硲153番地
風と光の景色
遺された娘②


「こちらが森山 明仄氏に関する契約書の写し、こちらが室山 香氏、そしてこちらが深山 正春氏の関係書類になります」
 宇都見の秘書である内藤は桜に渡された書類をざっと一通り確認すると、客間の大きな座卓の上に書類の束をまずは四つに分けた。そのうちの一つは養父からの連絡事項で、残り三つを一つ一つ指差しながら、内藤はやけにくぐもった声でぼそぼそと説明する。

 森山の写真は現在もオーストリア、ドイツ、ルクセンブルクで広告媒体として使用されており、香はかなり有名なプリマドンナの絶頂期に同じ舞台に立っていたこともあり、いまなお当時のCDやDVDが生産され続けている。深山に関しては特許や出版物が各国に及び、枚数が一番多い。
 養父から届いた書類は、ざっくり言えば、桜の本当の父である森山の写真に関する権利と、母である香の映像と音声に関する権利、戸籍上の父である深山の研究内容に関する様々な権利が全て桜名義に変更される、という知らせだった。これまでは桜の養父である真山がそれらの権利を預かっていたらしい。深山の遺言により、二十五歳の誕生日を以て、全ての権利が桜に移される。
 内藤はそれらの契約内容を素人にもわかりやすく噛み砕きながら丁寧に一枚ずつ説明していった。

「管理はこれまで同様、真山氏一任に異議がなければ、こちらの契約書に署名捺印のうえ真山氏に返送してください。なお、これらに関する費用はすでに深山氏が支払い済みですので、真山氏が管理している限り、桜さまの費用負担は一切発生いたしません」
 正面に座る内藤の説明に桜は神妙に頷く。
 桜の横から物珍しげに書類を覗き込んでいた夏生が「ここでも桜さま……」と微妙な突っ込みを小声で入れ、やけに悟った目をしている。

「桜のお母さん、オペラ歌手だったのかあ」
 桜には、しゃらしゃらときれいな音を纏い、時折かすれた声でメロディを口ずさみ、冷たくて気持ちいい指先を持つ人の記憶がある。オペラ歌手などという華やいだ世界に身を置いていたとは思えないほど、薄らいだ記憶の中にいる女性の気配は寂静だった。もう一人、温かで大きな手のひらを持つ人の記憶もある。声の記憶がほとんどないその男性も、やはり寂静の気配を纏っていた。
 だから桜は、今の今まで二人を一括りの男女だと認識してきたのだ。二人とも同じ世界を生きていた。そこに実の父を加えた三人の間に何があったのか、それを積極的に知ろうと思うほど、遺された記憶は色濃くない。
「おまけに実のお父さんは写真家って、芸術一家のわりに、桜さんのセンスって、ねえ」
 菜乃佳のうっとりと夢見るような呟きに引き込まれ、記憶の波間を漂っていた桜は、続いた夏生のちくちくした物言いに意識が引き戻された。
「夏生ちゃん、言い方」
 桜がむっとすると、夏生は真面目な顔で「センスって遺伝しないのかなあ」と心底不思議そうに首を傾げる。
 支援を受け始めた頃はやたらと丁寧な口調だった夏生も、菜乃佳と一緒に暮らし始めると、瞬く間に彼女本来の話し方に戻っていった。
 桜はむっとしながらも、ふと気になった。
「夏生ちゃんって、そういうセンスみたいなものも遺伝するって信じてるの?」
「うーん……そう言われると信じてないかも」
 夏生はまるで宇宙の神秘を見るような目で桜をじっと見つめる。
「桜さんの微妙なセンスは桜さんならではってこと?」
「だからね、言い方」
 桜の話し方がのんびり聞こえるせいか、嫌味が嫌味に聞こえない、とは会社の先輩談だ。できうる限り視線に嫌味を込めて夏生を見る。
「夏生ちゃんから見たら大抵の人はセンス悪いんじゃない?」
「そんなことないよ、美貴ちゃんはセンスいいもん」
 菜乃佳のフォローを夏生はさらっと躱す。むっとする桜を慰めるように菜乃佳がまろやかな笑みを浮かべた。
 夏生から菜乃佳、菜乃佳から宇都見、宇都見から秀、秀からタエにと伝言ゲームのように伝えられた夏生の懇願を、タエは渋々ながらも認め、夏生は一生の友人を得た。
「私と桜のセンスは所詮夏生ちゃんたちの足元にも及ばないってことで」
「もしかして、世代の違いかなあ」
 すっとぼけた夏生のちくちくに鋭い棘が生えた。
「夏生ちゃん、わざと言ってるでしょ」
「きっと夏生ちゃん世代と私たち世代じゃ色々違っているのかもね」
 菜乃佳がやんわりと桜を遮った。夏生がタエと同じような目で笑っている。
 夏生は美しいタエの所作をこっそり真似ているところがある。夏生は週末のたびに顔を出し、桜とともにタエに和裁を習いながらその仕草を観察しては、さり気なく同じ動きを繰り返している。
 そんなところまで真似なくてもいいのに。桜がぼそっと愚痴れば、菜乃佳が、本当にね、と角を丸く包むように笑った。



