ぼくはいつも、きみからうまれる
第一話 「ボクは幽霊なんだ」「ボクは幽霊なんだ」
そう言って痛々しく笑う君に、私は恋をした。
正直に言おう。初めは何もわからなかった。
確かに彼は存在していなかった。
彼の言う通り、彼は幽かな存在だった。
この学校ではホームルームや授業の前に欠席者の確認しかしない。
中学の時は朝のホームルームで一人一人名前を呼び上げて出欠の確認をしていたせいか、最初の頃は不思議な気がした。
「今日は小山が休みか。そういやあ、風邪だって連絡あったな。あーあ、皆勤逃したかぁ。なんだ、風邪流行ってるのか? 気を付けろよ」
誰に宛てたでもない言葉を振りまきながら、担任が出席簿に記入してたことを思い出し、日誌の欠席者の欄に「小山」と記入する。
その日の私は日直で、放課後までに提出しなければならないプリントをクラス中から集めたにもかかわらず、何度数えても一人分足りず、提出していない誰かに苛つきながら、その人物を特定しようと、日誌に貼られた名簿をチェックしていた。
そこで私は、初めて彼の名前を知った。
高校二年、一年からクラス替えなく持ち上がった、春の終わりのことだった。
「わたらせ、しゅん? かける? こんな人いた?」
名簿の最後にあった、渡良瀬 駿、という文字。一年以上同じクラスにいて、初めて知った名前だ。
仲のいい子たち以外は名字しか知らない人もいる。ほとんど話したことのない人もいる。名字すらうろ覚えの人もいる。
それでも、まるで知らない名前があったことに驚いた。
放課後の教室には、もう誰もいない。慌てて教卓に貼られている小さな座席表を見に行けば、確かに窓側の一番後ろに四角で囲われた渡良瀬という名前がある。廊下側の後ろから二番目には、同じく四角で囲われた自分の名前もある。
座席表から顔を上げ、一段高くなっている教壇から教室を眺める。
傾きかけた日射しに埃が浮かぶ静けさの中、自分の席にはプリントの束、そして、渡良瀬、と書かれていた席には、黒のバックパックがかかったままだった。
まだ校内にいる。
「部活?」
呟いた自分の声に首を傾げる。だとしたら部室に鞄を持っていくはずだ。何かの委員会か、だとしても鞄は持っていくだろう。わざわざ教室に戻ってくる人は少ないように思う。
席に戻り、プリントの束を持ち上げる。いつもなら担任にそのまま提出して終わりにする。
提出期限を守らない人が悪い。自分には関わりのないことだ。
そう思いながらも、今更ながら知った「渡良瀬駿」という名前を持つ人物が気になって仕方がない。
いまのいままで気付かなかったことが信じられない。間違いなく毎日同じ教室の中にいた。欠席者として教師たちの口からその名前を聞いた記憶はない。
プリントの束を机に戻し、椅子に腰をおろす。
日誌をめくっていくと、記入者の欄に渡良瀬という名前が記された日があった。
丁寧に書かれていた文字は少し薄く、読みやすいけれど決して達筆というわけでもなく、どちらかといえば角張っている。ひと言欄には「特になし」の文字。
今日のページに戻って、同じように「特になし」と記入した。
鞄があるということは、そのうち戻ってくるはずだ。
どんな人なのか興味があった。ただ、見てみたかった。
ぼんやりと窓際の一番後ろの席を眺める。記憶を探っても、その席にどんな人が座っていたかの手がかりはない。過去のどんな場面を思い起こしても、浮かんでくるのは数少ない仲のいい子たちしかいない。
誰かに訊いてみようか。
不意に思い浮かび、携帯電話を手にしたものの、即座に否定した。自分で確かめたかった。どうしてか一人で確かめたかった。
プリントの束に目を落とす。話しかける理由はある。
とくん、と胸が鳴った。
緊張し始める自分が不思議で、頭の中で何度も話しかけるための台詞を繰り返し練習した。
ぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえてきた。
びくっとしながら急いでプリントの束を手に、立ち上がるべきか、座ったままでいるべきかを迷っているうちに、教室の前のドアから顔を出した人物が声を上げた。
