硲153番地
サンクチュアリ
端緒③


「あんた昨日どこにいたの?」
 二月に入ってしばらくした月曜日、夏生が学校帰りに家に寄ると母親がコートも脱がずに待っていた。部屋の中は冷え切っていた。少しでも高いところにいれば寒さを凌げるとでも思っているのか、彼女は木製のローテーブルの上に夏生の薄い布団を無造作に敷き、その上に膝を抱えてぼんやり座っていた。
 夏生は慎重にそれでいてさり気なく答える。
「友達んち。最近よく泊めてもらってる」
 それまで虚空を見つめていた母親の目が夏生の声に焦点を結び、鈍い光を宿す。
「ふーん」と鼻を鳴らす母親は、あんたに友達なんていたんだ、と言いたげで、夏生は目を逸らしたくなるのをぐっと堪えた。
 夏生の母は一頻り夏生の姿を眺めると、急に興味を無くしたようにふいっと立ち上がり、機嫌よく何かを口ずさみながら家から出て行こうとする。
 彼女がこの家で目覚めることをやめたのはいつだったか。夏生が中学に入る頃にはこの部屋で眠る母の姿を見ることはなくなった。
 ローテーブルからずり落ちようとしている布団の上に千円札が三枚散らばっていた。夏生のひと月分の生活費だ。多いのか少ないのか、夏生にはわからない。平日は給食があるので夕食はできるだけ我慢する。休日の食事は一日を通して二百円以内でなんとか済ます。時折母親が買ってくるスーパーのお弁当がとにかく嬉しかった。半年前までは。
「お母さん、電気とガスが止まってる」
 母親の背中を夏生の声が追いかける。言外に、だから友達の家に泊めてもらったのだ、という言い訳を含ませたが、彼女がそれに気付いた様子はない。そんなニュアンスに気付くほど彼女は夏生に興味がない。誰の家に泊まっているかの確認もない。
「あっそ」
 返事はそれだけだった。夏生の言葉はいつも一方通行だ。届いているだけマシなのだろう。
「あと、高校の授業料免除の申請……」
「自分でやれば」
 かつんかつんと鉄製の外階段を打ち付けるヒールが遠離る。夏生は、この分だと近いうちに水道も止められることを覚悟した。少なくともあと三年は夏生の存在が必要なはずだ。それともあの母親のことだ、子供はひとりで生きていけるとでも思っているのか。これまで夏生が必死の思いでなんとかしてきたことを当たり前のように考えている。親はなくとも子は育つと本気で信じているのだ。
 家賃の滞納だけはない。あの母親にも住所は必要なのだ。夏生が「子供」でいる限りは。

 朝焼けと夕焼けは似ている。オレンジの光が薄暗い部屋に濃い影を生む。光と影の境界がちらちらと蠢く。
 夏生は身震いした。
 こんなことなら保険をかけておくんだった。
 蘇る声を振り切るように夏生は急いで暗い影が重なり合う部屋を出た。
 風雨に汚れ錆の浮いた薄く冷たい鉄の扉を閉め、簡単にピッキングされそうな鍵をそれでもかける。今にも爪先がぱかりと口を開けそうなスニーカー、どこからか母親がもらい受けてきた三年経ってもサイズの合わない中学の制服、何度も繕われたソックス。それを確かめた母親の至極満足そうな蔑みの目が夏生をどこまでも沈めていく。
 桜や菜乃佳に出会った後だからよくわかる。彼女たちは本物で、夏生の母親は偽物だ。美人のカテゴリーに本物と偽物があることを夏生は実感を伴って知った。
 ぎしぎしと錆びた音を立てる自転車はアパートの住人が引っ越しの際に譲ってくれた物だ。ペダルを踏む足に力が入る。夏生は一刻も早くあの場所で息づきたかった。

 夏生は桜たちに買ってもらったものを宿坊に預けている。
 宿坊では夏生が泊まった部屋は夏生専用としてキープされ、宿泊料金は桜が支払ったことを夏生は宿坊の人から知らされた。デパートに出掛けた翌朝のことだった。
 桜にお礼を言おうと夏生は何度も桜と歩いた道を逆戻りしてみるも、どういうわけかあの裏道のような小径を見付けられずにいた。桜が料金を払ってくれたと知った日の朝、宿坊の人に頼んで桜に電話でお礼を言ったきり、直接会うことができずにいる。夏生は恩知らずになるのだけは嫌だと思った。宿坊の人に何度尋ねても「時期が来ればお会いいただけるでしょう」という、一体桜は何者なのかと怪訝に思うような回答しかもらえない。
 宿坊の料金は一泊五千円。長期滞在は一ヶ月以上で四割引、三ヶ月以上になると六割引になる。
 夏生が使っている部屋の入り口に取り付けられたチャイムボタンの上には「なつ」とひらがなで書かれたプラスチックの小さな札が下がっている。よく見れば同じような札が下がっている部屋がいくつかあり、そのうちの一つは夏生にシャンプーを分けてくれた女性の部屋だとわかった。
 宿坊は全部で五十三室ある。そのうち三室は大部屋で、そこは素泊まり三千円。布団のレンタルが一組五百円で、バックパッカーたちの多くは男女に分かれた大部屋に寝袋持参で泊まる。日本人より外国人が多い。誰もが夏生から見ればエキセントリックだった。