 三人のやりとりに目元を僅かに綻ばせながら眺めていた内藤が、少し離れた位置から聞こえてくるやりとりにすっと視線を向けた。
 二間続きの客間の玄関側で桜たちは座卓を囲み、客間の奥では、源三と宇都見、奈緒美と巧が向かい合うように並び、秀とタエが二組の間をそれぞれ繋ぐように座っている。
 内藤の視線につられ桜も顔を向けると、今まさに、巧と奈緒美が宇都見と源三に交際宣言、ひいては結婚宣言をしているところだった。
 取り成しているのは秀とタエで、秀は真面目な顔をしているものの、桜たちに背を向けてちんまりと正座しているタエの足の指が、完全に事態を面白がっていた。

「おお、懐かしいなあ、タエちゃんの部屋じゃないか」
 そんな快活な声を響かせながら源三が顔を出したのは昼下がりのことで、その「タエちゃんの部屋」から奈緒美が顔を出すと、源三は文字通り魂が抜けたように魂消(たまげ)ていた。腰を抜かしかけた源三を支えたのは、他ならぬ奈緒美に続いて同じ部屋から顔を出した巧で、硲を知る源三は一瞬で全てを察したらしい。

 座卓の前で妙にきっちり正座している源三は、半ば魂が抜けたまま声を発せないでいる。
 源三よりも少し遅れて内藤とともに現れた宇都見は、どこか腑に落ちた様子を見せながらも、巧をこれでもかと睨み付けている。
「お父さんとお母さんには、コウさんとの結婚の了承はもらっているから」
 主に説明しているのは二人の正面に座る奈緒美で、その横で巧は彼女の言うことにいちいちもっともらしく頷いている。その仕草がなんともわざとらしく、そう見えるのは桜だけではなかったようで、宇都見に「コウ、白々しいからその顔やめろ」と苛つかれている。
「じーさん、反対しても無駄だよ。コウがずっと想っていたのは奈緒美だ。奈緒美もずっとコウだけを好きでいたんだ」
 驚く奈緒美に宇都見がなんとも言えない面持ちで「引き合わせたの俺だもんなあ」と苦々しげに吐き出した。
「お兄ちゃんなんで──」
「知ってるかって? そりゃあ知ってるよ。コウの相手が奈緒美で、奈緒美の相手がコウだとは思わなかったけど、それぞれ忘れられない人がいることくらい俺にだってわかる」
 宇都見が諦めたように小さく溜息を吐いて、腐抜けている源三に顔を向けた。
「じーさん、実際問題、硲の人間に逆らえると思うか?」
「それにしたって、タエちゃん……」
 源三の情けない声に、タエがぴしゃりと言う。
「情けない男だね。私がついてるんだ、奈々ちゃんの孫を不幸にするわけないだろうよ」
 タエの喝破に源三の顔はいよいよ情けなく歪んだ。

 奈緒美がちらっと巧に視線を送る。巧がほんの少し怯んだように見えた。桜から奈緒美の表情は見えないものの、きっとまた巧をからかったのだろうことは、巧の表情から見て取れる。「あの二人って仲いいんだね」と囁く夏生の声には憧憬が滲んでいた。
 決して素直とはいえず、ああ言えばこう言う巧が、奈緒美にだけは言葉を詰まらせる。そんな巧をからかい混じりの笑顔でいなす奈緒美はなかなかどうして堂に入ったもので、この二人にも歴史あり、と桜は感慨深く思ったものだ。

