ぼくはいつも、きみからうまれる
第二話 「ボクはいる?」「あのさ、自分のことを幽霊だって思い込むのってどんなときだと思う?」
「幽霊?」
「そう、幽霊」
お昼休み、時々轟く雷鳴と強く打ち付ける雨音を聞きながら、今日はお弁当がないという真結に付き合って、美紗とともにお弁当持参で学食に来た。
豪雨とざわめきの中なら周りに聞かれないだろうと、ここ数日頭を悩ませていることを口にすると、食事の手を止めた美紗は理解しかねるとでも言いたげに眉を寄せている。
結局、渡良瀬くんの言う「ボクは幽霊なんだ」の意味はわからないままだ。
「死んでるってこと?」
「生きてる」
「生きてるのに幽霊? 生き霊ってこと?」
考え込む美紗とは違い、真結は少しだけ淋しそうに「なんかわかるかも」と密めくように呟いた。
「美紗や花歩って、誰かに無視されたことある?」
美紗と一瞬顔を見合わせ、真結の次の言葉を待つ。
「私ね、中学の始めに同じクラスの子に無視されたことあるの」
作り笑いを見せる真結がどこか大人びて見えた。
どんよりと仄暗い窓の外がぴかっと光り、驚きと悲鳴の中、轟音が鳴り響く。互いに首をすくめながら窓の外に目をやり、再び真結に視線を戻す。
「ほんの一時のことだったんだけどね、そのとき、私って誰にも見えていないのかなーって思ったことがあって……」
あとに続く言葉は、言われなくてもわかった。
「私、みんなと同じタイミングで笑えなかったり、トイレに一緒に行かなかったり、SNSの返事が遅れたりしているうちに、なんか一人になってたことある」
「あー、私なんかわりとはっきり言っちゃうから、偉そうって嫌われた」
思わず吐き出したら、美紗まで吐き出した。
この二人と一緒にいるのは楽だ。勝手に笑いたいところで笑えるし、トイレも勝手に行ける。SNSは用件しか送ってこないし、返事を急がなくてもいい。
なにより、悪口の共有がない。自分を偽らなくてもいい。
「花歩、誰かに無視されてるの?」
「あ、違う、私のことじゃないんだけど……」
心配そうな真結に慌てて否定を返す。
渡良瀬くんは、誰かに無視されているのだろうか。
私は、どうすればいいのだろう。
一学期の定期考査が終わり、美紗も真結も夏の大会に向けてお昼休み返上で練習している。美紗は陸上部、真結は吹奏楽部だ。陸上部はなんとなくわかるものの、吹奏楽部にも夏の大会というものがあるらしく、グロッケンという謎の楽器を担当する真結は常に何かのメロディを口ずさんでいる。
必然的に一人でお昼を食べることになる私は、お昼を食べるためだけに別のグループに入れてもらおうとは思えず、一人でまったり食べれる場所を日々ふらふらと探し回っていた。
こんなだから、同じクラスなのに未だ名前を覚えていない人がいるのだろう。その場限りの付き合いが上手くできるようになれたらいい。
「あ、ここはいいかも」
見付けたのは特別教室が並ぶ北棟の非常階段。いい感じに日陰で静かだ。今まで見付けた中で一番かもしれない。
渡良瀬くんとの接点はあれ以来ない。
あの時の私の行動が正解だったのかも、幽霊の意味もわからないまま、時間だけが過ぎていった。
毎日渡良瀬くんが教室にいることを確認し、チャンスがあれば話しかけようと思っている。思っているけれど、話しかけられないまま、すでにひと月が経過してしまった。
自分でもどうしていいかわからない。
気になってはいるのに、どうしていいかわからないせいで、軽々しく話しかけられない。
クラスの誰かに故意に無視されているという感じはない。
