鳴かぬ蛍
後日談 小雪 ①


「何か聞こえない?」
 そう呟いたきり黙り込み耳を澄ます彼女に倣って、足を止め耳を澄ませば、微かに「くひんくひん」と鳴き声のようなものが聞こえる。
 顔を見合わせ、音が聞こえる公園の植え込みの中をよく見れば、小さなダンボールからその声が聞こえているようだ。再び顔を見合わせ、そのダンボールを開ければ、小さな子犬が三匹、身を寄せ合い、くひんくひんと鳴いていた。
 周りをざっと見渡す。
「捨て犬?」
「みたいだな」
 あまりに小さなその体は、寒さにがたがたと震えていて、茉莉が自分の首元に巻かれていたマフラーを外し、三匹をそっとそれに包んだ。
「近くに動物病院ってあったっけ?」
「たしか、街道沿いにあったはず」
「連れてった方がいいよね」
「そうだな」
 初雪がちらつく今年一番の寒い日、ダンボールに無造作に入れられていた三匹の子犬を茉莉のマフラーにくるんだまま再びダンボールに戻し、ダンボールごと抱えてうろ覚えの動物病院まで急いだ。

 街道沿いにあった動物病院は、診察時間が終わる五分前に飛び込んだからか、他に誰も居らず、すぐに診察して貰えた。
 ダンボールに入ったまま、マフラーにくるまれた三匹を見た獣医は、茉莉の首元を見て顔をしかめた。
「もしかして捨て犬?」
「そうみたいです」
「ご丁寧にダンボールはしっかりと塞がれていました」
 そう、ダンボールはガムテープでしっかりと塞がれていた。しかも一本のテープじゃなく、上下ともHの字のように蓋の隙間を完全に塞いでいた。声が漏れないようになのか、窒息させようとしていたのか。どちらにしても誰かに拾って貰うために捨てたわけじゃない。捨て犬というよりは虐待だ。

 あの公園には、時々そんな風に動物を虐待する者が現れる。このダンボールが発見されたのが茉莉の家の付近なのが気になる。あの辺りは近くに家もあり、街頭も多めに並んでいるはずで、あまりそういうことが起きにくい場所なのに。

 発見場所や発見時の状況を話すと、メモを取っていた獣医が顔を上げ、ダンボールに残ったままの剥がしたガムテープを見て眉を寄せる。
「いいわ。このままこの子たちは預かる。通報もこっちでしておく。私の方でも飼い主を探してみるけど、良かったらあなたたちも探してくれる?」
「いいんですか?」
「あなたたちだって拾っただけなんでしょ?」
 その言葉に茉莉の顔が険しくなる。
「拾った以上、飼い主が現れなければ私が飼います」
「素晴らしい心がけだけど──」
 女性の獣医が薄く笑いながらどこか馬鹿にしたようにそう言うと、急に怖いくらい真面目な顔になり、どこか責めるかのように言葉を続けた。
「こんなに小さくても命なのよ」
「分かっています」
 茉莉もいつになく真剣な顔で頷いている。
 こんな時なのに、覚悟を目に宿した茉莉はとても綺麗だった。その目の奥を覗き込むかのようにじっと見ていた獣医の表情が不意に和らいだ。

「ただ、平日の日中は誰もいないので、そこが心配で」
「それは大丈夫。ちゃんとお留守番出来るわ。心配なときはここに預けてくれていいから」
「分かりました。私一人なのでそれは助かります」
 女医が目を丸くする以上に俺の目が丸くなっているだろう。
「なら尚のこと、ここで……そうね、ふた月は預かるわ。この子たちまだ生まれたばかりだろうから、社会性を身に付けてからになるわね。もしかしたらもう少し掛かるかもしれないけど」
「会いに来てもいいですか?」
 女医がにこやかに笑って頷く。母親と同じくらいの年だろうか。茉莉を見る目が柔らかい。

 その後、今後こういうものを見付けたら、近づかずに通報すること。安易に開封しないこと。安易に動かさないこと。等々を注意された。
 あの時、周りに人の気配は無かった。近くにカメラ等が仕掛けられている様子もなかったと言えば、驚かれた。
「よくそこまで気が回るわね」
「父親がミステリー作家なもので」
 そう言うと妙に感心された。茉莉の目が輝いている。



 動物病院から茉莉を家に送り届ける。動物病院は俺と茉莉の家の間にあり、茉莉の家の方に近い位置にある。
 俺の視線に気付いたのだろう、茉莉が苦笑いした。
「あのね、両親とも海外に単身赴任中なの」
「茉莉はついていかなかったのか?」
「どっちに? ああ、そっか、あのね、お父さんがアメリカで、お母さんはイギリスなの」
 なんだそれ? そんなことってあるのか? 両親ともに単身赴任か。

