど、足首から先が狼だった。なんとも中途半端で微妙。着ているのは平安時代とかそのあたりの狩衣みたいな、そう、義経とか陰陽師とかそんな感じの服。服の下がちゃんと人になっているのかは見えないからわからない。
料理長とアルノーさんが「ほほう」って感心している。
「シオンって日本出身?」
「今の日本は知りませんが……生まれは大和国です」
「大和国って大昔の日本っていうか奈良だよ。その割には現代語で話すよね、シオン」
「この世界に連れてくるときに、みんなの主言語を今の日本語にしたからね」
「へーえ。そんなことまでできるんだ! エルちゃんって相変わらずスゴイね」
出た! エルちゃんのドヤ顔。なぜかポーラさんまでドヤ顔だ。イケメンのドヤ顔……なんだろう、すごく微妙だ。
「とりあえず、シオンの服買ってこよっか」
近くのコニワロに行こうとしたら、なぜかビルの玄関前にセドリックさんの車が止まっていて、後部座席にはラウルがいた。
エルちゃんが当たり前のように助手席に座り、私は頭にはてなマークを量産しながら、ラウルの隣に乗り込んだ。
「なんで出掛けるってわかったの?」
「ああ、魔女殿からテレパシーで教えられた」
「エルちゃん、超能力者?」
「魔女なら誰でもできるよ」
「すごいねぇ。だからいつも私の言いたいことがわかるんだ!」
「さーちゃんのは誰でもわかるから」
「なんと! お城のみんなも超能力者?」
さすがエリート集団!
「……違うから」
エルちゃんの呆れた声が車内に染み込んでいった。違うの?