むしろ、渡良瀬くん自身があまり人と関わらないようにしているのか、無視される方がまだ意識されているのではないかと思うほど、教室での彼の存在は希薄だった。
受験科目になる教科は基本的に三クラスごとに実力順に教室が別れる。そのせいで日によってはほとんど自分の教室にいないこともある。渡良瀬くんはどの教科もAクラスのようで、ほとんどがBクラスの私とは顔を合わさない日もある。
僅かにあるイベントや行事もクラス単位で行動することはほとんどない。班行動などもちろんない。唯一クラス単位で行うのは球技大会くらいだ。
彼を見ていてわかったのは、自分から関わろうとしなければ、誰とも関わらないまま一日が終わってしまうということだけ。
どこか映し鏡にも思えて、自分の在り方すら考えさせられた。
非常口の扉を開け放ち、非常口に背を向け階段に腰をおろす。
梅雨の晴れ間を眺めながらの食事は少し淋しくも、湿気を連れ去っていくそよ風は心地いいもので、いい場所を見付けたと一人ほくほくと満足していた。
最後のひと口を食べ終わり、まったりお茶を飲んでいると、背後からひたひたと足音が近付いてきた。聞き覚えのある足音に振り返れば、渡良瀬くんが真っ直ぐ向かってきた。
まさか向こうからやってくるとは思わず、振り返ったまま動きを止め、ただ彼が間近に迫ってくるのを呆然と眺めていた。
「今日金曜でいい?」
非常口で立ち止まった彼の口から、またしても意味のわからない言葉が出た。
今日、金曜、で、いい?
ひと言ずつ区切って頭で繰り返すも、真意はわからない。今日は金曜日で合っているか? という意味じゃないことだけは、なんとなくわかる。
「いいよ」
意味がわからないながらもそう返すと、渡良瀬くんは小さな頷きを残してくるっと背を向け、足早に去って行った。思ったよりも歩くのが速い。
「今日、金曜で、いい?」
同じ言葉を声に出して繰り返してみても、意味はわからなかった。
結局、渡良瀬くんの言葉の意味はわからないまま放課後になり、気付けば彼の姿は教室から消えていた。
あれはもしかしたら、今日は金曜日で合っているか? という確認だったのかもしれない。正直それ以外に思い浮かばない。
カレーの匂いが雨に閉ざされた部屋に漂う。
梅雨時期にカレーを一晩寝かすと食中毒になる、とテレビで誰かが言っていた。どうしようか悩んだものの、あら熱が取れたら冷蔵庫に入れてしまえばいいだろうと自分に言い聞かせ、カレーをことこと煮込んでいる。
あとはご飯が炊けるのを待つばかり、というところでインターホンが鳴った。モニタに映し出されているのは渡良瀬くんだ。
そこでようやく、「今日金曜でいい?」の意味がわかった。
オートロックの解錠ボタンを押し、急いで洗面所やトイレ、自分の姿をチェックする。
もう一度インターホンが鳴り、玄関ドアを開けると目の前に差し出されたのはケーキ屋さんの箱だった。話題のお店のロゴが目に入る。
渡良瀬くんはご飯のお礼にと、いつもデザートを買ってくれる。前回も前々回も手近なコンビニデザートだった。
「どうしたの、これ」
「プリン」
「まさか、あのひとつ五百円の?」
話題になっていたのは、このお店のひとつ五百円もするプリンだ。つい昨日も美紗や真結と、そのうち一緒に食べに行こう、と話していたところだった。
「うわぁ、すごくうれしい」
「よかった」
スリッパを出しながら小さな歓声を上げれば、雨の匂いを纏ったままの渡良瀬くんはほっとしたように笑った。
傘に付いた雨粒を外で払ってきたのか、畳まれた傘からは雫がほとんど落ちてこない。玄関の隅にある傘立てに傘を入れ、小さく「お邪魔します」と言いながら、渡良瀬くんはスリッパに足を入れた。