「最初はお父さんの単身赴任が打診されて、続くようにお母さんの単身赴任も打診されちゃって。二人ともどっちを断るかで悩んでいたから、二人とも行っちゃいなよって勧めてあげたの。二人とも仕事に誇りを持ってたし、代わりになる人もいなかったみたいだし」
 柔らかな表情で語る茉莉に巻いていたマフラーを巻いてやる。細い首元が寒そうだ。
「ありがと。あったかい」
 嬉しそうに笑うから、首元には入り込む冷気を忘れてしまう。目で続きを促せば、心得たように小さくひとつ頷いた。

「私は日本にいたかったから、最初は二人とも私を一人残すことは出来ないって反対してたんだけど、沙緒里の両親が『私たちもついているから』って後押ししてくれたの。私と沙緒里が幼馴染みなように、両親たちも仲が良くって、二人が仕事好きなのも、ちゃんと私に愛情を持っていることも知ってたから、だったらって」
 小さく息を吐く茉莉の口元から、白い呼気が冷えた空気に解けた。

「それが去年の秋の話。元々共稼ぎだったから、一人には慣れているし、家のことは私もやっていたし、毎日二人とスカイプで話してるし。それなりにやってる感じ? ちょくちょく沙緒里やおばさんも来てくれるし」
 一軒家に女子高生が一人暮らしをしているなんて、俺には想像も出来なかった。寂しくないのか、不安じゃないのか、なにより、怖くないのか。茉莉を見る限り、その言葉通りそれなりにやっているのだろう、そこには不安や気負いは感じられない。元々一人で居ることを苦にしない性格だからだろうか。

 両親は夏と冬の年に二回揃って長期休暇を取り、春と秋にはやはり揃って短期休暇を取って帰国するらしい。
「茉莉、何かあったら必ず知らせて」
「ん、分かってる。沙緒里にも良く言われてる」
「あの子犬が茉莉の家の近くにいただろう? 気を付けた方がいい。単に捨てただけならまだしも、あんな風に塞いであるとちょっとな」
「そうだね。あれじゃ……」
 嫌な未来を想像したのだろう、茉莉の言葉が途切れる。
「こないだも野良猫の虐待死が見付かっただろう? とにかく気を付けろよ」
 いっそのこと俺の家に連れて行こうか。茉莉のことは既に話してある。
「大丈夫だよ。今までだって何にもなかったし。うちの辺りは割と安全だよ。むしろ翔悟君が公園突っ切って帰る方が心配」
「俺は男だし……」
 そうだねぇ、と暢気に笑う茉莉がとんでもなく心配だ。曽根にメールしておこう。俺も茉莉もSNSを利用していない。曽根に言わせると「信じらんない」らしいが、あれほど煩わしいものはないと思う。一時試して早々に挫折した。茉莉も似たようなことを言っていた。



 それから何事もなく週末になった。平日はいつも通り過ごし、週末に子犬を見に行くことになっている。茉莉の家まで迎えに行き、揃って出掛ける。しばらくは一人で出掛けないよう言ってある。

「翔悟君は過保護すぎだよ。朝だって迎えに来るし、帰りも送ってもらって、週末まで付き合って貰うのってなんだか悪いよ」
「茉莉は嫌?」
「嫌じゃないけど、どっちかって言うと嬉しいけど、でもそれ以上に悪いなって思う」
「俺も茉莉と一緒に居られて嬉しいから、気にしなくていいよ」
 自分で言ってて照れる。言われた茉莉は更に照れたように顔を赤くして俯いた。
 茉莉自体に危害が加わると言うより、巻き込まれることを心配している。曽根からも彼女の両親に話して貰っている。うちの両親にも話してある。盛大にからかわれたが、それでも真剣に聞いてくれた。
「いざという時は鍵付きの部屋に籠もって、すぐに連絡して」
「分かってる。うちに鍵付きの部屋なんてトイレくらいしかないよ」
「ならトイレに籠もって」
 何とも言えない顔をする茉莉に、「わかった?」と確認すれば、おざなりな返事が返ってくる。もうすぐ両親がクリスマス休暇で帰ってくるからか、そちらに意識が向いているようで、どうにも心配だ。



「もう一匹目の貰い手は見付かったわよ」
 そう教えてくれたのは動物看護士の女性だ。貰い手のついた子犬には首にリボンが巻かれている。

「それからこれ、一応クリーニングには出してあるからよかったらこれからも使って」
 そう言って渡されたのは、あの日子犬たちを包み込んでいた茉莉のマフラーだ。
「ありがとうございます。クリーニング代、おいくらでしたか?」
「いいのよ。ちゃんとこうして様子を見に来てくれたから。見に来ますって言ってそのままの人も多いから」
 そう看護士さんは寂しそうに笑った。

「そうそう、この子たち、多分ミニチュアダックスとチワワのミックスだと思うわ」
「チワックスってやつですか?」
「よく知ってるわね。犬好きなの?」
「はい。でもうちの弟が喘息持ちで」
「それは仕方ないわね」
 案内された従業員の控え室のような部屋に、広めのケージにて戯れているあの三匹の他にももう二匹、柴犬っぽいのとトイプーっぽい子犬が入っている。五つの毛玉がころころとじゃれ合っているのが可愛い。
 茉莉が「可愛い」と言いながら、そっと掌を差し出し、その指先の匂いを嗅がせている。
「きっとこの三匹はあなたの匂いを覚えていると思うわ」
 それを聞いた茉莉は、嬉しそうに指先を舐められている。ちゃんと触る前に手を洗わされ、その触り方まで教えて貰い、いつになく柔らかな表情の茉莉は「くすぐったい」とご機嫌だ。