「それにね、源ちゃん。源ちゃんがどう思ってるかは知ったこっちゃないけどね、私はずっと幸せなんだよ。もうずっと、ここに来てからずーっと、幸せなままなんだよ」
 タエが勇ましいほどの笑顔を見せた。
 タエの顔に刻まれているのは全て幸せ皺だ。笑ったときにできる皺ばかりで、顔をしかめたときにできる縦皺はほとんどない。皺などできないに越したことはないが、どうせできるならタエのような幸せ皺がいいと、桜はタエが笑うたびに思う。
「それにしたって、タエちゃん……」
「あーもうしつこい! いい加減しゃきっとしなさいな。いいかい、源ちゃん。三年後には披露目の宴だからね。よぼよぼになるんじゃないよ。ボケるなんて以ての外だよ」
「なんて言いい草だよ。傷心の爺にむち打つたあ、タエちゃんは鬼婆だね」
「鬼婆で結構。しょぼくれた爺なんぞ誰が相手にするもんか」
 そこからタエと源三の子供じみた言い合いが始まった。
 いつだったか、タエの前でだけ源三の口調は崩れるのだと、宇都見が惘れたように笑っていた。源三は孫の前では威厳ある口調で話すらしく、タエとのやりとりを初めて見る奈緒美は目を白黒させている。
 そして、タエもその傾向にある。四人で暮らすようになり、最初に口調を崩したのは巧で、それにつられるようにタエの口調も崩れ、秀や桜も親しみを込めたものに変わっている。
 気心の知れたタエと源三は、子供の頃の些細なことを引き合いに出しては文句を言い合っている。その頃の二人が容易に想像できるほど、その掛け合いはつうと言えばかあだった。

「コウが俺の義弟か」
「大変遺憾であります」
 どこかの政治家を真似た巧を宇都見が鬱陶しげに睨む。
「でもまあ、なんだかんだ言っても、奈緒美の相手がコウでよかったよ」
 宇都見はしみじみ言ったあと、ふと神妙な面持ちになった。
「で? 実家の方は大丈夫なのか?」
「どうかな。なんか言ってきそうだけど……まあ、そのときは俺がここの人間だって言うよ」
「さすがに知ってるか、長内グループのトップともなれば」
「どうだろうな。どっちにしても、奈緒に手出しはさせないよ」
「あー!」宇都見が何かに気付いたように目を見開いた。「そうだよ、奈緒美のことだけだ、コウが女の子の名前呼び捨てにするの」
 ようやく気付いた宇都見に、少し離れた位置から桜は何度も頷いた。

「そうなの?」
 小声で訊いてきた菜乃佳と興味津々と顔に書いてある夏生、これまた聞き耳を立てている内藤に、桜はもっともらしく頷く。
「そうなの。奈緒美さんのことだけ、奈緒って呼び捨てにしていたから、これはって。タエさんも気付いていたみたいで、二人でずっと気を揉んでたの」
「桜はいつ気付いたの?」
「んーと、日本に帰ってきて少しした頃かな」
「でもコウくん、女の人とっかえひっかえしてたって噂だよ?」
 夏生が座卓に身を乗り出し、それまで以上に声を潜めた。
「んーたぶんそれ、本当のところは違うんじゃないかな。コウさん、結構一途だと思う」
 桜の憶測に内藤が同意を示した。男同士、何か通じるものがあるのだろう。
「ってことは、うわあ、それってロマンスってこと?」抑えた声で夏生がはしゃいだ。
「ロマンスって、夏生ちゃんよくそんな言葉知ってるね」菜乃佳が妙に感心した声を上げる。
 思わず桜と内藤は顔を見合わせた。いまどきの若い子はロマンスなんて言葉を使うのか。内藤の視線がそう訴えていた。
「こないだ美貴ちゃんが言ってた。なんかいい感じの言葉だったから私も使おうと思って。美貴ちゃん結構本を読む方だから、色んな言葉を知ってるんだよね」
「ああ、それで最近夏生ちゃんも本読んでるの?」
「あー……」と夏生はばつが悪そうに笑った。「あれはマンガ。松木が貸してくれたの。菜乃佳さんも読む? 結構面白いよ」
「どんなの?」
「ヒーローズ・ルチーフェロって、デストピアの日本が舞台で、ヒロシっておっさんの探偵事務所で活躍する一癖ある所員たちの話。ちょっとアメコミっぽい」
「ルチーフェロ?」
 菜乃佳が、どこかで聴いた覚えが、と首を傾げた。
「ルシファーのこと」と桜も首を傾げる。「なんでルシファーじゃなくてルチーフェロ?」
「さあ。語感じゃない?」
 夏生が気のない返事をする。
「イタリア系アメリカ人の父と日本人の母を持つヒロシが、荒廃した東京で何者かに両親を殺害され、その復讐心から裏家業的な探偵事務所を開設するのです。いわゆるヒロシは影のボスというポジションでして。私、コミック、愛蔵版、アニメDVD、劇場版DVD、各種フィギュア等、全て所持しております」
 内藤が興奮気味に訴えてきた。本日一番の滑舌だ。
「みゃん太郎のフィギアも?」
 みゃん太郎? と首を傾げる菜乃佳に、探偵事務所の看板犬、と夏生が桜や菜乃佳が真似できないほどの早口で答える。
「もちろんです。みゃん太郎は複数所持しております」
 内藤がすかさずスマホの画像を夏生に見せる。いくつかのポーズ違いの不細工な犬が五体も並んでいた。
「これとこれは同じものを二三所持しておりますから、お分けするのもやぶさかではございません」
「いいの?」と言いつつ夏生は嬉しそうだ。「そういえば松木がリューリンのフィギアが手に入らないって言ってた」
「もしやこれでしょうか?」
 内藤の指がスマホの上で忙しく動いた。
「そうそうそれ!」
「これは限定の上、予約の段階で抽選になりましたから」
「でも内藤さんは持ってるんだね」
 すごーい、と歓声を上げる夏生に内藤はまんざらでもなさそうだ。
「内藤さんって、ヒロフェロマニアなの?」
「私の夢は、定年後マーサーズ・ルチーフェロを開設することです」
 夏生が若干引いている。桜も菜乃佳もさっぱり話がわからず顔を見合わせた。互いに興味がないことがなんとなく確認できた。
「復讐系?」
「いえ、平和系です。主に行方不明のペットの捜索など」
 呆れ気味の夏生が、暇だったら手伝うね、と適当なことを言った。