「あれ? 花歩何してるの?」
「びっくりした。なんだ、美紗かぁ」
心臓が止まりそうなほど緊張していたことに自分でも気付かず、胸に手を当て、大きく息を吐いた。
「なんだとはなんだ。あ、そっか、花歩今日日直だったっけ」
机の上にある日誌を目にした美紗が勝手に納得した。ジャージ姿の美紗は陸上部だ。
「そう。美紗は? 部活じゃないの?」
「机の中に課題のプリント忘れたの思い出して。ランニングの途中でサボりついでに寄った。あったあった」
机の中をごそごそと漁っていた美紗は、目的のものを見付けると、じゃーねー、と声の余韻を残し、再びぱたぱたと軽い足音を立てながら教室の外へと消えていった。
音が消えた途端、今まで感じなかった静けさがいきなり迫ってきた。
日が傾きだした教室は、確実に光りを失っていく。
突如、知らない空間に放り出されたような心細さに襲われた。
誰もいない教室に身震いする。
心細さがまるで裏返り色を変えるオセロのように恐怖の面積を増やしていく。
ひたひたと不気味な足音まで聞こえてくるようで、慌てて帰り支度を始めた。
日誌の上にプリントを重ね、席を立とうとした瞬間、ガタッ、と教室のドアが鳴った。
思わず、ひっ、と引きつった悲鳴を上げ、慌てて後退ろうとしたところで、人の姿が目に飛び込んできた。
「びっくりした。幽霊かと思った」
驚きのあまり、考える間もなく思考が口を衝く。
相手も驚いたのか、動きを止めていた。
見知ったブレザーに気付いた途端、怖がりすぎていた自分がおかしくて、思わず笑い混じりに安堵の息を吐く。
誰だろう、と思っているうちに、その男子は俯いたまま再び動き出し、机の間をひたひたと歩いて、あの窓際の一番後ろの席にあったバックパックを手にした。
「渡良瀬くん?」
思わず呟いた声は予想以上に教室中に響き、バックパックを手に俯いていた顔が弾かれるように上がった。
「よかった。今日提出のプリント、あとは渡良瀬くんだけなの。ほら、校外学習の」
ああ、と声に出してはいないものの、そんな空気が彼から漏れた。
ファスナーの音の後に、ごそごそと探るような音、乾いた紙の音が続き、ひたひたと足音が近付いてきた。
黙って差し出されたプリント。少し角張った文字はさっき見た日誌にも存在していた。プリントを持つ指は長い。思わず自分の指と比べてみたくなった。
「おい! そろそろ帰れよ」
びくっとして、思わず差し出されていたプリントの先にしがみつく。
「ちょ、もー、びっくりした。三回目だよ、もう」
「二見! お前まだいたのか。明るいうちに帰れってあれほど言ってるだろう」
今度は担任かと胸をなで下ろす。
「今日日直だったんですよ。あ、先生、ついでに日誌とプリント」
プリントを受け取ろうとして、その先の腕を掴んでいることに気付き、三度の驚きから痛みっぱなしの心臓が一際、どくん、と脈打った。
「ごめん」
慌てて手を離し、プリントを受け取り、プリントの束の一番下にそれを入れ、日誌とともに窓際で戸締まりを確認している担任に渡しに行く。
「今日これから職員会議なんだよ」
「大丈夫ですって。まだそんなに暗くないし」
「お前なー、なんかあったら俺が怒られるんだぞ」
席に戻り、所在なげに立ち尽くしている渡良瀬くんを見上げる。
「あっ、じゃあ、彼に送ってもらうんで大丈夫です」
職員会議が終わるまで待て、と言われる前に先手を打つ。
「二見、付き合ってる男なんていたか?」
「付き合ってるとは言ってません」
「頼むから変な男にひっかかるなよ」
担任の失礼な物言いにむっとする。
「変な男じゃないし、ひっかったりもしません」
「気を付けて帰れよ。家に着いたら連絡しろ」
「先生、誤解を招きそうなのでやめてください」
お前なー、と呟いている担任を背に、事情がわからず戸惑っている様子の渡良瀬くんの袖口を軽く摘まんで合図し、教室から出て昇降口に向かう。
「えっと、ごめんね。言い訳に使わせてもらっただけだから」
並んで歩くと、背が高いことに気付く。
高校に入った途端、男子たちの背がぐんぐん伸び出し、いつの間にか男の子から男の人へと変わっていく。中学の頃はまだ男の子と男の人の中間くらいの存在だったのに。