「わざわざ買いに行ったの? お昼過ぎには売り切れるって聞いたけど」
「昼に予約」
あの「今日金曜でいい?」のあとで予約してくれたのか。胸の奥で陽だまりが生まれる。
「カレー?」
「そう、チキンカレーだけど」
「ん」
リビングに移動し、ソファーの脇に鞄を置いた渡良瀬くんが、所在なげに立ち尽くしている。
「座れば? それとも、先にシャワー浴びる?」
今日も泊まるだろうと思ってそう訊けば、少し嬉しそうに頷いた。
ひと月の間ひと言も話さず、どう話しかければいいかもわからなかったのに、いざ会ってみればなんの気負いもなく言葉がするすると出てくる。
「寝る前に湯船に浸かる?」
「浸かる」
あ、嬉しそう。
一人だとどうしてもシャワーだけで済ましてしまいがちだ。今日は特に湿気が肌に貼り付いて、なんとなく湯船に浸かってさっぱりしたい気分だ。
「じゃあ、ざっとシャワーだけ浴びてきて。その間にご飯炊けると思うから」
すでに前回、どこにタオルがあるかも教えてある。
洗面所に消えていく渡良瀬くんを見て、不思議な関係だなと思う。付き合っているわけでもないのに、一緒に食事をして、家に泊まる。特に何があるわけでもない。
「あ、そっか。渡良瀬くん、明日のお昼はカレードリアでいい?」
渡良瀬くん食べる量は私の倍だ。スプーンにのるひと口の量も倍だ。
最初にご飯を食べたときに、食べたい分だけ自分のご飯を装ってもらって気が付いた。私の場合、二合炊くと六食分になる。週末のご飯は二合まとめて炊いて一食分ずつ冷凍していた。
二人で食べるとカレールー半量で作った分はあっという間になくなる。
「さすがに朝からカレーは嫌だよね」
「パン買う」
前回泊まったときも、朝は近所のパン屋さんに焼きたてのパンを買いに行ってくれた。
「お昼にカレー食べ終わるから、夕飯どうしよう。何食べたい?」
「お礼におごる」
「いいの?」
もぐもぐしながらも真顔で頷かれた。一人だと外食なんてほとんどしない。
渡良瀬くんと一緒の食事は、いただきますも一緒なら、ごちそうさまも一緒だ。食べ終わるタイミングがいつも同じで、歩くの同様食べるのが遅い私は、渡良瀬くんが同じ速度で食べてくれていることを知っている。
「ちょっと楽しみかも」
「何食べたい?」
いつもより弾んだ声を上げると、渡良瀬くんの声も少しだけ嬉しそうに弾んでいた。
「何がいいかな。何食べても嬉しいかも」
嬉しすぎて浮かれてしまう。
いつも一人で座っている四人掛けのダイニングテーブル。向かいに座る渡良瀬くんが少し笑った。
渡良瀬くんが手際よく食器を洗ってくれる。その間に、残ったお米とカレーで明日のお昼のドリアの下準備をして、冷蔵庫にしまった。
まったりとソファーに座り海外ドラマを観る。
初めて来た日に、動画配信サービスの契約をしていることを教えたら、渡良瀬くんはわかりやすくそわそわし始めた。笑いを堪えながら、観ていいよ、と勧めたら、どれを観ようかと散々迷った挙げ句、アメリカのテレビドラマを見ることに決めたらしい。
来る度にその続きを観ている。
「これ、続きが気になってたんだよね」
見始めにそう言うと、渡良瀬くんは少し嬉しそうだった。
一緒に見たくて続きを観るのは我慢していた。その意味が通じたようで、嬉しそうな渡良瀬くんが嬉しかった。
一話見終わり、その間にお風呂の準備をし、もう一話見終わり、渡良瀬くんが先にお風呂に入った。入れ替わるようにお風呂に入り、もう一話観る。
サスペンスもののせいか、画面を見つめる渡良瀬くんの顔は真剣だ。
続きが気になるものの、眠くなってきた。
「渡良瀬くん、私寝る」
