硲153番地
風と光の景色遺された激情
「カオリ?」
「そう、Kaori Muroyamaって女性がそのHaru Moriyamaってカメラマンのパートナーだったんじゃないかって。彼女、オペラ歌手だったみたい」
日本より海外での活躍が主だった二人の名前は、漢字よりアルファベット表記の方が多く散見される。得てして活動の場である国と出身国の評価はイコールではない。二人とも欧州での知名度はそれなりでも、日本では無名に等しい。知る人ぞ知る、といったところだ。
「オペラ歌手……」
そう呟いたまま口を閉ざした男は、女が差し出した書類の束を受け取り、ウォルナットのカフェテーブルに思案顔で肘をつき、時折指先で顎を撫でながら、一枚一枚時間をかけて目を通していった。
窓の外ではぽつぽつと降り出した通り雨が日の光に照らされながらアスファルトを叩いている。
昔ながらと今どきの間のような中途半端に瀟洒なコーヒーショップは、平日の昼下がりのせいかゆったりとした気配に満ちていた。余程耳を傾けなければ聞き取れないほどのジャズが漂っている。すっかり飲み慣れてしまったペーパーカップではなく、カップ&ソーサーに注がれたコーヒーを口に含み、丁寧にネルドリップされたまろやかさを味わいながら、女は目の前で真剣な顔をしている顧客を何とはなしに観察する。
同年代の男たちよりも若々しく見えるのは、報道という特殊な世界で生きているからか。それともラフな服装のせいか。見た目よりもずっと生真面目な性格なのはこれまでの付き合いから知れている。
女は興信所のパート社員であり、男の大学時代の同級生でもある。
女は元々正社員として働いていたのだが、結婚し子供が生まれるタイミングで一度退職している。再度仕事を探し始めた際にパート社員として再雇用された。ただし、正社員時の給与を時給換算してくれているため、そこそこ稼げている。
「じゃあ、あの写真の女性は……」
「あなた記憶が正しければ、たぶんこのカオリさんなんじゃないの?」
「証言が少ないな」
「ほとんど日本にはいなかったみたいだからね。彼女、毎年かならず日本のチャリティー・コンサートに参加していて、その主催者の証言だから間違いない。その人、カオリさんとは同じ音大だったらしくて、その伝手で招待できたって話。活動が主にイタリアだったせいか、日本では一般的な知名度はそれほどないんだけど、イタリアでは当時そこそこ知られていたみたい」
なんだったっけ、と口に出しながら小山 麻里は男に渡した書類に視線を投げつつ、まあいいかと言わんばかりに再度口を開いた。
「なんて名前だったかはそこに書いてあると思うけど、その有名なディーバの舞台に必ず招かれていたみたい」
「招かれて?」
男が怪訝そうに軽く眉を寄せ、書類に視線を落とす。男の長い睫が目元に影を生む。
「そう。その辺ははっきりしないんだけど、オーディションで選ぶんじゃなくて、主役の次に大事な役を毎回指名されていたみたい」
「バイプレーヤーってことか?」
「たぶんね。まあ、本人にしてみればプリマドンナになりたかったんでしょうけど、東洋人ってことがハンデになる世界なわけだから、有名なディーバに指名されるってすごいことなんじゃないかな」
「まあ、歌舞伎や能楽の舞台に外国人が立つようなものだろうからなあ」
「そんな感じなのかな。それでも毎回指名されていたってことはそれなりに実力があったってことでしょ。ほら、見た目も華やかだし、背も高いし、オペラ歌手じゃなかったら日本のあの歌劇団でも通用しそうじゃない?」
男に渡した書類を何枚か捲り、後半に添付されているカラーコピーを小山が指差す。
「美人よね」
Kaori Muroyamaの舞台衣装を纏った姿は西洋人の中に混じっても引けを取らない。東洋人にしては鼻梁が高く、ぱっちりとした目は愛らしくも涼やかで、可憐な口元は柔らかに弧を描いている。舞台メイクを落としたスナップショットを見ても、芸能人かと思うほどのオーラがある。
雨音が店内のジャズの音色を押しのける。窓の外では傘の花が咲いていた。
「カオリ・ムロヤマってどんな字を書くんだ?」
何年もかけて探していたという割に、男はこの美人に今一つ興味が湧かないようだった。
「ん? どこかに書いてない?」
「書いてないから聞いてるんだよ」
軽くむっとした表情を見せながら男が書類を小山に差し出した。
「あれ、書き忘れてる?」
渡された書類をぱらぱらと捲っていた小山は、おどけた表情で誤魔化しながら、バッグから取り出した愛用のモンブランで余白に「室山 香」と書き付けた。
「まだそれ使っているのか?」
小山の手に馴染んだモンブランのボールペンは、彼女の誕生日にかつて男が贈ったものだった。