「送る」
かすれた低い声は染み込むような優しさをもって響いた。
「え? 大丈夫だよ」
「でも……」
確かにさっきの担任の様子を見ていたのなら、心配になるかもしれない。事情を知ったとして、彼は人に言い触らすタイプではないように思えた。
「私ね、ちょっと色々あって一人暮らししてるのね。それで心配なんだと思う。歩いて十五分くらいだし、大丈夫だよ」
そう言って見上げた渡良瀬くんの顔が少し淋しそうに見えて、断るのも悪いような気がしてしまう。
「じゃあ、えっと、途中まで、あっ、渡良瀬くん家どこ?」
「桜ヶ丘」
ぼそっと呟かれた地名は、確かうちの少し先だったはずだ。
「うちは桜町だから……」
「送る」
この辺は桜のつく地名が多い。桜ヶ丘に桜町、桜台に桜堤、覚えていないだけでほかにもある。
「じゃあ、お願いします」
そう言った瞬間、渡良瀬くんがほっとしたように見えた。
並んで歩く二人の間に会話はない。
いつもなら、何か話さなきゃ、と必死になって言葉を次々繰り出さずにはいられないのに、どうしてか、渡良瀬くんとの沈黙は苦痛じゃない。
渡良瀬くんの雰囲気が、どこか掴み所のない曖昧な感じだからかもしれない。
「あ、今日ご飯なんにしよう」
まるで一人でいるような感覚に、つい考えていたことがそのまま口を衝く。一人暮らしをするようになって、独り言が増えてしまった。
「食べて、いく?」
かすれた声に、一瞬、何を言われたか、誰に言われたか、誰に言ったのか、その言葉に繋がる全てがわからなくて、思わず立ち止まってしまった。
ご飯を、食べていくかを、渡良瀬くんが、私に、訊いた。
答案用紙の空白に埋め込むかのようなばらばらの言葉が頭に浮かんだ。
「渡良瀬くん、家でご飯食べないの?」
「一人」
「渡良瀬くんも一人暮らしなの?」
それに曖昧な表情が返された。ご両親の帰りが遅いのかもしれない。
「うーん、でも、今月はあんまりお金使えないんだよね。来月校外学習があるから……」
「おごる」
どうしてか、長めの前髪の奥に見える渡良瀬くんの目が、今にも泣き出しそうに見えた。
「おごられるのはちょっと……」
さすがにそれはどうかと思う。おごられる理由がない。
「あ……」
立ち止まってしまった私の横で、何かを言おうとした渡良瀬くんの目があたりを彷徨い、どこにも行き場がなかったのか、すっと諦めるように視線を落として俯いた。
それがなんだかとても淋しそうに見えて、どうしてか彼と一緒に食事をしなければならないような気にさせられた。
「あんまりおいしくないかもしれないんだけど、ご飯、うちに食べにくる?」
またもや弾かれたように顔が上がった。驚いたのか目がまん丸だ。
「嫌じゃなかったら、だけど」
「いいの?」
「うん。でも、本当においしいわけじゃないよ?」
はにかむように笑う渡良瀬くんを眺めていると、つい衝動で誘ってしまったこともあながち間違いではないような気がしてくる。
あれほど気を付けるよう言われていた一人暮らしも、なんとなく、渡良瀬くんなら大丈夫な気がした。
嫌な予感はしていた。
校外授業の選択コースは三つ。ミュージカル鑑賞、歌舞伎鑑賞、美術鑑賞だ。ミュージカルも歌舞伎も席は四十席ずつしかなく、人気が集中した場合は抽選になると聞いていた。
仲のいい美紗と真結と一緒にミュージカルを希望し、私だけが抽選からあぶれ、強制的に美術館コースへと変更された。
「美術館コースって誰がいるの?」
「誰だろう。どっちにしても一人で回ろうかな。ああいうのってわりと自分のペースで見たくなるし……」
不安から声が萎んでいく。
「あー、それわかるかも。素通りするのと、じっと見ちゃうのとかあるよね」
「私、絵より額見ちゃう」
美紗と真結の会話にほっとする。
比較的マイペースな私は、うっかり気を抜くと他人と合わなくなりやすい。その点、美紗も真結も自分のペースを持っているタイプなので、こういうときにわかってもらえる。
何もかも一緒じゃなきゃダメな付き合いじゃないのが助かる。
校外学習当日、校庭に並ぶバスを少し離れた位置から眺め、どうしようかと思いを巡らす。