一話見終わったタイミングでそう言い、ソファーの端から立ち上がる。同じタイミングでもう一方の端からも渡良瀬くんが立ち上がった。
「いい?」
またしても意味のわからない問いかけだ。
眠気に思考力が低下していたこともあり、即座に「いいよ」と返したら、そっと抱きしめられた。
この場合の「いい?」の意味を理解し、そっと、丁寧に抱きしめ返す。
これはきっと、抱きしめるための「いい?」ではなく、抱きしめてもらうための「いい?」だ。
きゅーっと抱きしめる腕にほんの少しずつ力が加わっていく。同じようにきゅーっと抱きしめ返すと、渡良瀬くんは首元に顔を埋め、ふーっと長い息を吐き、肩の力を抜いた。
首に渡良瀬くんの息がかかってくすぐったかったけれど、動かないよう必死に耐えた。
「ボクはいる?」
小さく呟かれた言葉。
この場合の「いる?」は、「居る」か「要る」だ。イントネーションから「射る」や「煎る」じゃないことはわかる。
「いるよ」
どちらの「いる」にしろ、いる。
「渡良瀬くん、一緒に寝る?」
どうしてそんな言葉が彼から出てきたのかはわからないけれど、このまま一晩中抱きしめてあげたかった。
前回、渡良瀬くんはソファーで寝た。
夜中に目が覚めて渡良瀬くんの様子を見に行くと、眠れていないことがわかり、そのままベッドに連れていき、布団の中に入れ、代わりに私がソファーで寝た。
明け方、再び目覚めて渡良瀬くんの様子を見に行けば、ぐっすり寝ていて、ほっとしたものだ。
「いいの?」
「いいよ。手を繋いで寝よう」
この家のベッドは大きい。元の持ち主が「自分へのご褒美」として大きなベッドを買ったのだと言っていた。この部屋を借りる際にマットレスだけはへたれているからと買い替えている。
クイーンサイズのベッドに一人で寝る贅沢は、確かに「自分へのご褒美」だと寝てみて初めてわかった。シーツ類がかさばるのだけはいただけない。
一緒に寝るなら、とシーツを替えていると、渡良瀬くんが手伝ってくれた。
「洗う?」
「うん、朝には乾くから」
はぎ取ったシーツを洗面所に持っていき、洗濯してくれた。
洗濯機の使い方も前回教えてある。好きに使っていいよと言ったら、お風呂に入っている間に自分の着替えを洗っていた。今回もシャワーを浴びたときに着替えた服を洗濯している。わりとマメな人らしい。
てきぱき動く渡瀬くんは、なんてことないTシャツにハーフパンツ姿だ。
前回部屋着を貸した際、思いっきり笑ってしまったせいか、今回はちゃんと自分の部屋着を持ってきた。
つい、前回のぱっつんぱっつんなTシャツとぴっちぴちなルームパンツ姿を思い出してしまい、小さく笑いが出た。
「なに?」
「ん、こないだの格好思い出して」
一番大きなものを貸したのに、痩せているから着るには着られたけれど、やっぱり私のサイズでは小さかった。
あからさまにむっとしている渡良瀬くんが面白い。
明かりを落とし、ベッドに入る。
枕はひとつしかないので、渡良瀬くんにはクッションを使ってもらう。
「いい?」
これはさっきとおなじ「いい?」だろうと思い、もぞっと動いて渡良瀬くんのすぐ脇で横になり、彼の胸の上にそっと手のひらをのせた。
まるで添い寝だと思った。
何かで見たことがある、子供がしてもらう添い寝。
渡良瀬くんはすうっとあっけなく眠ってしまった。
すうすうと寝息を立てているのが本当に子供みたいで、胸の上に乗せた手を、ぽん、ぽん、と小さく動かすと、渡良瀬くんの口がかすかに弧を描いた。
渡良瀬くんは絶望的に言葉が足りない。
だからといって、そのたびに聞き返すのも違うような気がしてしまう。