「ってことは、内藤さんの奥さんもヒロフェロファンなの?」
 何気ない夏生の問い掛けに、内藤が瞠目している。その表情の変化から、桜は内藤があえて周囲に野暮ったさを印象付けようとしているのだと悟る。
「なぜ……」
「だってそれだけ集めるのって、奥さんもファンじゃないと難しいんじゃないの? 定年後の話とか、奥さん賛成してないと無理でしょ」
「いえそうではなく、なぜ私が妻帯者だと思われたのですか?」
 内藤の視線が鋭く夏生を刺す。それまでにない内藤の鋭利さに夏生がたじろいだ。
「だって内藤さん、この二人を目の前にしても動じないし、もしかして女の人に興味ないのかなって思ったんだけど、シュウくんやコウくん見ても何も感じてないみたいだし、ってことは、内藤さんの年から考えると結婚しててよっぽど奥さんが好きなんだろうなって」
「内藤さん、実はご結婚されていたんですか?」
 菜乃佳が声を潜めた。
「実はって、もしかしてウツミン知らないの?」
 夏生が目を丸くし、内藤を真似るように声をくぐもらせた。
「知らないと思う。秘書は二人とも独身って言ってたから……」
「あえて公言していないだけです」
「公表しないんですか?」
 桜も自ずと小声になる。内藤に関する秘密がもう一つ増えた。おそらくタエは知っているだろう。
「前職が検事でして、比較的特殊な案件を扱うことが多かったものですから、逆恨みの懸念から伏せておりました。それが現在もそのままになっております。この風貌ですと特に尋ねられたりもしませんので」
 自虐的に笑う内藤に生活感はない。よくよく見れば、隙のないスーツ姿はさすが議員秘書と感心するほどだ。
「失礼ですけど、お子さんは?」
 確か男児が三人生まれるとタエは言っていたはずだ。桜が見る限り、どうにも内藤に父親というイメージが重ならない。
「私が社会に出る頃には、すでに長兄に一人、次兄に二人子供がおりましたので」
「それってまさか、三兄弟合わせて三人ってことですか?」
 今度は桜が瞠目する番だった。
「そうです。タエさまからお聞き及びですか?」
 菜乃佳と夏生は聞こえないフリをしている。二人は硲に関する一切を聞き流し、口を噤む。誰に言われたわけでもなく、おそらく二人でそう決めたのだろう。ただし、見る。見て察して踏み込まない。
 内藤のことも彼女たちから漏れることはないだろう。それは桜のみならず硲の当主であるタエがそう判じているからこそ、菜乃佳も夏生も硲の内にいられるのだ。
「はい。つい先日聞いたばかりで……てっきりそれぞれ三人ずつかと思っていました」
 残酷だ、と桜は思った。この硲と呼ばれる場所は残酷を人に強いる。桜の表情を見て、内藤がかすかに笑った。
「妻は納得して私のもとに来てくれましたから」
「内藤さんさえいてくれればいいと」
 ええ、と照れたように内藤が笑った。
 ふと桜が視線を向けると、穏やかにほほ笑む秀と目が合った。巧の横で奈緒美も柔らかに笑っている。思うことは誰しも同じなのかもしれない。もっさりとした外見の内藤が桜の目には凜と映った。