「花歩、バス乗らないの?」
真結の声に、うーん、と唸りを返した。
「あ、わかった。うん、最後に乗りなよ。どうせ空いてるの前の方の席だから、着いたらとっとと降りちゃえ」
「わかった?」
「え、私わかんない」
なになに? と美紗に訊いている真結に、美紗が答えを出す。
二人ともいつもとは違い、ミュージカル鑑賞に合わせてスカート姿だ。抽選にあぶれなければ、私も同じようにいつもよりもおしゃれをするつもりだった。そう、三人で話していた。
「ほら、ここで話しかけられちゃうと、一緒に回ることになっちゃうでしょ」
「あー、それね。どうせ一人なら自分の好きに回りたいよね」
正解を引き当てた美紗に頷き、気持ちを代弁してくれた真結にも頷く。
「一緒じゃないのが悔やまれるね」
「あとで感想教えて」
淋しさを紛らわしながら笑えば、美紗も真結も残念そうな顔をする。本当に残念だ。自分のくじ運の無さを恨む。
「ぎりぎりまで一緒にいるよ」
「でもそれだといい席座れないよ?」
二人が乗るはずのバスを見ながらそう言えば、いいのいいの、と美紗も真結もなんてことない顔で笑う。正直ありがたい。話しかけられてしまうと断れない自分を簡単に想像できてしまう。
「二見なー、友達増やすいい機会だろう」
背後からかけられた、明らかに話を盗み聞いていたであろう担任のやる気のない声に、美紗と真結が顔を見合わせた。
「ちょうどいいじゃん、先生の隣に座ればいいよ」
「花歩ほら、車酔いするじゃん」
美紗に続いて、わざとそう声を上げた真結がにやっと笑う。
私が車酔いなどしないことを知っている担任の仕方なさそうな顔に思わず笑う。
「チケット配るの手伝えよ」
そう言いながら、自分が引率するバスに歩き出した。慌てて美紗と真結に手を振り、担任の後に続く。
大きな公園内に、日本を代表するふたつの美術館が存在している。
今日一日公園内から出ないことを条件に、自由に観覧していいことになっている。追加で入館料を払えば、園内の博物館や動物園などを観てもいい。
ただし、あとでレポートを書かされるので、何も観ずにサボることはできない。
急いでバスを降りようとしていたら、逆に担任にわざとらしく引き留められた。
「こういうときはな、後から行った方がいいんだ。後ろから声かけられたら思わず振り向いてしまうだろう」
「前から話しかけられたら?」
「話しかけられそうになったら、あ、忘れ物! とかなんとか言って引き返せ」
なるほど、と納得しながら、揃いのベストが散っていくのを眺める。
「よし、そろそろ行け」
「先生、ありがとね」
おう、の声を背中で聞きながら、バスを降りる。緑が眩しい公園の木々を眺めながら、ゆっくり歩く。
のんびりと自分のペースで館内を巡り、ようやくひとつの美術館内を見終わった頃には、お昼をとっくに過ぎていた。
どこでお昼を食べようかと思案しながら、正面玄関を出たところで、前方に陽炎のような渡良瀬くんを見付けた。
ひと月ほど前にうちで一緒にご飯を食べて以来、特に話しかける用もなく、そのままになっていた。
「渡良瀬くん?」
ぼんやりと立ち尽くしている彼に声をかけると、驚いたのか大袈裟なほど肩を跳ね上げ、ものすごい勢いで振り向いた。
「ごめん、びっくりさせた?」
バスを降りる際の担任の言葉を思い出す。確かに後ろから話しかけられると思わず振り向いてしまうようだ。
隣に並んで渡良瀬くんの様子を窺う。
顔立ちは全体的に整っているとは思うけれど、目立つほどでもなく、なんとなく印象に残らない。髪をもう少し切れば印象は変わりそうな気もするけれど、だからといってとびきりのイケメンになるわけでもなさそうだ。
至って目立たない印象。ついさっきも陽炎のようだと思ってしまった。
背は男子の中では少し高め。痩せ型で洋服のセンスも普通。清潔感はある。
うちの高校は数年前まで私服だったものの、不審人物が校内に紛れ込む事件が発生し、学校指定のブレザーかベストの着用が義務付けられた。それさえ着ていれば、あとは何を着てもいい。六月を過ぎた今はベストを着用している。