自分でもよくわからないけれど、渡良瀬くんとはこれでいいのだと思う。
終業式が終わり、美紗と真結は今日も部活だ。この夏は二人とも部活に忙しく、去年のように一緒に遊ぶことはできない。うちの高校は受験に専念するために、二年の秋で部活は引退だ。
帰り道、前方に消え入りそうな渡良瀬くんを発見した。うっかりすると暑さでとけてしまいそうな印象だ。
「渡良瀬くん」
声をかけると、驚くことなく振り返る。さすがに慣れてきたらしい。
渡良瀬くんの歩く速度が落ちる。一緒に歩こうという合図だと思う。
「夏休み」
「ああ、んーとね、お盆以外はあの部屋にいる」
「ドラマ」
「続きいつ観る?」
「今日でいい?」
渡良瀬くんが珍しく前のめり気味に食いついてきた。
前回いいところで終わっているのだ。私も続きが気になって仕方がない。
相変わらず教室での接点はなく、今日もこうして見かけなければ始業式までそのままになっていた可能性もある。
「休みに行こうと思った」
「ん、うちに?」
頷く渡良瀬くんはなんとなく必死に見えた。
どうやらそのままにはならなかったようで、ぽわぽわ、と心が弾む。足取りが跳ねるように軽い。
「午前中なら大抵家にいるから、来るのはいつでもいいよ」
寝起きの悪い私は、休みの日の活動は大抵午後からだ。
渡良瀬くんの口元が少しだけ弧を描いた。
「そうだ、渡良瀬くん夏期講習受ける?」
「受けない」
「そうなんだ。私受けようかと思ってたんだけど……」
「受ける」
「本当? 一緒に受ける?」
どの教科を受けようかなどと話しながらマンションの前まで歩くと、「あとで」と言い置いて渡良瀬くんは自分の家に帰っていった。着替えを取りに行ったのだろう。
うちに泊まることを彼の家の人はどう思っているのかが気になる。
私は父には言ってないけれど、真希さんには話してある。真希さんは父の再婚相手だ。
このマンションも元々は真希さんの持ち物だ。父より先に、父の部下であった彼女と仲良くなったのは私で、どうにかして真希さんが父のことを好きになってくれないかと子供ながらに画策したりもした。
「お昼はそうめんでいっか」
こう暑いと食欲が落ちる。
シャワーを浴びながら、今日の夕飯は何にしようかを考える。夜もそうめんでもいいだろうか。暑くてそうめんしか食べたくない。
お湯を沸かし、茹でようとしたところでインターホンが鳴った。渡良瀬くんが映し出される。
玄関ドアを開けると、目の前に差し出されたのは人気ジェレート店の袋だった。
「うわぁ、ありがとう。ここの食べてみたかったんだよね」
くるっと回れ右をして、急いで冷凍庫にしまう。自分でラックからスリッパを取り出した渡良瀬くんが後に続いた。
「そうめんだけど食べる?」
「食べる」
「何輪?」
そうめんの束を見せながら訊けば、渡良瀬くんが少し困ったような顔をして聞き返してきた。
「いくつ?」
「私はひとつ半」
「じゃあ三輪」
そうめんの束を解いていると、背後から「いい?」と遠慮がちな声がかかった。
振り向けば、渡良瀬くんは着替えを手にしており、「いいよ」と答えるとリビングを出て行った。微かに洗濯機の電源を入れる音に続いてお風呂のドアが閉まる音が聞こえてきた。
「もしかして渡良瀬くん、そうめん食べたことない?」
「ある。コンビニ」
なるほど。だから、そうめんの束を見て困った顔をしたのか。
相変わらずおいしそうにサラダ代わりの浅漬けを食べている。好きなのかもしれない。
「そうめん、束になってること知ってた?」
これに少しだけむっとしながら、ずずっとそうめんを啜り、もぐもぐ口を動かし、ごくんとのみ込んだあとで、「知ってた」と答えた。