 夏生は平日はなるべく家に寄ってから宿坊に戻ってくる。家にいる気配を残すためだ。水道はまだ止まっていない。それまで通り掃除し、それまで通りの生活を再現する。
 夏生は宿坊でシャンプーを分けてくれた女性と仲良くなっていた。おばあちゃんというには若々しいその人の部屋には「みち」という名札が下げられ、美智代(みちよ)だと教わった。
 いつも着物姿の美智代は、割烹着を着て厨房に立ち、日本の家庭料理を作っては、宿泊者たちから喜ばれている。ついでよ、と笑いながらいつだって夏生の分も食事を作ってくれ、見かねたのか箸の正しい持ち方や食事のマナーを教えてくれる。夏生が見様見真似で身に着けたものを最初から丁寧に正してくれるのだ。夏生に限らず箸を使おうとする外国人たちにも同じように一から丁寧に教えている。
 夏生にとって美智代は願ってもない存在だった。

 自分を下げるような態度は改めた方がいい。自分が損をするだけだ。

 タエの言葉が夏生の心に刺さっていた。言われた直後は強い反発を覚えた言葉が、じわじわと夏生の中に沁み込んできた。
 面と向かって言いにくいことをはっきり言う大人は少ない。借り物の言葉をもっともらしく言う大人はいても、自分の内から滲み出る言葉を毅然と言う大人は夏生の知る限りそう多くはない。夏生は信じられるか否かをこれまで肌で感じてきた。好き嫌いは別として、タエはおそらく信じられる大人だ。
 桜や菜乃佳と一緒に過ごした時間が夏生にそう思わせたのは間違いない。あの二人には品があった。夏生の母親との大きな違いがそれだ。夏生は美人にはなれなくとも、品良くありたいと思うようになった。美智代も品のある大人の女性だ。

 この数日で夏生は劇的に変わろうとしていた。夏生自身それを強く自覚していた。ここで変わらなければ一生変われないままだ、という強迫観念にも似た意思のもと、夏生は貪欲なほど変化に必要な知恵を吸収していた。

「あら、夏生ちゃんS高校に受かったの? 私の孫もS高校なのよ。とはいってももう卒業しちゃうから夏生ちゃんとは入れ違いね」
 それを聞いて夏生はとある願いを口にしかけたところで、先廻るように美智代が言った。
「S高の制服、よかったらもらってくれないかしら。うちの孫ね、受験勉強のしすぎでストレス痩せして三年の春に制服買い直しているのよ。一年も着ていないとはいえ、夏生ちゃんはお下がりって嫌かしら」
「いいんですか?」
「あら、もらってくれる? 捨てるの勿体ないって言ってたのよ」
「記念にとっておかないんですか?」
「そういうタイプの子じゃないのよ。なんでもすぐ捨てちゃうの。なんだったかしら、断捨離? そういうの流行ったでしょ?」
 捨てるものがほとんどない夏生には縁のない流行だ。
「私はどちらかといえば夏生ちゃん側なのよね。リメイクして楽しむタイプなの」
 夏生の場合はそうせざるを得なかっただけで楽しんでいるわけではない。
「夏生ちゃんはミシンがあればお洋服も作れそうね」
「家庭科の課題でパジャマを作ったことがあります」
 貰い物のタオルで作った。今も寝るときに着ている。夏生は家庭科室のミシンを時々使わせてもらっていた。糸や端布を家庭科の教師が分けてくれた。
 夏生は他人の情けで生きている。小狡く人の優しさに付け込み、卑しく同情の加減を見極めながら生きてきた。