「ん、まあね。やっぱり書きやすいし、手に馴染んじゃったし」
小山は気持ちがいいほどのすっきりとした笑顔を見せる。
「私ってほら、モノと元カレは分けて考えるタイプだから」
「お前……相変わらずだな」
呆れた男の呟きにも小山の笑顔は揺るがない。
「褒め言葉ってことにしておくわ。大体あなただって元カノの事務所と未だに仕事してるじゃない」
「褒めてないだろ。それに俺の場合は仕事だ」
呆れを強めた男に小山はいよいよ笑みを深めた。
小山の勤める興信所には調査員の他にカメラマンも在籍しているが数は少ない。手が足りなくなると外部のカメラマンを雇うこともあり、男もその一人だ。
元々男の依頼は所長自ら手がけていたのだが、一週間前にぎっくり腰になり、代わりに調書のまとめと顧客への報告業務が小山に回ってきた。
「で、矢部くんは? まだ結婚しないの?」
「結婚も何も、そういう相手自体がいない。そっちこそ、再婚しないのか?」
「んー、結婚はもういいかな。子供がいれば十分。理解ある職場だしね」
小山はどうして矢部 正樹と別れたのかを考えていた。どうしても思い出せない。自然消滅したのだったか、と考えるも、それもしっくりこない。
「ねえ、私たちってどうして別れたんだっけ?」
「さあ。ある日いきなり私結婚するから、って言われたとき、俺たちいつ別れたんだ? と思った記憶はあるな」
「あー……」
いつまでも語尾を伸ばしたまま、小山の思考は過去に引っ張られる。
なんとなく矢部との関係が噛み合わなくなった隙間に元夫がするっと入り込んだ気がする。今となっては魔が差したとしか言い様がない。元夫はいわゆるモラハラ男だった。
「でも一応訊いたじゃない、私たちって付き合ってるのかなって」
「何当たり前のこと言ってるんだって思ったから、俺は付き合ってないのかって聞き返しただろう」
「あー、それで私、キレちゃったんだっけ。今思うと、なんでキレたんだろう?」
「俺が知るかよ。まあ、俺もはっきりしなかったからなあ」
遠くを見るような矢部を眺めているうちに、小山はふと思い出した。
「ああ、うん、それだ。なんかはっきりしなくて、もういい! って思ったんだ。タイミングよく交際申し込まれてそのままとんとんと」
タイミングよくねえ、と矢部は呟いた。
思い返せば、その時点ですでに元夫に誘導されていたのだろう。当時の小山にはわからなかった。
「で? なんで別れたんだ?」
矢部が好奇心を目に宿し、ほんの少し身を乗り出してきた。報告書の調査員欄には旧姓に戻った小山の氏名が記されている。
「んー、ほら、あなたって私のこと自由にさせてくれてたじゃない?」
「そうか?」
「そうなのよ。付き合っていたときは私もあまり意識しなかったんだけど、元ダンナがね、ちょっと束縛系というか、モラハラ系というか」
矢部が眉根を深く寄せた。
雨足が強る。瞬く間に重い雲が地面との距離を詰め、辺りが鈍色に覆われる。それまでほとんど意識されることのなかった店内の照明が急に存在を主張し始めた。
「手を?」
手を上げられたのか、という意味だろう。この話をした数少ない人たちは必ずと言っていいほど同じことを訊く。
「そこは大丈夫。言葉の暴力だけ」
「だけってお前……」
心配と怒りとやりきれなさが混ざったような矢部の険しい表情を見て、小山はほっとする。自分の選択が間違っていなかったのだと、励まされているような気がした。
「そうなんだけど、私以上に子供がね。自分の思い通りにならないと、もう、ね」
小山が言葉を濁すのは、矢部に知られたくないというよりは、もう二度と思い出したくないからだ。小山の見ていないところで、陰湿に自分の子供を罵っていた元夫の姿は、吐き気を覚えるほど醜悪だった。それを目にした瞬間、元夫にかけられていた呪縛が解け、小山は息子を抱えて一目散に実家に逃げた。
「ごめん、できれば思い出したくないから……」
「ああ、悪い。子供、今は大丈夫なのか?」
「どうかなあ。起きてるときはけろっとしてるけど、未だに夜はうなされたり、泣いたりすることが多くて」
寝ているときは心も無防備なせいか、夫と別れて三年経った今でも息子は思い出したように夜泣きする。昼間は父親の存在そのものを忘れたようにけろっとしているのが余計に心の傷の深さを暗示しているようで、小山がもっと早く気付いていればと、後悔に胸が押し潰される。
「お前は平気なのか?」
「ん、私は大丈夫。ああいう人がいるってことは知識として知っていたし、まさか自分が体験するとは思わなかったけど、まあ、離婚にも割とすんなり応じてもらえたしね」
