閒宵人の涙
閒宵人の涙 01


 昼から夜へと移りゆくとき。
 目に映るすべてが曖昧になる時間。

 ふと漂った饐えた臭い。
 一瞬にして空気が変わったような、そんな気がした。

 咄嗟に振り返る。薄闇の中はっきりとはしないものの、目に映るシルエットは見慣れたもの。
 いつもの夕暮れ。いつもの帰り道。いつもの曲がり角。
 つい今さっき幼馴染みと別れたばかり。ほんの少し戻れば、彼女の姿が見えるはず。

 それなのに、どうしてか急に言い知れない不安が込み上げてくる。
 日没直後、まだ明るいとはいえ、うっすらと闇の色が濃くなってきた薄暮の中、無性に心許なくなってしまう。
 足早に帰路を急ぐ。もうすぐそこ、あとひとつ角を曲がれば、我が家だ。

 焦るようにその角を曲がる。
 その瞬間、出会い頭に何かにぶつかった。

「うわっ」と「おわっ」が重なる。

 ぶつかったのは、背の高いがっちりとした男の人。濃いグレーの、まるでテレビで見たことのある戦闘服のようなものを着て、どういう訳か、腰を落として身構えられている。

「ごめんなさい」と「こんなところに女……」が重なった。

 見上げるほど大きな身体が、行く手を塞ぐかのように立っている。会釈して脇を通り抜けようとして、腕を掴まれた。

「ちょっと待て。お前……閒宵人だな」
 まよいびと? なんのことかと首を傾げる。その瞬間、掴まれた腕に力が込められた。

 厳めしくも見える男の顔が険しく歪む。まるで睨み付けるかのように、その目に力が込められた。細められた目が鋭く怖い。ぞくっと身震いし、全身が硬直する。
 ざりっと靴底を引きずるようにわずかに後退り、掴まれたままの手首にその足が止まる。
 なんとか手を離してもらおうと、手を捻るように動かそうとするも、ビクともしない。おまけにさらに強く握り込まれた。

「痛っ……」
 思わずもれた声に、その人が目を見開きながらも、慌てたように握る力を緩める。けれど、手首が開放されることはなかった。
 闇がその色を濃くしていく。それに煽られるように、恐怖と不安が迫り上がってくる。

 その時、近くで耳をつんざくような高音が響き渡った。まるでロケット花火のような音。

 びっくりして思わず音のした方向、右斜め後ろに目を向けようと首をわずかに動かした途端、手首を握っていた手にぐいっと引き寄せられたかと思ったら、素早く片腕に抱き上げられ、その人はものすごいスピードで走り出した。
 どう考えても、人が走る速度じゃない。あまりのスピードと振動に、悲鳴すら飲み込んでしまう。
 ひっ、と喉の奥が引きつれた音を残して、訳もわからず咄嗟にその人にしがみついた。そうしないと振り落とされてしまいそうで。

 ふと脳裏をよぎった「誘拐」や「拉致」の言葉。

 遠ざかる我が家。この先にはさっき別れたはずの幼馴染みが歩いているはずなのに、いつもなら人通りのある道なのに、人っ子ひとり見当たらない。なにより──。

「聞け。ここはお前のいた時空じゃない」
 ものすごいスピードで走っているはずなのに、息ひとつ乱れていない。

 流れるように目に映る景色が信じられなかった。

「いくぞ!」
 すぐそばで聞こえた声。次の瞬間──。

 飛んだ。
 ぐっといきなり身体にかかった強烈な重力──。



 ふと目が覚めた。
 一瞬いつもの朝の目覚めかと錯覚しそうになって、いつもと朝日の入り方が違うことに気付く。フラッシュバックのように次々に思い浮かぶ、鋭い視線、手首の痛み、猛スピード、跳躍──。
 慌てて飛び起きた。

「起きたか」
 あの厳めしい感じの男の声とは違う、低く落ちついた男の人の声。慌てて声のした方を向けば、椅子に腰掛けた男がいた。髪の色も瞳の色も、そのはっきりとした顔立ちも、どう見ても日本人じゃない。けれど、聞こえてきたのは間違いなく日本語だ。

「ケイ、目覚めたぞ」
 その低く落ちついた声に、ドアのない枠の向こうから、あの厳めしい男が顔を出した。

 所々壁紙が剥がれ、窓には中途半端にぶら下がるカーテン、ガラスにはひびが入り、その全てが埃っぽい、まるで廃墟のような部屋。
 言い知れない不気味さに、肌が粟立つ。

「ここもあまりもたない。先に移動する」
「ダメだ。先に種付けしろ。危険すぎる」
 その瞬間、ケイと呼ばれた男の顔が哀しそうに歪んだ。どうしてか、哀れむかのように目を細められた。