「ふーん、あなたがナツオ?」
 胡乱な目で上から下まで眺めたS高の制服を着た女子は、三度も上から下まで夏生の姿を眺め回し、ついでに夏生の周りを一周し、再び目の前に立ったときには満足そうに笑っていた。
「私より細いから大丈夫だと思うな。ウエストは適当に詰めて。とりあえず夏服を持ってきたから着てみて」
 彼女のてきぱきとした口調は小気味好かった。絵に描いたような優等生タイプだ。眼鏡までかけている。
 二月の半ば過ぎ、美智代さんに呼ばれて彼女の部屋にお邪魔すると、その孫が仁王立ちで待っていた。夏生よりも少し背が高く、油断ない目つきの、なかなか迫力のある孫娘は生徒会の副会長だと胸を張った。
 渡された夏用の紺地のタータンチェックのプリーツスカートに足を入れる。ジーンズの上から穿いて丁度いい。シャツの上からベストを被る。いきなりS高生になれたようで夏生の心は浮き立った。
「ほっそいなあ」
 感心したような孫娘の声にはどこか憂慮の気配があった。夏生自身も痩せすぎを自覚している。
 ブレザーを脱いだ孫娘が「ぬくもり付きだけど」と夏生に手渡す。着てみると全体的に少し大きいもののみっともないほどではない。
「身長まだ伸びてる?」
「たぶん」
「じゃあ、一年後には丁度よくなるかな」
「本当にもらっていいんですか?」
「いいよ。どうせ捨てようと思ってたし。冬服一式は卒業式のあとで持ってくるから」
 夏用のスカートなどほとんど新品だ。ブレザーだって汚れもほつれもテカリもない。そっと丁寧に脱いで孫娘に渡す。
「あとね、教科書もいるでしょ?」
「いいんですか?」
「どうせ捨てるつもりだったから。持ってくるの大変だったけど。ついでに本当大変だったけど参考書も持ってきた」
 孫娘は大変をことさら強調した。
「もう必要ないないから全部持ってきた。三学年分。本当重かった。お父さんは車出すの渋るし。教科書変わらなければ使えるはず」
 二重にされた紙袋や段ボール箱の中から次々とローテーブルの上に積まれていく教科書や参考書。
「とりあえずうちの顧問に聞いたところメーカーの変更はないみたいだから、内容的にはほとんど変わらないはず。そのかわり」そこまで一気に言った孫娘は顔の前で両手を合わせた。「お願いがあるの」
 孫娘は両手を合わせたまま、夏生の顔を不躾にのぞき込んできた。
「生徒会に入ってほしいの」
「私が?」
「そう、毎年なり手がいなくて。苦労して人を集めるんだけど、すぐやめちゃう子ばっかりで。基本的に一年生は雑用なんだけど、行事ごとに結構扱き使われるから……って、そんなにブラックな感じでもないんだけどね」
 慌てて言い繕ったところで遅い、と夏生は苦笑いした。彼女は感情が素直に出る質なのだろう。
「大学、結構いいとこ狙ってる?」
 窺うような孫娘の視線に、夏生は仕方なく答えた。
「大学は無理だと思うし、部活に入るつもりもないから、バイトに支障がない範囲でなら手伝えます」
「大学無理って? もうバイトの予定があるの?」
(あゆみ)」と咎めるような美智代の声に、孫娘はびくっとして彼女の祖母に目を向けた。それまで黙って二人のやりとりを見ていた美智代の表情は険しかった。
「ごめん、立ち入ったこと訊いたかも」
「大丈夫です」
「ごめんね。私結構ずけずけ言っちゃう方で、自分でも直そうと思っているんだけど、なかなかね」
「全然嫌な感じはしませんでした」
 そう取り繕ったあと、実際に嫌な感じはしなかったなと改めて夏生は気付いた。ならばと思いきって口にする。常に周囲に埋没するよう気を遣ってきた夏生にとって、それは一種の賭のようなものだった。
「うち、シングルマザーでネグレクトなんです」
「あー、うちとは逆か」歩が嫌そうに眉を寄せた。
「逆って?」
「うちは過干渉。子供がストレスで痩せちゃうくらいひどいの」
 夏生は思わず美智代を見た。美智代は困ったように笑っていた。
「お母さんとおばあちゃんの折り合いが悪くて、おばあちゃん家出しちゃうし」
「家出じゃないわよ。湯治よ、湯治」
 しれっと言い放つ美智代に夏生は力の入っていた頬を緩めた。
 思った通りだった。年を重ねるごとに夏生の境遇について過度の意識はしなくなる。高校を卒業しようとする歩にとって、ネグレクトなど特に騒ぎ立てるほどのことではないのだ。
 夏生の緊張の解れにつられるように「ここ温泉旅館じゃないのにね」と歩が苦笑した。
「でも、そのおかげで私もおばあちゃんのところに行ってくるって逃げ出せるんだけど」
 夏生ははっとして歩を見た。歩はなんてことないように、ぺろっと舌を出して笑う。美智代はしたり顔で目を細めている。思わず「いいな」と口走るほど夏生は歩が羨ましくて仕方がなかった。
「元CAの大和撫子なんだよね、うちのおばあちゃん。私の自慢。あー、家のこと友達には言えないからなんかすっきりした。夏生が自分のこと話してくれたおかげ。ありがと」
 夏生は驚きから目を丸くした。同情されたり気まずさを隠すように目を逸らす人が多い中、お礼を言われた経験などこれまでにない。
「生徒会にもね、夏生と似た立場の子がいるの。夏生とも気が合うような気がするけど……逆に合わないかな。ちょっと性格に難ありだし。どっちだろう。でも、いい相談相手になると思う。支援制度のこととかよく知ってるから」
 夏生のような存在は珍しくない。大半がいわゆる普通といわれるような家庭の子供であっても、歩のように内部で何かしら問題を抱えている場合もある。
 家族とはなんだろう、と夏生は常に考えている。端からは恵まれて見える桜ですら、蓋を開けてみれば孤児であり本人が逃げ出さなければならなかったほどの何かを抱えていた。
 子供の頃の夏生は自分だけが不幸なのかと思っていた。ところが、保護された場所にはそれ以上に不幸な子供がうんざりするほどいた。おまけに暴力がないだけ夏生はマシな方だった。
 親が親権を持つなら、子供が子権を持つことはできないのか。親が親権を放棄できるなら、子供も子権を放棄することはできないのか。夏生はずっとそれを考えている。