硲153番地
風が光るとき二十六回目 夏闌③
「コウは、彼女と連絡を取っていたんだな」
ずっと胸にあった疑念を秀は断定の温度で口にした。
「ああ。悪いとは思ったんだけど、お前が確かに存在している以上、俺は彼女を疑った」
「で、どうだった?」
抑え込んだ秀の声はいつもより低かった。巧はそれに苦笑を返す。
「存在してたよ、ちゃんと。お前以外に興味がないことを除けば、普通の女の子だった」
秀は指先を強く握り込んだ。怒りがないと言えば嘘になる。それよりも強い嫉妬を覚え、秀は握り込んだ指先を意思の力でゆっくり解いた。巧の不安は秀のこういうところに因るのだろう。ほかの誰のことでもこれほど乱れたりはしない。
小さく息を吐く秀を巧は複雑な表情で見ていた。
「俺も頻繁に連絡を取っていたわけじゃない。会ったのだって一度だけだ。彼女、十月にはお前の前に現れるよ」
いつの間にか奥に引っ込んでいたタエが、タイミングを見計らったかのように締めの炊き込みご飯を持ってきた。おこげの香ばしさに二人の男は直前のやりとりを忘れ小さく歓声を上げた。
掻き込むように締めを終えた巧は満足そうに一息吐き、軽く頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「おつまつさん」
満ちた笑顔のタエに秀も「ごちそうさまでした」と声をかける。いつの間にかテーブルの上は片付けられ、ご飯茶碗と引き替えに湯飲みが渡される。至れり尽くせりとはこのことだ。
お茶を啜る二人に「おやすみ」と声をかけたタエが部屋に引っ込んだ。
飲み干した湯飲みを持って台所に行けば、すでに食器は全て洗われ、食器棚に戻されていた。秀はタエに感謝しながら二人分の湯飲みを洗い、布巾で丁寧に拭き上げ、食器棚に戻す。秀は台所の入り口に立つ巧からの視線を背中に感じていた。
部屋に戻ろうと中央の廊下に出れば、いつの間にか秀の部屋の前に巧用の布団が積まれていた。室内ドアとは思えないほど頑丈な電子錠付きのドアを開けると、布団を持ち上げた巧が「お日様の匂いがする」と子供じみたことを呟いた。
「いいな、こんな風に気遣ってもらえるのって」
眩しそうに目を細めながら部屋を見渡す巧の言うことが秀にも痛いほどわかった。
秀にとって家庭や家族というものは未知だ。未知だからこそ、そこに淡い憧れを抱くだけで済む。巧はそこからはみ出てしまったせいか、秀以上に強い憧れを持っている。それでいて女性との付き合いが長続きしないのは、聞いたばかりの施設長の離婚が関係しているからか。
「なあ、俺が彼女と連絡とってたって聞いて、どう思った?」
交代で風呂に入り、布団を敷く。秀の布団もまた、この家に住むときにタエが用意してくれたものだ。
「どうって、普通に頭にはくるよ」
冷蔵庫から持ってきた缶ビールのプルトップを引き上げる。ぷしゅっという軽快でいて間抜けな音に喉の渇きを覚える。週末にしか飲まない秀は、家賃が浮いた分発泡酒ではなく贅沢にもビールを常備している。それを巧は素直に羨ましがった。互いに缶をかち合わせ、軽く顔の前まで持ち上げ、一気に呷る。
「それって、俺が内緒にしてたことや、俺だけが彼女と会ったことに対する嫉妬だろう?」
「ほかに何があるんだよ」
「お前はさ、彼女の気持ちを疑わないわけ? 心変わりしたかも、とか、ほかに好きな人ができたかも、とかさ」
「はあ?」
秀には巧が何を言いたいのかわからなかった。
座卓の上に缶ビールを慎重に置く。タエが使っていないからと貸してくれた座卓は、誰が見ても高価だろうとわかる一枚板でできていた。材が何かはわからないが木目は美しい。当然コースターが座卓の上には用意されている。汚してもいいと言われているものの、極力汚さないに越したことはない。
「そこを疑ったことはないよ」
「だよな、だからこんだけ長い間離れていても想い続けられるんだろうな」
「さっきから何が言いたいんだよ」
「彼女も同じこと言ったんだよ。お前の気持ちを疑ったことはないって。なあ、お前たちはなんでそんなに真っ直ぐ想い合えるんだ?」
心変わりは考えられなかった。気持ちが離れたのではないかと考えることはできても、それが自分以外の別の誰かに想いを寄せることに繋がるとは考えたこともない。それは秀自身がそうだから桜もそうだと思い込んでいるだけだろうか。