渡良瀬くんは紺色のベストの下にボタンダウンの白いシャツ、ブラックジーンズとスニーカーだ。私も似たようなもので、余程おしゃれな人じゃない限り、みんな動きやすいラフな格好だ。
ふと目に入った彼のスニーカーのロゴマークが自分の足元と同じで、笑みが溢れた。
「私これからお昼なんだけど、渡良瀬くんはもうお昼食べた?」
「これから」
渡良瀬くんの背後、少し先に空いているベンチを見付けた。
観光地でもあるせいか、平日だというのに人が多い。当然ベンチは争奪戦だ。
「渡良瀬くん! ベンチ空いてる!」
これを逃したら再び空きベンチを見付けるのは至難の業だ。せかすように彼の腕を軽く叩き、ベンチに向かって駆け出した。
ベンチにたどり着き、椅子取りゲームのごとくお尻をどすんと落とした瞬間、すぐそばに同じくベンチを狙っていただろう人が、あからさまに不満そうな顔で軌道修正した。勝った。
早足で近付いてくる渡良瀬くんに勝ち誇った笑みで手を振る。
「あの人も狙ってたんだよ」
歩き去る男の人に目を向け、小声でそう言えば、渡良瀬くんが少し笑った。
並んで座り、トリコロールカラーのバックパックから保冷バッグを取り出す。隣からもコンビニのビニール袋が黒のバックパックから出てきた。
「渡良瀬くんはお昼、いつもコンビニのパンだよね」
何気なく見るたびに、自分の席でコンビニのパンをかじっていたような気がする。
大抵の人は学食に行く。お弁当持参の女子は大抵席を合わせてグループごとに食べる。男子はわりと自分の席で食べている人が多い。
私は美紗や真結に付き合って学食でお弁当を食べるか、彼女たちが私に付き合って教室で食べるか、その日によって違う。ご飯だけは一緒に食べることにしている。
「見てたの?」
「別にじっと見てたわけじゃないからね。たまたま目に付いたの」
自分の発言がストーカーじみていたことに気付き、慌てて両手を振りながら言い訳する。
渡良瀬くんが小さな声で「見えるんだ」と呟きながら、ぴりっと音を立てて袋を開け、パンにかぶりついた。少し笑っていたような気がする。
呟きの意味も、どうして笑ったのかもわからなかったけれど、なんとなく聞きそびれたまま、保冷バッグからお弁当を取り出す。
私のお弁当は美紗と真結に言わせるとババくさいらしい。サラダ代わりの浅漬けと梅おにぎりがふたつ、夕食の残りがそれに加わる。
「あ、浅漬け食べる?」
一緒にご飯を食べたとき、浅漬けをもりもり食べていたことを思い出す。
「いいの?」
いいよ、と言いながら、フォーク、箸、スプーンが順に並ぶカトラリーケースから箸を渡すと、嬉しそうに摘まんだ。隣から、しゃくしゃく、とおいしそうに食べる音が聞こえる。
渡良瀬くんは口を閉じて食べる。口を開けながら食べる人が苦手で、彼がそうじゃなくてよかったと思ったのは、ひと月も前のことだ。
「渡良瀬くん、毎日パンだけだと野菜不足じゃない?」
答える代わりに紙パックの野菜ジュースがずいっと差し出された。どうだ! と言いたげな顔に思わず笑う。
「最初にね、野菜を食べると太らないんだって」
テレビで誰かが言っていたことを実践している。浅漬けを分け合って食べてから、大根のそぼろあんかけを頬張り、最後におにぎりを食べる。途中、大根を渡良瀬くんにお裾分けし、おにぎりもひとつお裾分けした。代わりにと差し出されたメロンパンを半分だけ貰った。
もうひとつの美術館に向かってゆっくり歩く。
広すぎる公園に散った同じベストを着た誰かにすれ違うこともなく、途中団体旅行客とすれ違いながら、美術館に足を踏み入れた。
マイペースに展示物を眺めて歩く。
一緒に入った渡良瀬くんの存在はきれいさっぱり忘れていた。思い出したのは全てを見終わったあと、さっきと同じように前方に陽炎のように佇んでいる彼を見つけた時だ。
「渡良瀬くん」
後ろから声をかけると、さっきと同じようにびくりと肩を跳ねさせ、慌てたように振り向いた。
「このまま帰る?」
「帰る」
行きは学校からバスが出たものの、帰りは自由解散になる。
一応十五時までは公園内にいるよう言われているけれど、言った教師も言われた生徒も律儀に守らないことは承知している。