 お茶を入れてくれた看護士さんに、実は公園に放置されたペットが良く持ち込まれることを聞いた。出来るだけ貰い手を探しているけれど、どうしても無理な場合は従業員やその家族が引き取っていると言う。
 実は今までも公園のゴミ箱に子犬が捨てられることが何度かあったらしい。多頭飼いしている家で生まれた仔を持て余し、公園のゴミ箱に捨てるのだそうだ。信じられない。
「大変じゃないですか?」
「そうね。でも殺処分されるよりは、ね」
 そう言う彼女も既に三匹の猫を飼っていると言う。

 病院の受付には、飼い主募集と書かれている犬や猫たちの写真が張り出されていた。猫の方が圧倒的に多い。
「両親にも了解を貰いましたから、貰い手が見付からなかったときは教えて下さい。かかった費用もお支払いしますから」
「ごめんね。そう言って貰えると助かるわ。佐藤さんは犬飼うの初めて?」
 茉莉が頷けば、「分からないことは何でも聞いて」とその若い看護士は茉莉に笑いかけていた。



 いつまでも笑っている茉莉を睨めば、ごめんごめんと言いながらも笑いが収まらない。動物病院を出る際、喘息の弟がいるならと全身コロコロで隈無く動物の毛や何かを剥がし取られた、その時の姿が面白かったらしい。
「だって、すごく嫌そうな顔でコロコロされてるんだもん」
「別に楽しいことじゃないだろう?」
「そうだけど、翔悟君があんなに嫌そうな顔するの初めて見たから」
 くすくすと笑う茉莉だってコロコロされて笑っていたくせに。
「くすぐったいの我慢すると翔悟君は怖い顔になるんだね」
 誰だってそうじゃないか?
 そもそも俺をコロコロしたのが茉莉だって事と、茉莉をコロコロしたのが俺だって事に問題があるんだ。こう、いろいろと不味いだろう、年頃の男としては。邪な妄想に囚われそうになる。茉莉の体に触れるコロコロから伝わる感触が、不十分すぎて逆に妄想を掻き立てる。ただ背中をコロコロしただけだって言うのに。俺のエロい妄想力が逞しすぎる。

 あれほど穏やかだった関係は、一度茉莉に触れた途端穏やかではなくなった。手を繋ぎ、その頬に触れ、その髪に触れ、スキンシップが増える度にその先を期待してしまう。仲間内には一足飛びにそういう関係になるヤツもいないわけじゃないけれど、茉莉とはゆっくりと進んでいきたい気持ちもある。その一方で時々無性に凶暴な気持ちがわき上がる。
 それでも、茉莉のふわっとしたあの笑顔を見れば、それを俺が守ってやるんだと騎士のような気持ちになる。その喩えが小っ恥ずかしく馬鹿馬鹿しいと思いながらも、その気になってしまう。

「本当にスーパーにも着いてくるの?」
 頷けば「過保護すぎる」と呆れながらもどこか嬉しそうだ。
 茉莉は週末にまとめ買いして保存食を作り置き、毎日の弁当も自分で作っていると言う。最初こそコンビニの弁当だの出来合のもので済ませていたらしいが、それが続くと何を食べても似たような味に思えてくるそうだ。
 仕方なく始めた自炊だけれど、今はそこそこ楽しんでいるらしい。日曜の夕食は曽根の家でご馳走になっているそうだ。

「あっ、そうだ。翔悟君、うちの両親が翔悟君に会いたいって言ってるんだけど……」
 不意にもたらされた言葉に一瞬動揺する。彼女の両親に会う。それを聞いただけで体が緊張に強ばる。
 でも、いい機会かもしれない。茉莉は少し危機感が薄い。何か起きるとは思えないけれど、気を付けるに越したことはない。
「分かった。日にち決まったら教えて」
 不安そうに様子を伺っていた茉莉が、安堵したかのようにその表情を緩めた。
「ごめんね。普通両親に会うってことないよね」
「そうか? 茉莉も今度うちに遊びに来ればいいよ」
「そっか、遊びに行くと会うこともあるもんね」
 そっかそっか、そう言いながら茉莉の足取りが軽くなる。俺より余程緊張していたらしい。

「翔悟君、お昼一緒に食べる? 煮込みうどんにしようかと思ってるんだけど」
「食う。なら早く買い物して帰ろう」
 茉莉の作る煮込みうどんはなかなか旨かった。と思う。
 初めてお邪魔した彼女がひとりで住む家に、色々一杯一杯で、味わうどころじゃなかったというのが本音だ。
 帰り際に初めて抱き寄せた彼女の柔らかさだけが、その日の記憶に強烈に残っている。子犬の可愛さなんて吹っ飛んだ。


   目次次話