「なんでだろうな、気持ちが離れたんじゃないかと不安になったことはあっても、不思議と心変わりを疑ったことはないんだよ」
秀は言いながら自分でも腑に落ちなかった。一般論として十分ありえることだ。むしろそこを疑うべきなのかもしれない。だというのに、秀はこれまでそこを疑ったことは微塵もない。
「どう言えばいいのか……気持ちが離れるというのも、心変わりというのも、たぶん一般的な感覚とは少し違うんだろうな。繋がりが薄れるって言った方が近いのか。単純に、彼女とはどこか繋がってる気がするんだよ、子供の頃からずっと」
巧が声にならない妙な唸りを上げた。
「なんなんだ、お前たち。彼女も同じこと言ってたよ、繋がってるからかな、って」
彼女の声を耳に入れた巧に、秀は怒りにも似た嫉妬がふつふつと湧き起こっていることに気付いた。
「それ以外に言い様がないんだよ。繋がってる気がするんだ、彼女とは、どこかが」
秀の言い方が乱暴になる。
「本当に兄妹じゃないんだよな」
巧のしつこさに秀の怒りが飛散し、代わりに呆れが浮かぶ。
「俺たち似てたか?」
「外見は全く。耳の形も爪の形も似てなかった」
そんな細かいところまで確認するとは、巧は一体どれほど疑ったのか。ふと秀は微かな不安を覚えた。
「同じ光だと、何か拙いのか?」
「わからない。単に俺が今まで見たことがなかっただけかもしれない。双子でもやっぱり微妙に違うんだよ。ってことはだ、逆に同じであることは兄妹じゃないって証拠になるのか?」
巧自身わかっていないような口ぶりだった。
「ほかに光が見える人はいないのか?」
「ほかに風が光って見える人はいたか?」
逆に聞き返され、いないな、と秀は小さく呟く。それを聞いた巧は小さな驚きを見せた。
「彼女は? 彼女は見えないのか?」
「見えないんじゃないか? 子供の頃も同じ光を見ていると感じたことはないな」
黙り込んだ巧に、「なんだよ」と秀は声をかけた。
「同じ光と言えばさ、これ、言っていいのかわかんないんだけど……」
そう前置きした巧は声を潜めた。
「この土地というか、屋敷とか周りの木とか草とか、そういう全部がタエさんと……同じ光なんだよ」
「そういうことも今までなかったのか?」
「ない。そもそも家に光があるなんてこと、今までなかったんだ」
そういえば、巧は「生きものの光が見える」と言っていた。家は生きものには入らない。
「家が生きてるってこと?」
「どうなんだろうな。そんなオカルト的な感じともまた違うんだよ」
「コウは幽霊とかも見えるわけ?」
「まさか、そういう系じゃない。なに、お前は見えるわけ?」
「いや、俺も見えない。あくまでも風が光るだけだ」
男二人から悩ましげな唸りが上がる。
「なんだろうな、光が見えるこの感じ、なんでだかわかるか?」
「いや、ただ見えるって事実があるだけだよ。理由はわからないし、実際何が光っているのかもわからない」
「だよな」
巧がぐびっとビールを呷った。秀も同じように喉に流し込む。
「なんか、すげー気が楽になった」
ゲップを吐き出した巧は、「失礼」と言いながら気の緩んだ顔で笑う。
「俺も。今まで誰にも言ったことないよ」
「あー、俺ガキの頃はみんなも見えてるもんだと思って普通に光のこと話してたらすげー気味悪がられたんだよ。なんだよ、お前にはもっと早く打ち明ければよかった」
巧はぐたっと身体の力を抜いた。そのまま寝てしまいそうな雰囲気に、秀は表情を引き締める。
「で?」
硬い表情の秀を見て、巧が声を上げて大笑いする。
「ちょ、うるさいよ」
「大丈夫だよ、この部屋防音になってるから」
「え、そうなの?」
「そうだよ。ドアも厚けりゃ壁も厚い」
言われてみればそうかもしれない。よく気付くなと秀は巧に感心しながら、涼を取るために開けていた窓を閉め、リモコンのボタンを押した。この部屋にはエアコンが設置されている。しかし、秀は好んで窓を開けて涼を取っていた。実際に窓を開けるだけで杜の冷えた空気や川風が流れ込みずいぶんと涼しいのだ。
「やっと訊いたな」
「やっとってなんだよ」
「ずーっと気になってそわそわしてたくせに」