小山の両親は全面的に力になってくれた。小山の代わりに弁護士と交渉してくれたのは父であり、小山とともに息子のケアに力を貸してくれたのは母だった。
「そういうタイプの場合、拗れるって聞くけど……」
矢部の疑問はもっともだった。
すんなりとは認めない元夫を黙らせたのは、小山が前職を生かしてあらゆる証拠を揃えていたからだ。それを以前仕事で知り合った弁護士に確認して貰い、その結果を元夫に突き付けたところ、すんなり離婚に応じた。義父が常識人だったことも幸いだった。どちらかといえば手に負えなかったのは義母の方で、なるほど元夫の人格形成はこの母によるものかと、反面教師になるほどだった。
「まあ、仕事に助けられたってことかな」
それだけで矢部は察したのか、眉を開いてコーヒーに口を付けた。
小山は意外に思った。証拠をこつこつ集めていたことを元夫も義母も口汚く罵った。常識人であると小山が評する義父ですら嫌悪を隠さなかった。
矢部からはそんなものは微塵も感じない。同じようにこつこつ取材を積み重ねる報道の世界にいるからだろうか。
きれいな別れ方をしたとはいえない元カノが十年ぶりにいきなり現れたときも、驚きこそ見せても不快感を表に出すことはなかった。
再び日の光が射し、雨雲が遠退いていく。通り雨というには強く、ゲリラ豪雨というには弱い夕立だった。
「ねえ、なんでこの写真家のこと調べてるの? あの議員と関係あるとか?」
「ん、ああ、違う。彼とは関係ない」そこで矢部が懐かしむように目を細めた。「俺の原点なんだよ、この人が」
「原点?」
「そう、原点にして頂点だな」
「そんなに凄いカメラマンなの?」
子供のようにはにかんで見せた矢部に、小山の目が見開かれる。
「俺にとってはね。あれほどの衝撃を受ける写真にはそうそう出会えない」
「でも、付き合ってるときそんなこと一言も言わなかったよね」
どこかいじけるような口調の小山に、矢部は年相応の照れを見せた。くるくると表情を変える矢部から小山は目が離せない。
「切っ掛けがなければ話すようなことじゃないだろ。それにあの頃は、まだ諦め切れてなかったんだよ」
自嘲気味に笑う矢部を見て、小山はなんだか懐かしくなった。
大学時代の彼はどこか諦め癖がついているように小山の目に映っていた。よくこの笑みを浮かべていたような気がする。
それが数年ぶりに再会した際、両親の反対を押し切って報道の道に進み、その五年後にはヨーロッパ各地を一年かけて放浪し、再び報道の世界に戻ってきたのだと聞いて、どちらかといえば公務員や研究員にも通じる生真面目さを持つ彼からその経歴は想像できず、そのギャップにやられたことを小山は思い出していた。
「諦めきれなかったって、写真家になること?」
「才能ないってわかっていたんだけど、どこかで諦めきれなくて、なんとかならないかって心の内では足掻いていたんだよ。そんなのかっこ悪くて言えないだろ」
「今は? 今は諦められたの?」
小山がカフェテーブルに肘をつき身を乗り出す。
学生の頃や付き合った頃には見られなかった落ち着きが今の矢部にはある。年を重ねるとともに矢部を取り巻いていったのか、何かの切っ掛けがあったのか。それでいて、かつて小山が惹かれたギャップはそのまま残っているのだから、いい男になったと言わざるを得ない。
小山は不意に、今の自分が矢部の目にはどう映っているのかが気になり、カフェテーブルから肘を離し、椅子に背を預けることで粗が見られないだけの気休めの距離を挟んだ。
「諦めるってのがそもそも違うんだって気付かされたんだよ」
最近矢部が追っている議員が関わっているのだろうか。
元々大学の後輩ということもあり、気安く取材に出掛けていったはずが、帰ってきたときにはどうにも気になる存在になっていたのだ、と小山と同じ職場のカメラマンに矢部が話していたらしい。
今や番記者気取りで、矢部さん完全にあの議員に惚れ込んでますよ、とはその同僚のカメラマン談だ。
「あの議員の影響?」
「そうだな。あいつは諦めないんだよ。それでかな、もう一度見たくなったんだ、あの壮絶な写真を」
そのとき、小山は矢部の目に激しい何かが浮かび上がったような気がした。それ以上見ていると引き込まれてしまいそうで、小山は目を逸らし話題を変えた。
「ただ彼女ね、この写真家が亡くなったタイミングで舞台を降板して以降、足取りが掴めないの。日本で亡くなっているらしいってことは、そのチャリティー主催者から聞いているんだけど、いつ日本に戻ってきたのかも、どんなふうに亡くなったのかも、知らないのか教えたくないのか、わかりませんの一点張りで。それにしては、亡くなったのは間違いないってはっきり断言するんだよね」
「なんかあるってことか」
矢部の目が記者特有の光を放った。