渡良瀬くんのむっとした顔とお行儀の良さに自然と頬が緩む。
そうめんを食べ終えると、いつもなら少しゆっくりしてから食器を洗い始めるのに、ゆっくりする間もなく食器を素早く片付けた渡良瀬くんは、洗面所で歯を磨いている。
初めて泊まった日、買い置きの歯ブラシを切らしていることを伝えると、鞄の中から携帯用の歯ブラシセットを取り出した。私が使っているのと同じセットで、思わず自分の鞄から取り出して見せ、学校でも歯磨きしてる? と訊けば、頷きが返された。
今日も自分の鞄から歯ブラシセットを取り出し、しゃこしゃこ歯を磨いている。泊まっている間は洗面所のカウンターの隅にそれが置かれることになる。
隣に並んで磨いていると、渡良瀬くんは口を閉じて磨いていた。私は半開きで磨くので、時々だらっと泡が零れ落ちる。慌てて口元を流し、歯磨きを再開すると、鏡に映る渡良瀬くんの目が前髪の奥で笑っていた。
「渡良瀬くん、前髪鬱陶しくない?」
口を順番にすすぎ、顔を上げたときにふと思った。
渡良瀬くんの返事を聞く前に前髪をむずっと掴み、軽くねじりながらポンパドールを作り、スリーピンでぱちんと留めてみた。
「ほら、視界クリア。この方が目が見えていいよ。うちにいるときは嫌じゃなければ前髪上げててよ」
言葉足らずな渡良瀬くんの片言を理解するには、目が見えた方がいい。
渡良瀬くんの目は幅の細い二重だ。目頭より目尻の方が二重の幅が広く、二重というよりは奥二重かもしれない。私は幅の広いもったりした二重なので、すっとして見える二重が羨ましい。
渡良瀬くんの瞳に映る自分を不思議に思う。
じっと目を覗き込んでいたら、期待と不安が混じったように渡良瀬くんの瞳が揺れた。
「ボクが見てもいい?」
「もちろん。きっとドラマも見やすいよ」
急にドラマのことを思い出したのか、渡良瀬くんは急ぎ足で洗面所を出て行った。余程観たいらしい。
ソファーの真ん中、テレビの真正面を陣取りながら、リモコンのボタンをものすごいスピードで連打している。
よいしょとソファーの前にあるローテーブルを脇にどかし、ソファーに座る渡良瀬くんの足元にクッションを下敷きに座る。
「渡良瀬くん、画面の真ん前で観たいでしょ」
これから観る一話は犯人が捕まるかもしれない大詰めなのだ。下から見上げると、見下ろす瞳が「いい?」と訊いてきた。
「私もここでいい?」
聞き返すと頷かれる。私も画面の真ん前で見たい。
「ちょっと、どういうこと? あの人が犯人じゃないの?」
「違う」
「え、なに? 渡良瀬くん、犯人わかってるの?」
「たぶん」
喉が渇いたので麦茶を用意しながら、今見たばかりのドラマの内容が把握しきれず、渡良瀬くんに解説を頼む。
「なんか、警察無能じゃない? 誤認逮捕とか」
苦笑いしながら麦茶のグラスを受け取った渡良瀬くんは、喉を鳴らしながら麦茶を一息に飲み干した。
だめだ、ドラマの内容に興奮しすぎて暑い。
キャミワンピの下に穿いていたショートパンツを脱ぐ。脱いだところで困るほど短くないワンピだ。
再び渡良瀬くんの前に座る。ちょうど足を開いて座っていたので、その間に座ってソファーにもたれ、足を投げ出す。
「ちょっとなんで今更登場人物が増えるの? あの人犯人?」
もう一話見終わり、振り返りながら訊けば、困ったような顔に見下ろされる。
「違う」
「犯人って、どの時点で出てきた?」
「一話目から」
アメリカのテレビドラマは日本のドラマみたいに短くない。ワンシーズン二十話前後ある。
まるで犯人がわからない。
思わず目の前にあるハーフパンツから出ている渡良瀬くんのむき出しの膝に顎を乗せて唸った。