携帯電話に表示された時刻は十五時を半分ほど回っていた。律儀に守る生徒になっていた。
地図アプリを見ながら駅に向かう。
特に会話はない。
同じ速度で歩く。
「私、歩くの遅いでしょ? 先に行ってもいいよ」
「いいよ」
渡良瀬くんは多くを語らない。
かっこいい方の「多くを語らない」ではなく、それ以上言葉が続かない方の「多くを語らない」だ。
電車に乗り、途中で一度乗り換え、運ばれるまま最寄り駅で降りる。
特に内容もない尻切れトンボの会話がぽつぽつと雨だれのように続いた。
「あ、今日って金曜か、ホワイトソース作ろ」
「金曜?」
「そう、ほら、シチューやカレーはお弁当にできないから週末限定なの。ホワイトソースって買うと高いけど、自分で作ると案外安くできて……」
隣からの強い視線に思わず吹き出した。
「渡良瀬くんも食べる?」
「食べる」
嬉しそうだ。きっと私も嬉しい。
一人で食べるご飯は慣れはしても淋しいものだ。食事だけは誰かと一緒がいい。
食った食った、そんな声が聞こえそうな雰囲気の渡良瀬くんは、ソファーの背にもたれてまったりと寛いでいる。初めて来たときはもっと緊張していたように思う。二度目ともなれば慣れるのだろう。
渡良瀬くんはひょろっとしているせいか、あまり男という雰囲気を感じさせない。男子というよりも男の子という感じだ。自分のことを「ボク」と言ったあと、慌てたように「オレ」と言い直し、結局言い慣れているであろう「ボク」に戻ったのも、そう印象付けた所以だ。
ゆったりとした造りの1LDKは、元々は3LDKだった中古物件をリフォームしたと聞いている。
二十畳ほどのLDKと十畳ほどの寝室の二部屋は、一人で住むには贅沢すぎる空間だ。ほとんどの家具や家電はこの部屋の持ち主の物で、私が持ち込んだのは着替えくらいだ。
最初にこの部屋を見た渡良瀬くんは「お金持ち?」と訊いてきたほどだ。
不意に時計を見上げた渡良瀬くんが、そろそろ、という空気を纏って立ち上がる。
帰る渡良瀬くんを玄関で見送るのは二度目だ。
スニーカーを履き、くるっと振り返った彼が、ぽつん、と不可解な言葉を呟いた。
「ボクは幽霊なんだ」
思いの外真剣な声に、冗談みたいな言葉が真に迫って聞こえた。
引き結んだ口元とぐっと握りしめた拳、どんな目をしているのかが気になって、そっと手を伸ばして長い前髪をゆっくりと払う。
真剣な目だった。
よくわからないながらも、このまま帰してはいけない気がして、前髪を払った指先で彼の色を失った頬に触れた。
渡良瀬くんの肌はきれいだ。
ニキビひとつなく、脂ぎってもいない。それが「幽霊」という言葉と相まって、一瞬、陶器でできた人形のように見えた。
渡良瀬くんの指先が、同じように私の頬に触れている。伝わるかすかな震え。
そっと指先を離し、腕を降ろすと、渡良瀬くんの指先は私の頬から離れ、肩に触れ、腕に触れていく。
何かを確かめているような眼差しだった。
初めは、私の存在を確かめているのかと思った。けれど、覚束ない指先がそれを否定する。彼は私に触れることで自分の存在を確かめているようだった。
「いい?」
訊かれたものの、なんの許可を求めているのかがわからない。
「いいよ」
わからないまま、そう答えた。
そっと腕を引かれ、ふわっと空気を抱くように抱き寄せられた。
「ボクは幽霊なんだ」
腕の中に緩く閉じ込められたまま、もう一度、そう言われた。
どういう意味で言われているのかはわからない。ただ、私を抱き寄せた渡良瀬くんは少し震えていた。
正直に言えば、何もわからなかった。
囲われた腕の中から見上げた渡良瀬くんは、いまにも泣き出しそうな顔で、痛々しく笑っていた。
驚かさないようゆっくりと彼の背中に腕を回し、そっと、できる限り丁寧に抱きしめる。
このまま帰してしまったら、渡良瀬くんの言う「幽霊」になってしまうような気がした。
よくわからないけれど、きっと今、渡良瀬くんは瀬戸際なのだと思った。
「渡良瀬くん、今日、泊まっていく?」
抱きしめる腕に力が入り、首元に顔を埋めた渡良瀬くんから、かすかな嗚咽が漏れた。