にやける巧の指摘に秀は顔をしかめる。
「彼女と会ったのは一度きり。彼女の友達も一緒だった。一昨年の秋だったか、むこうから電話が掛かってきた。二年間留学するって」
それでか、と秀はようやく理解できた。物理的な距離が二人の繋がりを頼りないものに変えたのだろう。
「語学留学?」
「いや、逃亡に近いな」
「どういうことだ」
秀の声に険が立つ。
「これは彼女から聞いた話じゃなくて、俺が後で調べたことなんだけど、彼女の資産、結構でかい」
「だろうな」
秀に総額で家一軒買えるほどの慰謝料が振り込まれているのだ、それ以上に遺産があると考えていい。桜の父親が秀よりも少ない遺産を自分の娘に残すとは思えない。
「彼女の養父は弁護士の中でも公明正大で有名な人物だった。実際そうなんだろうと俺も思う」
でもな、と巧の声が曇った。
「その妻は彼女から金を受け取っていた」
秀の中に怒りが湧いた。
あの日、東京駅で風が強く光った日──。
階段で足を滑らせ重度の捻挫を負った養父の東京出張に際し、介助をするはずだったその妻が直前になって腰を痛めた。桜はその代理で養父を介助することになったらしい。
そこで桜は思い切って自分の考えを打ち明けた。自立したいこと。遺産の一部を養父に受け取って欲しいこと。
彼女の話に養父はいい顔をしなかった。特に自立に関しては頑なに反対した。
そこで彼女はつい口を滑らせたらしい。養父の管理する彼女の資産から毎月渡されていた小遣いのようなものを桜はそっくりそのまま彼の妻に渡していた。桜自身は世話になっている以上それを当然のことだと考えていたが、自分が養っているつもりでいた養父は少なからずショックを受けたらしい。
彼女のことを妻に任せきりにしていた養父はそこで改めて事態の深刻化を知り、急遽桜を信用できる者に預けることにした。それがたまたま海外だったらしい。
「たまたま海外ってありえるのか?」
「彼女自身は養父の家を出てお前のところに行こうとしていた」
「だったらなんで!」
「来なかったのかって? 養父に丸め込まれたんだよ。社会人一年目のお前のところに行くのは負担にしかならないって。上手い具合に彼女の通っていた大学と提携を結んでいる大学がその知り合いの住む街にあった。で、そこに編入させた」
「出来過ぎだな」
「俺もそう思う。おそらく養父は最初から考えていたんだと思う。最初から彼女をそこに逃がすつもりだったんだ。じゃなきゃいくらなんでも急遽編入なんてできないよ」
「逃がすって、自分の妻子からか?」
「違うよ。最初から考えてたって言っただろう」
「まさか、俺からか」
「どう考えてもお前からだろう」
なぜそこまで秀はあの養父に嫌われたのか。秀は困惑を通り越して怒りを感じた。
「あのな、これ言うとお前は怒るかもしれないけど、端から見たらお前らの関係ってちょっと歪んでるんだよ」
「どこがだよ」
「全部だよ。俺がお前を見ていて不安になったくらいだ。弁護士である養父も彼女を見ていて不安になったんだろうよ。とりあえず時間と距離をおいて少しでも落ち着かせようと思ったんじゃないか?」
「逆効果だよ」
「今なら俺もそう思うよ。けど、あの時の俺も養父と同じこと考えたからなあ」
そこで巧は居住まいを正した。
「留学前にお前に会いたいって彼女から言われた俺は、それを断った」
秀の怒りが噴き出した。
「余計なことを!」
掴みかかった秀を巧は避けようともしなかった。
「悪かったよ。でもな、お前、彼女に対してだけは怖いくらい不安定なんだ。自覚あるだろう」
この二年、焦がれて焦がれて焦がれて仕方がなかった。成人したはずの桜からなんの知らせもないことに秀は焦った。繋がりにあぐらをかいて、桜との物理的な連絡手段を構築してこなかった自分をどれほど罵ったことか。
巧の躰から振り切るように手を離した秀に、巧はもう一度「本当に悪かった」と謝罪を口にした。
「六月の半ばに、風が光ったんだ」
「たぶんその日だよ、彼女、一度帰国してる。俺は会ってないけどこっちで就職するために一度戻ってる」
「就職なんて……」
「あのな、気持ちはわからなくもないけど、彼女を閉じ込めるなよ」