「一話目って誰が出てた? 家族と、友達と、元彼と、刑事と、あと誰だっけ」
「休憩する?」
「する。ジェラート食べていい?」
ん、という渡良瀬くんの返事が聞こえる前に立ち上がり、冷凍庫に袋ごと入れていたジェラートを取り出す。銀色の保冷バッグを開けると四つも入っていた。
「渡良瀬くんはどれにする?」
「どれでも」
どれも食べたい。キッチンで悩んでいると、渡良瀬くんがやって来た。
「半分こしてもいい?」
「いいよ」
食べ合わせも考えて、ミルクとエスプレッソを選んだ。もう二つはヨーグルトとリモーネだ。
二つを冷凍庫に戻している間に、渡良瀬くんはバターナイフを使ってミルクのカップから半分取り出してカップの蓋に置き、エスプレッソも半分取り出すと、先に取り出したミルクのカップの中に収めた。蓋に置いた半分も、エスプレッソのカップにきれいに収まる。
「すごい。器用」
きれいに半分に分かれた白と茶色を眺める。
「溶けるよ」
うん、と返すものの、食べてしまうのが勿体なく思えた。
ソファーに戻り、真ん中に座る渡瀬くんのすぐ横に腰をおろし、そっとカップにスプーンを入れる。丁寧に味わって食べた。すごくおいしかった。
「続き」
「あ、その前に、夕食どうする? ご飯炊く?」
「ピザおごる。続き」
そこまで続きが観たいか。心なしかいつもより早口だ。すでに画面はスタンバっている。
ジェラートのカップを片付け、再び渡良瀬くんの足の間に座った。
「あの人犯人なの?」
「違う」
「じゃあまた誤認逮捕? 警察ってそんなに誤認逮捕ばっかりするものなの?」
「アメリカと日本は違う」
アメリカの場合はとりあえず逮捕するらしい。確かにドラマの中でも二十四時間以内に云々かんぬん言っていた。
「なんかさ、こういうのいいね」
「ん?」
「こうやって、見た内容色々話せるのっていいね。一人だとここまで色々考えずに、次々見ちゃうから。頭使って見てない気がする」
見上げる渡良瀬くんが相槌のように小さく「うん」と頷いた。
テレビ画面は、ドラマのメニュー画面に切り替わっていた。
「私、映画館が苦手で、話題の映画ってレンタルや配信が始まってから見ることが多くて、あんまりみんなの話題に参加できないのね。だからって話に参加するために一緒に映画館に行きたいとも思えなくて……」
だから、こんな風に誰かと同じ画面を見ることは少なく、今までは真希さんくらいだった。
「なんか、渡良瀬くんがいてくれてよかった」
膝を抱えながらそう呟くと、背後に渡良瀬くんがソファーから身体を落とし、後ろからぎゅっと抱きしめられた。どくん、と胸が鳴る。
「ボクはいてもいい?」
「うん。いてくれないと困る」
もしかしたら、前に言っていた「ボクはいる?」の答えだったのかもしれない。
きっと私は、もうこの時点で君に恋をしていたのだと思う。
今までにない腕の力で抱きしめられて、胸が騒いで仕方なかったから。
恋はもっと劇的な化学反応のようなものだと思っていた。
雷に打たれるような、電気が走るような、そんな衝撃的なものだと思っていた。
こんな風に、静かに熱がこもっていくような、熱が染み込んでくるような、じわじわともどかしいものだとは思わなかった。
そっと、抱きしめられている腕に手を置いた。
背後の渡良瀬くんから力が抜けた。もたれかかる重さが、彼の足りない言葉を補ってくれた。
どうして君がそんな風なのか、私にはわからない。
いつか話せるようになればいい。
いつか話せたらいい。
それまでは、君の足りない言葉を君の中から宝探しのようにひとつひとつ見付けていきたい。