 足音も立てずに近付いてきたケイと呼ばれた男は、私が寝かされていた薄汚れたパイプベッドに勢いよく腰を下ろした。その反動で埃が舞い上がり、同時に身体がわずかに揺れる。思わず距離をとり、慌ててベッドから降りようとして、再び手首を掴まれた。

「聞け。ここは、お前がいた時空じゃない」
 聞き覚えのある言葉。猛スピードで走っているときにも耳にした言葉。思わずもうひとりの男の人を見れば、静かに頷かれる。

「お前は、閒宵人と呼ばれるものだ。ここでは──」
 一瞬言い淀んだ先に続いた言葉は、信じられないものだった。

──食料だ。

 その言葉が頭に入ってこないまま、意味を理解できないまま、それに続いた説明は、おぞましいものだった。

 閒宵人はここに棲むものたちの食料。その血肉は、ほんのひと欠片だけでも、驚異的な生命力を与えてくれる。
 日が暮れた直後、閒宵人は定期的にどこかしらに現れ、ここに棲むものたちに捕食される。

「おっさんも閒宵人だ。三十年ほど前に迷い込んだ」
 おっさんと呼ばれた彼に目を向けると、やはり静かに頷かれた。

 相手は同じ人間。違うのは、閒宵人か否か。食料かそうでないか。ただそれだけ。
 ふと、微かな違和感が頭をもたげた。彼は「おっさんも」と言った。俺たちも、ではなく。

 咄嗟に逃げようとして、逆に握られたままの手を引かれ、まるで拘束するかのように抱きしめられた。抵抗する間もないほどの素早さに愕然とする。

「聞け。俺は食わない。確かに俺はここの人間だ。だが、生まれてすぐに俺を拾って育ててくれたのが、おっさんだ。おっさんは生きてるだろう?」

 拘束されたまま身体の向きを変えられ、おっさんと呼ばれた男に顔を向けられる。

「こいつは食わない。俺がそう育てた」
 おっさんと呼ばれた人の静かな声には、どうしてか妙な説得力があった。

 信じられない。けれど、ここがそれまでいた場所じゃないことは、わかる。
 あの信じられないスピードで走り抜ける中、目に映ったのは、それまでと同じようでいてまるで違う景色だった。見覚えのある建物は、同じ場所に同じ形のまま存在こそすれ、その全てがさびれた廃墟のようだった。

「日本語……」
 思わず呟くと、ああ、と声をもらしたおっさんと呼ばれた男が答えてくれた。

「俺が話しているのは英語だ。俺には全てが英語に聞こえる」
 彼は軍人だという。要人に随行して来日にしているときに迷い込んだらしい。
 よく見れば彼が着ているのは黒にも見える濃紺のスーツ。ケイと同じくくらいがっちりとした体躯は、軍人と言われてみれば納得できるものだった。

「俺にはお互いに別の言葉を話しているように聞こえる。ただ、俺たちは閒宵人の言葉はどういう訳かわかるんだ。頭に直接響いて聞こえる。閒宵人を見分ける唯一の方法だ」

 よくわからないことが多すぎて、聞いたことの全てが衝撃的すぎて、その全てを放り出したくなる。

「聞け。ここからが一番大事なことなんだ」
 そう話し出したケイの言葉は、それまで以上の衝撃を与えた。

 閒宵人の女性は、彼らに食われる前に、大勢の男に種付けされる。彼らは、人間なのに卵生。彼らを生み出せるのは閒宵人の女性のみ。
 数時間のうちに一度に大量の種を植え付けられる。
 そして、ひと月ほどのち、種付けした男の数だけ産卵する。その卵はここの女たちの腹に一粒ずつ託され、数ヶ月かけて細胞分裂を繰り返し、人として生まれる。
 閒宵人が産卵できるのはおそらく一度きり。
 受精すると一時的に体温が上がる。上手く受精しなかった場合、数日おきに受精するまで種付けされる。
 そして、産卵後、種付けした男と托卵された女たちの食料となる。

 気が狂いそうだった。考えるより先に身体が暴れ出す。ケイの拘束する腕に力が込められ、咄嗟に叫びだそうとした口を、その大きな手で塞がれた。

「大きな声を出すな。閒宵人の女の声は、男より広範囲に響く」
 ケイの低く落ち着いた声が、すぐそばで聞こえる。

「数時間のうち、たったひとりだけが種付けした場合、閒宵人の存在が曖昧になり、その存在を誤魔化せる。本来は王と呼ばれる組織の子を生み出すための仕組みだ」
 その先は言われなくてもわかった。食われるか、犯されるか、どちらかしかない。

 全身の力が抜けた。
 どうしてこんなところに迷い込んでしまったのか。

「いっそ殺して……」
「死ねないんだ。閒宵人には生きたまま食われる以外の死は与えられない」
 意図せず零れ落ちた言葉に返された、軍人らしいともいえる平坦で静かな声。それはあまりにも静かで、だからこそ、より一層狂おしく響いた。


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