「ところで菜乃佳さん、婚約はどうなさるおつもりですか」
「婚約……やはりした方がいいのでしょうか」
 ぼそぼそと喋る内藤に、菜乃佳のほんわりした声が答える。
「正直まだお付き合いが始まったばかりなので、そこまでは……」
「できればお付き合いするにしてもきちんとした形の方が後援会も納得しますから」
「後援会に納得されないと付き合えないの?」
 夏生の刺々しい指摘に内藤が苦笑う。
「そういうわけではありませんが、宇都見は立場が立場ですし、正式に、という思いが我々にもあります」
「菜乃佳さんならそんなことしなくてもウツミンの立場を悪くしたりしないよ」
 夏生の口調は、まるで姉を庇う妹のようだった。
「ウツミンがびしっと決めないから……国会議員のくせに。どうせ婚約だって菜乃佳さんを逃さないための手段なんだよ」
 夏生がぶつぶつ不満を口にする。
「夏生ちゃん、聞こえてるから。そこ国会議員関係ないから」
 離れた位置の宇都見が声を上げた。
「うわー、地獄耳。悪口だけは聞こえるとか、うわー」
「それも聞こえてるから」
「菜乃佳さん、いいの? こんなんで。菜乃佳さんならもっといい彼氏がいくらでもできるのに」
「もう、夏生ちゃんってば、言い過ぎ。それに私モテないから……」
「そんなわけない。桜さんも菜乃佳さんも自己評価低すぎ」
「さっきはセンス悪いって言ってたくせに」
 桜がここぞとばかりに文句を言うと、夏生はしれっとすっとぼけた。
「悪いとは言ってないもん。センスなくたってモテる人はモテる」
「だから夏生ちゃん、言い方……」
「まあ、シュウくんはいい男だから桜さんはいいとして、ウツミンに菜乃佳さんは勿体ない」
 いつの間にか夏生の背後に立っていた宇都見が彼女のつむじにぐりぐりと拳をめり込ませた。
「痛いし! セクハラだし!」
「夏生ちゃん、なんでそんな口悪いわけ?」
「ウツミンにだけだよ」
「ウツミン言うな、ツオミンめ」
 夏生の横にしゃがんだ宇都見が不機嫌を隠さず彼女のおでこを軽く指先で押す。
「ナを取るな!」
 仰け反った夏生も負けじと両手で宇都見の胸をどんと思いっきり突いた。宇都見が体勢を崩し、その場に腰を落とすと、夏生がしてやったりの顔をする。
 なんだかんだ言っても、この二人もうまくやっていることがそのやりとりから伝わってくる。
「いいか、菜乃佳さんを幸せにできるのは俺だけなの。わかる?」
 宇都見にしては思い切った言葉に、菜乃佳は照れに照れ、巧が冷やかしの声を上げる。それに夏生がむっと顔をしかめた。
「そんなわけない! ウツミン以上に幸せにできる人はごまんといる」
「まったく。何が気にくわないわけ? 夏生ちゃんから菜乃佳さんとったりしないよ」
 ぐっと言葉に詰まった夏生は、ふん、と大人気なくそっぽを向いた。
「あのなあ、夏生ちゃんが嫁に行っても、帰ってくる家はうちなんだよ。だから大学も就職もうちから通える範囲で決めろって言ってるだろ」
「私の部屋、夏生ちゃんが使っていいからね」
 夏生がはっとしたように奈緒美に顔を向けた。
「私はここに住むから。そうしたら夏生ちゃん、悪いけど時々でいいからお祖父ちゃんの相手してやって」
 奈緒美を見る源三の情けない顔といったらなかった。
「この腑抜け爺の相手が嫌だったら、ここに逃げてきてもいいよ」
 タエがにやにや笑いながら口を挟む。
「爺の相手なんかしなくてもいいんだよ。夏生ちゃんはうちにいてくれるだけでいいんだから。今の爺の生きがいは夏生ちゃんだけなんだから……」
 慌てたように源三が情けない口添えをし、宇都見が「ボケたら叩き出すからな」と家族ならではの辛辣な物言いをすれば、源三が「何を言うかこの根性なしが」と噛みついている。
 私は別に……ともごもご言う夏生の目の端は僅かに赤らんでいて、それを目にした菜乃佳がそっと囁く。
「夏生ちゃんがいてくれないと、喧嘩したときに私の味方になってくれる人がいなくなっちゃう」
 はっとしたように菜乃佳を見た夏生が力強く頷いた。
「そうだよね、源爺だって所詮ウツミンのおじいちゃんだもんね。今はこっちの味方っぽいこと言ってるけど、いざとなったら寝返るかも」
 ふふ、と柔らかに笑う菜乃佳に夏生が「まかせといて」と決意を漲らせた。