歪んだ思いを秀は自覚していた。同時に、閉じ込められないことも知っている。桜はいつだって気まぐれに窓をすり抜け、芝に覆われた小さな庭に裸足のまま飛び出していくのだ。いつだって秀は後を追う立場だった。
「ついでに言えばうちの本社だ。うちは新卒の採用がほとんどないから、俺が推薦した。内定は彼女の実力。いわゆる一般職だから転勤はない。勤務は十月一日から。うちって意外とグローバルだった」
彼女が住む国にも支店があったらしい。書類選考や面接などはそこで受け、最終面接だけ日本に戻ってきた。
「証券会社なんだから意外もクソもないだろう」
「うち弱小だし」
「全国に支店があるくせになにが弱小だよ」
「全国って言っても数えるほどだろ」
そういえばと思い出した。元々巧の会社は創業が京都だ。現在は便宜上東京が本社になっているが元々関西支社が本社だったのだ。
「本当に栄転だったんだな」
「何を今更」
「いや、推薦できるくらい発言力があるんだなって」
秀は巧から一年遅れの入社とはいえ、一年後の秀にそこまでの発言力はないだろう。
「最近はどこもコネだよ。お前だってコネみたいなもんだろう」
奨学金を出してくれた会社の担当者との縁で声をかけられた。返済義務も就業義務もない民間の奨学金の中でも手厚い給付金を出す企業だった。
「それこそ孤児枠があったんだよ」
あったら面白いな、と巧が笑った。
「ま、お前成績良かったし順当だよ。社会に出たら孤児なんて関係ないだろ」
「まあな。最終的に役員秘書になれって言われたときは孤児なのにいいのかってびびったけど」
孤児に対する一般的な偏見を秀は正しく理解している。
「ポジションによっては変な繋がりのない人間の方がいいんだろうよ」
「そうかもな」
秀自身は孤児だからと卑下することはない。卑下するほどの経験がないのだ。施設は常に清潔で健全だった。学校で多少いじられたことはあっても傷付くほどいじめられた記憶もない。早々に巧という親友ができたことも大きい。
「彼女、今も遺産の一部を養父に渡す気でいる」
「いいんじゃないか」
秀は桜の遺産を当てにしたことなどない。あれは桜以外が使っていいものではない。
「でもまあ、あの養父なら受け取りを渋るだろうな」
巧の考えに秀も同意する。
「弁護士で公明正大なら儲からないんじゃないか?」
「よく知ってるな。実際事務所の経営状態はあまりよくない」
「調べたのか?」
「まあな。だから彼の妻は彼女から金を受け取っていたみたいだ。自分の娘も彼女と同じ大学に入れたかったらしい」なんともやりきれない顔で巧みは続けた。「今や弁護士も世に溢れてるらしい。あの経営状態なら娘のこと抜きにしても多少は受け取らざるを得ないだろうよ」
「それでも受け取らないんじゃないか? 何度彼女からの慰謝料は要らないって言っても振り込まれ続けたんだ。いくらでも俺を丸め込んで自分の懐に入れることもできたはずなのに。おまけに経済情勢を鑑みたとかで高校に入るときに額も増やされた」
秀が知る桜の養父はそれがどういう金か知っている。受け取るとは思えない。
「どっちにしろ、彼女は遅くとも九月中に日本に帰ってくるよ」
「どこに留学してたんだ?」
「イタリア」
なぜイタリアだったんだ、という秀の疑問を察したのか、巧が答える。
「養父の姉がイタリアにいるんだよ。あと、彼女の母親もイタリアに留学していたらしい。声楽家だったみたいだ。その影響なのか、彼女、子供の頃はイタリア語しか話せなかっただろ。日本語の方が第二言語だ」
そういえば、と秀は記憶を探った。後になってわかったことだが、桜の母親が時々口ずさんでいたのはアリアだった。今の秀がはっきり思い出せるのはメロディだけで、歌詞は音の抑揚でしか頭の中で再現できない。あの頃は意味などわからずとも正確な歌詞を覚えていたはずなのに、いつの間にか思い出せなくなっている。
「でも彼女、日本語の読み書きはできていたはずだよ」
「みたいだな。日本語を理解はしてたけど上手く話せなかったって、本人が言ってた」
秀と桜は言葉を介したコミュニケーションをとっていなかったせいか、桜がイタリア語しか話せなかったことを秀は知らなかった。
彼女のことを知らなすぎる。彼女の感情以外のほとんどを知らない。秀はようやくそれに気付いた。